ホーム > DJ中島ヒロトを追ってみた! > ヒロト(50) 初めての履歴書/前編 ヒロトの熊本~福岡奮闘記

 
 

 

出演情報

FM802『THE NAKAJIMA HIROTO SHOW 802 RADIO MASTERS』
毎週月~木曜 13:00~17:00

関西テレビ『ミュージャック』
毎週金曜25:55~26:25

Live

『第1回 Happy and Fun Music Festival』
7月14日(土)一般発売 Pコード:118-590
▼9月30日(日) 13:45
服部緑地野外音楽堂
全自由-3950円(整理番号付、ドリンク代別途要)
[出演]中島ヒロト/DENIMS/NakamuraEmi/Keishi Tanaka/他
[ゲスト]荒井岳史/村松拓/スキマスイッチ(TALK GUEST)
※雨天決行・荒天中止。小学生以上は有料。
GREENS■06-6882-1224
チケット情報はこちら

今年5月、節目の50歳を迎えたことを機に「ぴあ関西版WEB」で連載がスタート!
なにはともあれ「中島ヒロトとは?」のご挨拶を兼ねて、
履歴書を書いてみながら、自身のこれまでの50年の歩みを振り返ってもらいました。
前編では地元・熊本での青年時代〜会社員だった福岡での奮闘ぶりをお届け!

 

アナウンサーの夢を持ち始めた熊本時代

――今日は読者へのご挨拶も兼ねてヒロトさんに履歴書を書いていただこうと思ってますが、学生時代も含め、履歴書ってたくさん書いてきましたか?

いや、多分今日初めて!なんかワクワクしますね。 人に恵まれてここまで来たんで、形式ばった履歴書を書いた記憶はないかなあ。 早速書いていってもいい?

――ぜひ、よろしくお願いします。まず学歴からいきましょう!

1984年に熊本の中学を卒業したんだけど、1984年卒業っていうのは絶対に忘れないの。ちょうどMTVが流行った時で、めちゃくちゃ音楽を聞いてた頃。この頃の洋楽が大好きで、マイケル・ジャクソンとかプリンスとか聴きまくってたな。小5からブラスバンドでトロンボーンやってたんで、中学3年間はブラスバンド部。とにかく部活に打ち込んで、僕が作曲したドラムマーチを後輩たちが僕の卒業式で演奏してくれて、号泣しちゃうぐらい一生懸命部活に打ち込んでました。実は中学3年間はめちゃくちゃ勉強もできたんですよ。定期テストとかは常に1番から3番ぐらいで、英語は3年間満点しか取ったことがなかった。近所では「神童」って呼ばれてたぐらい。でもいまだに英語は全く喋れない(笑)。進学した熊本高校は、現役で東大合格者を出しちゃうような県内トップの進学校だったの。

――勉強は余裕でついていける感じだったんですか?

や、もう全然無理!すぐついていけなくなって、「ここまで要領だけで来たなあ」って気づいて。勉強しなくなって、音楽ばっかり聴き始めちゃいましたね。高校ではもうブラスバンドはいいかなぁと思って「超ラクらしい」っていう適当な情報だけで放送部に入ったんだけど、
ラクらしいっていうのはデマで、実はコンクールに出るほどの厳しい放送部だったの。うわ!って思ったけど、今思えばこの業界に興味を持つきっかけだったよね。当時はアナウンス部門でコンクールに出たりしてたよ。

放送部に一緒に入った洋楽オタクの友達とよく遊んでて、彼の兄貴も洋楽オタクでレコードを死ぬほど持ってたんだよね。その頃にビルボードチャートを知ったりFMチャートを教えてもらったり、音楽の情報をどんどん得ていった感じかな。ちなみにその友人は今や、某レコード会社の偉い人になっちゃった(笑)。

 

大学にはなんとなく行かず、テレビ&ラジオのADに!

こんな仕事をすることになるとは思ってなかったから、高3の時に受験したのは歯学部。親の希望もあったりとかして、まあなんとなく受けたって感じで。でも高校3年間遊んでたから、もちろん見事に落ちて浪人しちゃった。4月に予備校に入って、直後の5月には「俺はもう歯学とか医学とか無理だ!血怖いし、文系に行きたい!」って、親に直談判。高校の時にはAMラジオが好きで聴きまくってたから、実はAMラジオ局のアナウンサーになりたかったの。だから「文系に行かせてくれ!」って1カ月かけて交渉して、受験の条件としていくつか大学名を挙げられて、ここに行くならいいと。それで、翌年になんとか受かったのが地元の熊本大学の法学部だったんだよね。

――あれ、でも履歴書には1990年に中退って…

熊本大は1年生で単位が取れないと、進級もできないのね。全然大学には行ってなかったからずっと1年生のままで。1年生の終わり頃に友達が熊本のDJ・タレントスクールの生徒募集広告を持って来て進めてくれたオーディションがあって選ばれたらその会社と契約してレッスンを受けるっていう内容だったんだけど、2回目の1年生の春にそのDJオーディションを受けたら、受かっちゃったの!そこに週3回レッスンに通ってたんだけど、会社の人に「興味があるなら、裏方でもバイトしてみる?」って言われて、学校つまんなかったしこっちの方が楽しそう!ってテレビとかラジオ制作のADとしてアルバイトし始めた感じですね。その頃覚えたのは、「誰よりも遅く弁当を食べ始めて誰よりも早く食べ終わること」(笑)。下っぱ仕事をしながらレッスンも受けてたら地元のCMのナレーションの仕事が来たりして。そういう感じで仕事ばっかりしてたから、いよいよ大学も中退することになってね。中退したタイミングで、「正社員になれ!」「なります!」と。その頃に熊本放送で新番組が立ち上がることになって、ディレクターに抜擢されたの。

――ディレクター? DJではなく?

そう、ディレクター。社長に「お前が番組を作れ、DJはオーディションしよう」って。そこから僕自身もめちゃくちゃたくさんの人の面接をしたけど、ピンとこなくてね。社長も同じだったみたいで、「じゃあ、お前喋ったら?」って。そしたら先輩も「私がディレクター席に座るけど、君が好きに作ったらいいよ」って言ってくれて、プレイングマネージャーみたいな感じでスタートしたのが『燃えろ!サタデーナイト』。「DJ」じゃなくて、喋りが中心の「パーソナリティ」の肩書きでした。

――いつの間にか夢が叶ってたんですね。

そうそう。そうなの。『オールナイトニッポン』に憧れてたもんだから、頭30〜40分ぐらいフリートーク(笑)。学生アシスタント3人ぐらいに向けて喋りまくるスタイルでやってたなあ。この番組は4年やったんだけど、やってる最中に福岡にCROSS FMが開局してね。当時働いてた会社が福岡でも番組を作ることになって、支店長的な感じで福岡で番組作りつつ、熊本でパーソナリティもする二足のわらじ生活が始まって。そんな時にCROSS FMがDJを募集し始めて、局内には応募テープのダンボールがあってたくさん集まってたんだけど、「これ、チャンスかもしれない」って急に思って急遽自分のテープも作ってそこにそっと混ぜといたんだよね(笑)。そのテープを聞いた編成の人が「これ誰が持って来たテープ?この人会える?」って。声かけてくれた人は僕の名前もよく知らなかったみたいで、そこで初めて「これ僕です!」って言ったんだよね。

勝手にやったことだったんだけど、選ばれたことでうちの社長が喜んで「よっしゃ、喋らせてもらい!」って、CROSS FMでも番組を持つことになったの。実は自慢なんだけど、CROSS FMの開局の時の番組の第一声は僕なんだよ!

――へー! すごい!

佐藤竹善さんが出演したりしてくれてたなあ。CROSS FMでは番組を2つ持たせてもらっていて月~木曜は福岡でチーフディレクター、金曜と日曜はDJ、土曜は熊本でパーソナリティっていう生活をしてるうちに過労で倒れちゃって。そこから急にじっくりと自分のことを考えるようになった時に来たんだよね。「FM802のDJオーディションを受けませんか?」って話が。

 

ついにきたFM802オーディションの話!
履歴書は後編の「ヒロトの大阪&FM802の蜜月記」につづきます。

 

DJ中島ヒロト自筆の履歴書はこちら(※クリックすると画像が大きくなります。)

 

 

写真:河上良(bit Direction lab.)
編集・企画:桃井麻依子

企画:高橋ハジム