ももクロから西田敏行までがデビュー45周年を祝う
『黒フェス』が9/6(日)=“黒”の日にいよいよ開催へ!
枯れることを知らない気力の源とその音楽人生をたどる
松崎しげるインタビュー&動画コメント
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9月6日(日)千葉・幕張メッセにて。いよいよデビュー45周年を記念した一大イベント『「黒フェス」しげる祭 ~白黒歌合戦~』を開催する松崎しげる。'70年のデビューから間もなく、今なお歌い継がれている名曲『愛のメモリー』が大ヒット。その日本人離れしたパワフルなボーカルと情感豊かな表現力で、瞬く間にその名を知らしめた。また、若かりし頃からのトレードマークの“小麦色の肌”も健在。年を重ねるごとにますます黒さに磨きがかかり、不動の地位を築いている。また、近年は世代を超えたコラボレーションも積極的に行い、ももいろクローバーZのライブに登場し、重大な発表を告知する“広報部長”としてすっかりおなじみに。昨年は西川貴教主宰の『イナズマロック フェス 2014』に出演し、白黒共演を果たすなど、老若男女を問わず愛されるキャラクターへと進化している。デビュー45周年を記念してリリースしたカバーアルバム『私の歌~リスペクト~』も大好評。松崎が今、残しておきたい、歌い継ぎたいと願った楽曲をカバー。楽曲の良さは残しつつも、見事なまでに松崎色に塗り替えた聴き応えのある1枚となっている。常に芸能界の第一線を走り続け、衰えることを知らない松崎の、気力の源を探った。
“歌いたい、歌いたい”という気持ちで来てる45年間なのかな
――45周年おめでとうございます!
「ありがとうございます! まあ、昨日が今日に変わったくらいで(笑)。ただ、振り返ってみると、いろんなことをやってたなぁって…こういう取材でまた思い出すというか。よく2000本安打を達成した人に“すごいですね”って聞いたら、“ただの通過点です”って言うじゃない? 俺にとっても通過点です。まだまだあるよ、いっぱいって」
――感慨深い想いなどは?
「ドラマだったりいろんなことをやって、残ったものもいっぱいあるんだけど、まだ続いている感じがするんです」
――長さではいかがですか?
「短いですよ。あっという間でした。45周年でしょう。その前にバンド経験が2年あって、そのときのマネージャーが宇崎竜童くんで、バンドの残党がガロっていうグループを作って。ガキの頃に音楽で飯を食っていこうとしたメンバーが、ずっと(音楽で)メシを食ってくれていて嬉しいです。でも、デビューしてソロ歌手になったときなんか、“何で俺、こんなに歌う場所が少ないんだろう”って思ってたよ。バンドやってる頃って、1日50~60曲ガンガン歌ってたのに、歌い手になった途端に1ヵ月に1回、歌うか歌わないかぐらいで。“こんな仕事がないの!?”みたいな。だから、その頃は友達のところに行ってステージで歌ってたね」
――それはお仕事とは関係なく?
「全く関係なく。やっぱり、いつも音が刺激となって動かしてくれていたので。それが少なくなって、レコードが出たのはいいけど“何じゃこれ”みたいな」
――お仕事としてはどの時期から軌道に乗ったんですか?
「やっぱり『愛のメモリー』が売れた'77年くらいかな。毎日スタジオとかラジオで歌ったり。だけど、テレビに出ると、またそこでつまんなくてさ。『愛のメモリー』1曲でおしまいだから。“1曲のために何で1日もかかるんだよ”って(笑)、もう怒られちゃいそうなことを思ってて。板(ステージ)の上で仕事をするのが自然だったので、テレビで1曲歌うのに何でこんなに時間を費やすんだろうって思ってた。その1曲の重みは、気持ちの中ではすごく感じてはいたんだけど…“歌いたい、歌いたい”という気持ちで来てる45年間なのかな」
――歌いたいという欲求はまだ溢れていますか?
「はい。新しいアルバム(『私の歌~リスペクト~』)を作ったときも、もう次のことを考えてましたから。“うわ、俺、こんなもんじゃないよ”っていう、そういう自分の強さというのか、気力があるというか。ついこの間も同窓会があって、みんな気力がないんだよね。老人ホームに行った芸能人みたいなもんでね(笑)、おいおいおい!って。でも、飲み出して1時間もすると、みんな口々に“マツと会うと元気が出るんだよな~”って。それは嬉しいことでね。同年代が僕を見たときに、“あの野郎、何であんな元気いいんだよ。あいつがあんなに元気なんだから、俺も元気出さなきゃな”って、そういう役割もあるね、きっと」
――その役割はいつから意識されましたか?
「意識するということもないんだけど、周りが元気なかったりするからね…。それから震災があったじゃないですか。そのときに元気のいい歌と、そういうお誘いがものすごく来て。顔も名前も売れてなかった頃からの大親友に西田敏行がいて、西田が“おいマツ、大変なんだ、一緒に歌おうよ”って。それからあいつと2人で被災地でバカ話して、歌って、様々なところを廻ってきたね。まだまだ足りないと思うけど、音楽ってそういう力があるんだなってことを再確認させてもらった。ガーン!と歌って、わ~って泣く人もいれば、急に笑い顔になる。あの喜怒哀楽がすっと戻ってきたときに、あぁ、来てよかったと思うしね」
――お客様の感情が戻ってくる瞬間が、ステージからでも分かるんですね。
「もう、すっごい感じましたね。本当に身につまされるというか。よく、被災地から戻って“元気をもらって帰ってきました”ってみんな口々に言うじゃない? あれ、結構本当のことでね。何もないところで“あぁ、頑張んなくちゃな、頑張んなくちゃな”っていう気力はすごく感じるのよ。だけど1時間も喋ると、それが涙に変わって、苦悩に変わる。だから長くいれば長くいるほど、この苦悩とか涙を絶対に元気付けなくちゃいけないって」
残しておかないといけない。誰かが受け継いでいかなくちゃいけない
今度は僕が背中を見せないといけない
――では、新しいアルバム『私の歌~リスペクト~』についてですが、日本の名曲カバー集ということで。
「自分が好きだった先輩、キヨさん(=尾崎紀世彦)にしてもそうだし、九さん(=坂本九)にしても、すごくかわいがってもらったし、ステージもいっぱいやらせてもらった。やっぱり日本のスタンダードじゃないですか。残しておかないといけない。そして、誰かが受け継いでいかなくちゃいけない。それと、先輩が背中を見せてくれて、今や僕も65歳で。今度は僕が背中を見せないといけないじゃないですか。そういう意味も込めて、“日本にはこんな素晴らしい歌がいっぱいあるんだぜ”という想いで歌いました。『また逢う日まで』(M-1)が日本レコード大賞('71)を獲ったときに、“うわ~尾崎紀世彦が出てきたな~”って。お互いにガンガン歌い合うから、出てきて10年ぐらい、'82~83年ぐらいまでは一緒のステージがものすごく多かったんですよ」
――デビューされた年はまた違うんですか?
「バンドをやっている頃は一緒だったんですよ。歳はキヨさんが上で、“キヨ先輩、キヨ先輩”って呼んでいて。その内どんどん一緒に仕事するようになったので、“キヨさん”になっちゃって。キヨさんは当時、日本には珍しいぐらいのボーカリストだったし、あの頃はインドアで歌う歌い手が多かった中で、アウトドア向きのボイストーンは僕とキヨさんぐらいしかいなかったので、歌を競うという部分で番組もステージも(共演することが)多かったし…。あとはやっぱり、九さんに関しては100万ドルの笑顔。本当にいい笑顔を見せてくれた。“松崎くん松崎くん、ステージ一緒にやろうよ”って。大ヒット曲の『上を向いて歩こう』('61)にしても、『見上げてごらん夜の星を』(M-2)にしても、惜しげもなく“一緒に歌おう”って言ってくれた、ものすごくいい先輩で。で、自分も子供の頃に『上を向いて歩こう』っていう映画まで観ていて、 “うわ、すごいな~”って。あの青年像っていうのかな。それと、海外の音楽祭にも行くことがすごく多かったので。海外の音楽祭ともなると、もう5万人くらいのお客さんがいる中で日本(のアーティスト)を応援しに、日本国旗を持って振ってくれるんだよね、日本人の方が。いろんな人がいる中で、外国で本当に心が折れそうになったり、泣きたかったり、どうしようもないときに必ず口ずさむのが、『上を向いて歩こう』と『見上げてごらん夜の星を』なんですって。やっぱり世界中で歌われているんだなって。それと、あの歌を歌ったことによって、日本人がまた元気を取り戻せるというのかな…」
――震災のときも、そうでしたもんね。
「はい。だからやっぱり残しておきたい。で、『また逢う日まで』ってインパクトが強いのでね。イントロが“パッパパパッパパ、ドン!”って。それをまず壊すことから考えて、キヨさんのことを思い出しながら、こういうイメージがいいんじゃないかなって、いろいろアレンジして。だけど、どうしてもあの音じゃないとダメなんだ。イントロのバージョンは変わったけど、それ以降は昔のサウンドにして。古さとか新しさとかは全く関係なく、この曲を聴いた人が“うん、この時代この時代!”ってニコッとしてくれるだけでもいい。で、『見上げてごらん夜の星を』はファンタジーにしようと。ボイストーンは完全にR&Bのキー。で、バックはジャジーに。昔、僕らがアメリカの映画で観ていた、一番いい時代のレビューの感じ」
――どの曲もアレンジは松崎さんのご意見をいろいろ取り入れて?
「ちょっと怖かったんだけどね。エコーっていうか、全くリバーブ感がない、すぐ目の前で歌っている感じにしようって。それは歌い手としては怖かったんだけど、そういうものもいいんじゃない?って。だから、イヤホンで聞いたらうるさくて仕方ないんじゃない?(笑)」
――そんなことないです(笑)。
「ももクロ(ももいろクローバーZ)にしても、ずっとコンサートを一緒にしていて。彼女たちの広報部長として、彼女たちの曲で歌える歌あるかなぁって思ってたら『キミノアト』(ボーナストラック)があって。“あぁ、何か青春の淡い恋心を思い出すなぁ”なんて思ってね。これだったら年齢を超えるものが出来るんじゃないかって。やっぱり、これだけ一緒に長い間携わってきてやってきたので、僕とももクロで1つ想い出を作りたいっていう気持ちがあって。それと“モノノフ”っていうももクロのファンがいっぱいいて、すごくいい子ばっかりなんだよ。地方に行くと必ずモノノフが僕のショーを見に来てくれたりして、“いつもありがとうございます!”って言ってくれたり。あの感じはたまんないよ! ファンを越えてるというかね、すごくいい子たちが多いんだなと思ってね」
雨が降ろうが、槍が降ろうが、何をしようが、私には歌がある
――アルバムのタイトルは『私の歌~リスペクト~』と、'76年に発表されたシングル『私の歌』(M-12)と同タイトルですが、『愛のメモリー』という作品の存在感すごく大きい中で、この歌を選ばれた理由は何でしょうか?
「僕がなぜ、この歌を選んだかというと、ちょうどこの時代に世界中で流行っていたのが『マイ・ウェイ』('69)で。『マイ・ウェイ』は人生を歌うというか、人生の階段の一番最後にこの歌を歌うっていうような、フランク・シナトラに相応しい歌でね。僕もこの歌を歌っていたことは確かなんだけど、あまりにも背伸びをし過ぎた。まだまだ人生を語れる歌い手ではないと自分では分かっていたから。で、その頃、飲み仲間の都倉俊一に、“ちょっと俊ちゃんさ、青春の『マイ・ウェイ』を作ろう、俺の『マイ・ウェイ』を作れよ”って言ったら、“分かった”って言って出来たのが『私の歌』で。詞をパッと見たとき、“恥ずかしいわ、これ”って。“たとえ嵐が来ようと 私には歌がある”って。でも、音楽っておもしろいことに、そんな照れる詞もメロディラインの中で歌うと恥ずかしくないんだよね。歌ってみて“あぁ、なるほど”って。で、レコーディングが終わった直後にグリコアーモンドチョコレートのCMソングの話が来てね('76年)。この歌をBGMに三浦友和が砂浜をさ、ジープでさ…カッコいいのよ。なるほどって思ってさ」
――今、改めて『私の歌』を歌われて、いかがでしたか?
「この歌の通りの人生だったね。結局、雨が降ろうが、槍が降ろうが、何をしようが、私には歌があるという、この通りだった。これを歌ってからずっと、この歌のストーリーと同じような気持ちでいたし、“私には歌がある”という1つの信念だけで駆け抜けてきたなって。久々にレコーディングしたときに、“あぁ、そうそうそうそう、これだよね”って。“自分の『マイ・ウェイ』があってよかった”って。自分の『マイ・ウェイ』があるってものすごく贅沢でね。よかったなぁ…うん」
――作詞の喜多條先生と詞のお話はされていたんですか?
「話してた。やっぱり、海が好きで…その頃から色が黒かったので(笑)。海って、これからの将来のことを考えたり、小さいことに悩まず大きいことを考えられたり、そういうシチュエーションの場所じゃないですか。だから、そういう面では嬉しかったなぁ…絵が出てきて」
――ずっと傍にあった楽曲ですか。
「コンサートでは必ず歌うんですよ。僕はディナーショーが圧倒的に多くて、ただ、ディナーショーでは、『私の歌』を最後に持ってくるのはやっぱり違っていて。もう少しドラマティックに『愛のメモリー』で終わるっていう。最近はジプシー・キングスのメンバーと一緒にやった『ボラーレ!』とかね」
(2015年9月 2日更新)
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