映画『ジョギング渡り鳥』特別対談
鈴木卓爾(映画監督)× 細馬宏通(滋賀県立大学教授)
映画『私は猫ストーカー』(09)、『ゲゲゲの女房』(10)、『楽隊のうさぎ』(13)等の監督のほか、俳優・脚本家としても活躍する鈴木卓爾の最新作『ジョギング渡り鳥』。関西圏では6月18日(土)より第七藝術劇場、7月15日(金)より神戸映画資料館、8月20日(土)より京都みなみ会館にて公開される。本作は、鈴木卓爾が講師を務める映画美学校のアクターズコースI期の生徒たちと、3年がかりで作りあげたオリジナル長編映画だ。
舞台は大きな震災と事故後のとある町。入鳥野(ニュートリノ)町という名の、渡り鳥が飛来するある町に宇宙船が落ちてくる。人間たちには姿の見えない“モコモコ星人”なる宇宙人たちは、カメラを手に人間たちを観察し撮影しはじめる。そこに映し出されるのは、日々ジョギングをし、自主映画を制作し、お茶を飲み、誰かのことを想い、すれ違う人々の姿だ。画面の中にカメラやマイクが常に映り込み、映画を撮る人々の姿を撮影するという状況を、さらに別の視点から映し出すというなんとも奇妙なメタ構造。とはいえこれは決して観る者を選ぶような難解な作品というわけではない。「映画とは何か」という野心的な問いを持ちながら、重層的な関係性の連鎖が終盤に向かって大きなカタルシスを呼び起こす。この2時間37分に及ぶ奇妙な群像劇に身を委ねることができれば、それはかつて味わったことのない特別な映画体験となるかもしれない。
この不思議な映画について、監督の鈴木卓爾と旧知の仲である細馬宏通による特別対談を敢行。細馬氏は滋賀県立大学教授にして、著書『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか――アニメーションの表現史』(新潮社)、『今日の「あまちゃん」から』(河出書房新社)、『うたのしくみ』(ぴあ)など、映像や音楽の領域においても独特の鋭い視点を持つほか、「かえる目」というバンドでも音楽活動を行う。さらに鈴木監督は「かえる目」のファンであり、実はライブ撮影を行ったこともあるという関係だ。
そんなふたりの対談から浮かび上がる、映画『ジョギング渡り鳥』の魅力とは…?
映画の文法があちこちで外れていくんですよ(細馬)
細馬宏通(以下・細馬)「この映画は映画美学校のアクターズコースの生徒たちと作った作品ということだけど、卓爾さんは現在、京都造形芸術大学でも教えてますよね。これはいつからやってるの?」
鈴木卓爾(以下・鈴木)「2012年から教えてます。最初は非常勤でひとつの授業だけだったんです。その時は、俳優たちにもカメラを持たせて、フィールド全部が撮影場所で、みたいなことをやってたんです。細かいルールは気にせずとにかく撮りなさい、映りなさい、と」
細馬「おっ、既にそれが、“ジョギング渡り鳥メソッド”だ」
鈴木「そうなんです。またそれとは別に中編映画を作るゼミがあるんですけど、最初に生徒たちに自分自身について発表させて、それを取材源としてモデルを設定することからはじめたんです。シナリオを考えたり文字化するという頭脳労働から映画を発想することを止めたかったんです。それも『ジョギング渡り鳥』とどこか似てるんですけどね。そうすると整合性のよくわからない群像劇ができ上がってくるんです」
細馬「なるほど。じゃあそのあたりからもう繋がってるわけだ。さて、今日はどういう話をしようかと思ったんだけど、1回観ただけで全てがわかる映画ではないと思うし、ある程度ネタバレは気にせず行きます。僕は既に3回観てるんだけど、改めて観ていろいろ気づいたことも多かった。まず、なにしろ僕は、人の顔認識がまるでダメな人間なんですよ(笑)。普段ですらそうなんだけど、この映画ってたくさん人が出てくるじゃないですか。しかも顔を知っている有名な俳優というわけでもない。だから最初は顔判定をするのがもう、大変で」
鈴木「そんな、誰が誰だかわからないような映画を撮っておきながらなんなんですけど、撮っていく中で誰が主人公になるのか、誰が目立ってくるのかわからない状態でスタートしているので、登場人物を公平に撮ることは徹底しようとしていました。アクターズコースに集まった人たちで撮る、というところから始まっているので、キャスティングをしているわけでもなく、そもそも役者に序列がないんです。むしろそれぞれがどういう人物なのか分かるようになるまで撮るっていうのがテーマでもありました。…とはいえ、やっぱり分かりづらくて申し訳ないです(笑)」
細馬「いやいやいや、そこが面白いんですよ。顔クエストですよ。ざっくり言っちゃうと、映画の中では人間も宇宙人も同じような顔をしているわけじゃないですか。その中でモコモコ星人が自分と同じ顔の人を見つける場面がありますよね(注:劇中では人間と宇宙人を同一人物が演じていたりする)。僕は観ていて同じ人が演じていると一瞬気づかないんだけど、その時の役者の挙動によって、「彼は同じ顔を見つけた」と分かる。一発で「この人はこういう人」と分かるというより、顔認識も含めて徐々に地球人と宇宙人の対応関係が形成されてゆく。そういう探り方が面白いんだよね。もうひとつ、映画の中で徐々に形成されてゆくのが「宇宙人らしさ」。モコモコ星人が地球に来て、最初にアスファルトの道を踏んだ時に、「なんやこれ?」みたいな動きをするじゃないですか。あの挙動で僕は、こいつらは宇宙人なんだって認識するんです。つまり、僕らが人間と似たような姿形のものを見て宇宙人だと思う瞬間って、単にヘンテコな扮装をしているからとかではなく、「こいつは自分と違うところで驚く」みたいなことなんだよね。そのあたりを注意して観ていないと、例えば人が急に画面からいなくなっちゃう場面の面白さに気がつかない人もいると思う」
鈴木「確かにそうなんです。僕も映画を作るようになって長いはずなんですけど、どこか映画のルールを無視して作っていると、ホントにわかんなくなっちゃうんだなって今さらながらに実感したというか(笑)。例えばそこにいたはずの人がいなくなる場合、何かしら映画的な説明というか手続きが必要になってくるもので…」
細馬「そうそう。人が消えるって非日常的な出来事だから、通常の映画では、ジャーンとかなんとか何かしら印象的な効果音を鳴らしてサービスするんですよ。ところがこの映画では木琴がポンポンポンって鳴ってメルヘンチックな感じで。しかも歌がはじまるのかと思ったらはじまんねー、みたいな。あれはね、“歌未満の何か”なんですね。いわゆる「劇伴」がないことも含めて、この映画の音はすごく「物音」的で、「この音はこういう記号」っていうオートマチックな常識が通用しない。つまり、普段僕らが知っている映画の文法というか、教科書には載ってないけれどみんな知っている約束事みたいなもの、それらがこの映画ではあちこちで外れていくんですよ。冒頭から暫く観ていて、この映画はいつものような見方ではダメだなと、かなり根本的な反省を迫られた(笑)。この感じをみんなにもぜひ味わって欲しい」
ーー細馬さんが2回目以降に観て気づいた点で印象的だったシーンはありますか。
細馬「それはもうね、いろいろあるんだけど、例えば冒頭でばふばふばふって音が鳴りますよね。僕は最初、それが鳥の羽音だと分からなかった。もし鳥の鳴き声とバサバサバサっていう音が同時に聞こえたら、「これは鳥の羽の音だ」って認識できる。ところがこのばふばふはマイクが拾った風の音のような聞こえ方をするし、そもそも空中を飛んでいる鳥の羽音がこんなに近くには聞こえない。論理的にそう思ったのは2回目に観た時です。さらによく聞いていると、そのばふばふにコツコツという奇妙な音が重なってきて、さらに足音が聞こえてくる。この音像の微妙な変化には最初は気づかなかった。で、この冒頭の映像がまたいいんですよ。画面ではジョギングをするひとりの女性に併走するように、鳥が一羽だけスーっと飛んできて追い抜いていく。絶妙ですね、あれは」
鈴木「夜明けから待機して、鳥が来たら走って撮るつもりでスタンバイしていたんです。本当は白鳥がよかったんですけど、あそこで飛んでいるのはカワウなんですよね。ただカワウは渡り鳥ではなく留鳥なんです。そしてそれは、取材や撮影を進めながら分かったことなんです。隊列を組んで餌場まで飛んでいくのはすべて渡り鳥だと思っていたんですけどね。そのことは映画の中でも説明するように組み込んでいきました。あと鴨やカラスなどいろんな鳥を撮っているんですけど、ロケ地である深谷の鳥の生態系にあわせて撮影した部分も多いです。この映画はもともとは自分が書いていた短編のプロットが元になっているんですけど、実際に撮影を続けていくと、渡り鳥と思っていたものが留鳥だったり、やたらカラスと親和性の高い画が撮れていたり…。どんどん渡り鳥というテーマが剥がされていくというか。逆走していくような感覚を、ドラマを作りながら複雑に塗り重ねていった感じがあります。まあでも、僕はその場にあるもので作っていくといった癖があるので、深谷に鳥がこれだけいたことはでかかったです」
細馬「うん、鳥に関してはよくこんな絵が撮れたなってのがけっこういっぱいあるけど、深谷は鳥がたくさんいる街なんだね。でも冒頭の羽音は、ホント最初はわかんなかったなあ」
鈴木「あれもけっこう乱暴な録音でして、そこらへんの布とかをみんなでばふばふやって音を録ってるんですよ。これに限らず、本当はもっと説明的というか、わかりやすくするべきポイントはたくさんあると思うのですが、こうなっちゃうんですよね。今までだったらプロデューサーなり誰かが制御するんですけど、そういうことがまったくなく(笑)。ただ、この映画は、群像劇としての複数の視線があり、そして更にそれを複数の視線が撮っているということをやっているので、ある種のバラバラさがあるんです。そのバラバラさを、なるべく残したいとは考えていました。もちろん撮影監督はいるんだけど、カメラもマイクも俳優たちにも持たせて、実際に編集する際には、すべての映像を素材として使っているんです。とにかく、全員でやるというのがテーマでしたし、いいのが撮れてたからこれも使おう、みたいな感じで」
ーーつまり、シナリオ上の筋道にない箇所も、映画の一部になっているわけですよね。
鈴木「そうです。例えば、(元オリンピック選手役の)羽位菜さんが「歌を忘れたカナリア」をハミングするシーンは、(古書店主役の)寿康がオフショットとして撮っていたものなんです。こんなの撮ってたなんて全然知らなかったんですよ。後から発見して、すごくいい画が撮れてるからこれは使おうと」
細馬「なるほど、そうか。ところであのシーンって、同録ではなくてアフレコですよね?」
鈴木「あ、そうです。なんでわかったんですか?」
細馬「あそこは、画面は羽位菜さんの後ろ姿のショットなんだけど、少しだけ見えている口元の筋肉の動きがハミングにしてはどうもおかしいんですよ。なんだかモゴモゴと動いているように見える。あれは恐らく、実際には歌をうたっている。けれど何らかの理由でアフレコでハミングになったんじゃないかと」
鈴木「ああ……鋭いなあ。細馬さん、さすがです。その通りです。あのシーンは、撮影したものでは実際に歌っているんです。タネあかしをすると、あれは空き時間に彼女がYouTubeを見ながら歌う練習をしている姿なんです。それをたまたまオフショットとして撮っていた画を後で見つけたんですけど、こういうのをすぐ採用するのがこの映画だってことで、使うことにしたんです。ところが著作権上の問題で、曲は大丈夫だけど歌詞はヤバそうだと。ならばハミングにしようってことでアフレコにしたんですよ。だから苦し紛れの映像なんですよ」
細馬「そうだったんだ。それもあってあのシーンには、なんだか羽位菜さんの時間が二重になって、地球人と宇宙人が消えずに重なっているような、不思議な雰囲気が出ていて気になったのかあ」
“見えない”ことがこの映画の大きなテーマ(細馬)
細馬「この映画は、会話や言葉も面白いんだけど、モコモコ星人が話す意味不明の言葉がとりわけすごいよね。普通は宇宙語だったら、もっと歴然と宇宙語だと思うんだけど、奴ら、ちょいちょい日本語混ぜてくるじゃない(笑)。なんかもういきなり冒頭で意味不明の言葉の間に「ポッドキャスト!」とか言ってるでしょ」
鈴木「言ってますね。結構はっきりと言ってます(笑)」
細馬「あと彼らの挨拶の言葉で「マツコトマムシ」って、何度も出てきますよね。なんだか日本語っぽいんで妙に耳につくんだけど、中盤の古本屋のシーンで「待つことと拾うこと」って台詞が出てくるじゃないですか。その、人間が発した「待つこと」の音の響きにモコモコ星人が反応して「んっ?んっ?マツコト…?マツコト…マムシ!?」みたいになってるの。あれはいい意味でどうかしてる」
鈴木「あそこはある意味ハリウッド形式というか。『E.T.』のハロウィンのシーンで『スターウォーズ』のヨーダのコスプレをした人を見かけたE.T.が、「あっ、なんか友達!?」みたいになるシーンがありますけど、あの感じです(笑)」
細馬「そういう宇宙人と人間の境界線っていうか、観客にとっての「宇宙人らしさ」ってのが、どこかで壊れていくんですよね。そこがとても興味深い。あと伺ってみたかったのが、パンフレットにも書かれている「現場に入る前にエチュードを繰り返し、人物の関係と物語の構成を作っていった」って点。エチュードと呼ばれるものってよくわかってないんですけど、これは一体どういうものなんですか?」
鈴木「台本も台詞もなくとっかかりが何もない状態で、シチュエーションだけを与えて、会話をさせる、或いはさせない、という状況を作るんです。そこでお互いの関係を見出せるか見出せないか、みたいな。見出せた時に、お芝居のようなものが発動するんです。出来るだけ段取りをせずに、自然に何かをはじめられないか、そんなことを延々やってたりするんですよね」
細馬「なるほど。それで今思い出したんだけど、2011年の3月15日ごろかな、ちょうど原発が爆発したことが分かったころ僕は東京駅にいて、ノートパソコンを開いて何か作業をしていたんです。そしたら隣にいた見ず知らずの人が、特に名を名乗るわけでもなく「福島のニュースって、今どんな状況ですかね?」って声をかけてきたんです。通常ならこういうことは有り得ないんだけど、その時には自然な状況だった」
鈴木「ああ、エチュードっていうのは、細馬さんが体験されたような違和感のない会話や関係性みたいなものを、どうやったら芝居において作れるかという作業でもあります」
細馬「その話に絡めて言うと、この映画の重たくて大きなテーマって「見えない」ってことじゃないかと思うんです。見えない人、見えない存在とどう付き合っていくのか、それに気づくのってどういうことなのか。しかも登場人物の名前が「地絵流乃」(ちえるの)さんとか「摺毎ルル」(すりまいるる)さんとか「海部路戸」(しーべると)さんとか、もう露骨に原発関連じゃないですか。かといって原発の話は一切出てこない。僕はそこに過剰なメタファーを読み取ろうとはしなかったんだけど、見えないもの=放射能って連想は働くよね。今の僕らは、見えないものって怖い存在でありどちらかというと忌避すべきものとして捉えている。この映画は、そうした居心地の悪さをどこかで保ちながら、その「見えないもの」への対応を、違う形でやり直すことはできないのだろうかと問うているようにも感じる」
鈴木「登場人物の名前に関しては、邪気というか悪戯に近い感覚でした。ただ、後から考えるとSFメタ映画ということを口実に、今起きていることの別の見方を提示しようとしていたのかも知れないと自分自身でも感じました。この映画は敢えて効率の悪いやり方を採用していて、分業せずにすべてのスタッフが現場にいて、撮影後には合宿所に帰ってみんなで食事を作って食べる、ということを繰り返したんです。映画を制御したりコントロールすることをすべて放棄したいと考えていました。撮影の初期に、純子役の中川ゆかりさんから、古代ギリシャ期と共和制ローマ期の哲学者の「原子の運動は予測不能の逸脱(クリナメン)を繰り返す」という思想を引用して、この映画を撮る作業はそういう行為だと思う、という言葉をもらったんです。これはサブテキストとして重要なキーワードになりました。映画の構造そのものが、入鳥野町で起こる原子の運動であると。それを捉えるために、様々な視点を与えたと言えるかもしれません」
細馬「確かに、モデルとして原子の運動というのはあるんだろうけど、この映画ではそう一筋縄ではいかない部分というのがあって。例えば、人の名前として違和感のある原発にまつわる固有名詞たちが、人間の声によって何度も繰り返して発せられるうち、それなりに定着してくるんですよね。これらの言葉を新聞記事やニュースで目にしたときに、僕らはそれをネガティブな表象だなと感じたり、発するのに違和感のある記号だなと思ったりするんだけど、そこに人の声が乗って、その名前で呼ばれた人が普通に返事をしたり何かしていたりすると違うものになっていくんですよ。最初にパンフレットで登場人物の名前を見たときには、よくこんな酷い名前ばっかり考えたな(笑)とか思っちゃったんだけど、映画の中でそれが定着していくという。「麩寺野(ぷてらの)どん兵衛」なんて、なんちゅう名前やねんとか思うんだけど、映画が進むにつれて、他の誰でもない「麩寺野どん兵衛」になっていく」
ああ、自分はこういうのを撮りたいんだなって(鈴木)
細馬「ところでこの撮影はそもそもどういうところから始まったんですか」
鈴木「映画美学校アクターズコースの僕の最初の授業の前に、高尾山にみんなでピクニックに行って、その帰りに居酒屋でみんなに何がやりたい?って聞いたら、合宿して撮影やりたいです!っていう意見が出たんです。その時点では作品にして劇場公開する予定もなくて、撮影した素材を生徒にプレ編集として数パターン作ってもらったんです。これが面白くてゲラゲラ笑ったりしてたんですけど、結局これを作品として仕上げるのであれば、追加で撮影も必要だし既に撮った映像もちゃんと使いたい。ということで2期目の撮影を進めていくことになったんです。もともと遊びながら実験するように撮っていたものなので、設定が曖昧な箇所なども多々あり、それを活かしながらやろうと。それが2013年なので、僕はちょうど『楽隊のうさぎ』を撮りながらの作業でした」
細馬「わぁ、そりゃ大変だ」
ーー鈴木監督は『楽隊のうさぎ』(13)もそうですが、その前の『ポッポー町の人々』(12)や、NHKの『さわやか3組』や『中学生日記』シリーズなど、プロではない人や子供などを役者にした作品が多いですよね。
鈴木「そうです。そういえばもう長いことプロの役者さん撮ってない(笑)」
細馬「そういう人とやるときって、例えば今回だったら台本はしっかりあるんですか?もしくは先ほどのエチュードの延長のような感じで撮っていく?」
鈴木「しっかりとした台本はなくて、途中まで考えていた内容を「構成本」と称して配ってるんです。ただそれは各場面の整合性は取れていなくて、みんながやることがただ書かれているものなんです。一応、台詞も書かれているんですけど、そうするとみんなそのままの台詞を喋っちゃうので「3人の関係が進展する」みたいな曖昧な示し方をしたりしていました。それを元に現場でみんなで悩んでみる」
細馬「うん、そのスクリプトの感じは観ていてわかった。書いてしまうと台詞って経済的に切り詰めてしまう部分があると思うんです。けど、僕らの日常会話ってもっと繰り返しが多かったり冗長だったりして、話がいつまでたってもループしてるような感じじゃない。だから、この映画の中にある喧嘩のシーンを見ていて、あっこれはスクリプトのまま喋ってはいないなと思った」
鈴木「まさにそうです。俳優はシナリオを書かないので、放っておくと演じながらも次の展開に行かないんですよ。脚本というミッションをもらうと、それに沿って何か腑に落ちることをしようとする。けれどエチュードというのは何かを確かめるための行為であって、物語を語ることではない。(劇中で自主映画を撮る監督役の)松太郎が泣くシーンがあるんですけど、あれはミッションではないんですよ」
細馬「えっ、そうなの?」
鈴木「台本にもなくて、僕の位置からも彼が泣いているかどうか見えてないんです。けど、泣いている彼を見て(劇中の自主映画のマドンナ役の)真美貴さんが「なんで泣いてんの!?」って言ったことで、あっと思ったんです。あれは脚本では言えない台詞でした」
細馬「あの「泣き」、観客としても「なんで?」って驚きますね。あそこはなんとも説明不能の空気がある」
鈴木「あれも芝居と言えば芝居だし、ドキュメンタリーと言えばドキュメンタリーだし、けど僕らの予測不能のことが起きている。でも設定はフィクションだよね、っていう、何とも言えないところにあのシーンを捨てられない理由があって。ああ、自分はこういうのを撮りたいんだなって思いましたし、絶対公開するぞ!って思いました(笑)」
細馬「あの自主映画を撮ってる松太郎くんもそうだけど、登場人物たちの「撮ること」に対する健気さに打たれる。特に後半に行くに従って、カメラを手にしているモコモコ星人も含めて、いろんな形で映像を撮っている人たちへの気持ちが増幅していくんだよね。それで、彼らが扱っているもの全体のステージが上がっていく。一見チャチな宇宙船にもどんどん肩入れしていっちゃう感じになるし、映画の中で俳優たちが撮っている映像がどんどん愛おしいものになっていく」
鈴木「いやあ、そうだったら嬉しいですね」
細馬「芝居なのかドキュメンタリーなのかわからないようなシーンがあって、映画の中に映画があって、宇宙人役と人間役が被っていたりもする、そういった曖昧さや線引きの不明なところに魅力があるんだよね」
鈴木「さらに今回はみんなが映画の宣伝もやってますからね。チラシを街で配ったりしていて」
細馬「ああ、そこは重要かもしれない。僕は最初は新宿のK's cinemaで観たんだけど、映画がはじまる前に舞台挨拶のようなものがあって、俳優陣が10人くらいぞろぞろと出てきて、「渡り鳥は家族でしょうか」っていう朗読がはじまって、いきなり歌を歌いだすっていう。映画を観る前に(笑)。しかも彼らは宣伝もやっているらしいと。何の予備知識もなく劇場に行ったもんだから、なんじゃこの映画はと思いましたよ。まずそこで「俳優」という概念が崩されましたね。しかもエンドロールでは「食事」とか「車両」とか「音響効果」などのクレジットにも出演した俳優たちの名前がズラズラと出てくる。この人たちはどこまで関わってるんだ?って感じで」
鈴木「音響に関しては、俳優たちにアフレコで自分の足音だけを録ってもらったり、環境音も録りに行ったり…」
細馬「音で言うと、お茶を注ぐ音と川のせせらぎが混濁してて、んっ?これは何の水の音?ってなるんですよね」
鈴木「そこは混じってます。サウンドスケープとして捉えていて」
細馬「その時点でひとつのポエムになってるんですね。お茶を注ぐ音が川の音になっていることで、お茶を注ぐという行為が別のものに捉えられる。通常は、何かが重なるときに視覚で捉えられるものだと、あ、半透明だなとか遮へい関係だなという風に、視覚的ロジックで読み解ける。ところが音が重なって聞こえたときには、そういう視覚的ロジックが使えない。その時僕らはどうするのかというと、そこに詩的な構造があると考える。それがいろんな場面で作動している映画だと感じますね。しかもこの映画にはさっきも言ったけど劇伴がほとんどない。それによって音のテクスチャーがよりはっきりと聞こえてくるんです」
鈴木「確かに、音に関してはかなり意識的でした。また、こういうふうに音を録ったり作ったりしていると、映画全体が見えてくる部分もありますね」
ーー『ジョギング渡り鳥』は、関西ほか全国各地でこれから公開になりますが、既に観られた方からの反応で印象的だったものはありますか。
鈴木「細馬さんもそうだったけど「観終わってからもモコモコ星人が自分の近くにいるような気がする」っていう人が多くて面白かったです。なぜならこれは僕らには絶対わからない感覚なんです。お客さんは完成した映画を劇場で観るところがスタートだけど、僕らはずっとモコモコ星人と一緒にいて映画を作っていたから。結局のところ、お客さんには敵わないというか、映画はお客さんが観てようやく本当に完成するのだなと、改めて感じています。それも含めて、映画を観ることって、映画に対峙して参加する運動なんだなって思うんです」
細馬「運動という意味では、俳優さんたちも宣伝をするし、映画を飛び出したところでも、映画を作動させるための運動をやっている。それを見ていると、観客の側も映画に関わる隙間があるような気がしてくるんです」
鈴木「新宿での上映を終えて、これから全国各地に渡り鳥が飛んでいくわけですけど、どういう形でお客さんがこの映画を捉え、参加してくれるのか非常に楽しみにしています」
細馬「普通の映画っていかにも伏線ヅラしたやつが伏線なんですよ。なんか怪しい人物や発言、妙なシーンやどこか引っかかる映像…。そして案の定、後からすべて回収しに来る。だけどこの映画はその感じが通用しないんだなあ。奇妙なことが突出して次々に起こるんだけど、これは伏線かな?っていう察知能力が効かないというか。そこが面白いし、自分の映画の見方に対する「イチからやり直し感」が凄い(笑)。同時に、1920年代には既にある程度構築されていた映画の作り方や、分業、構造そのものを問い直すような、そんな壮大な試みでもあるんだよね」
(左)細馬宏通 (右)鈴木卓爾 取材協力:京都みなみ会館
撮影行為を撮る映画。そうきいたときに、ふつうの人が予想するのは、外側から撮影という行為を相対化する難解な入れ子型の映画だろう。ところが、『ジョギング渡り鳥』は、まったく逆だ。一つ一つのショットが、むずむずと内側から映画を動かしている。「モコモコ星人」なる奇妙な宇宙人たちは、フードこそかぶっているもののその風体はわたしたち地球人と変わるところはなく、彼らの構えるカメラやガンマイクは、彼らの興味の向くままにあちらこちらへと注意がふらつく。ところがそうした撮影のふるまいが写し出され続けるにつれ、むしろこの宇宙人たちの撮影の方が、側から撮っているカメラ以上に生々しくなってくる。一つ一つのショットに込められた映像が、音が、異なる手つき、異なる質感で物語の枠組みを書き換えていく。
さらには、俳優、音響、車両、宣伝といった、映画制作の役割分担までが『ジョギング渡り鳥』では書き換えられる。登場する俳優たちは、それぞれ映画の制作現場にも関わっている。宇宙人は地球人であり撮影者であり音響であり車両を転がし食事を作り宣伝活動に赴く。劇場に行かれたらチラシを子細に検討し、パンフレットを求められるとよい。印刷物の隅々にも、宇宙人たちの手が入っていることが確認できるだろう。映画の撮り方にも作り方にも、まだまだたくさんの可能性が残されているんじゃないか。
撮る行為を撮ったとしても、それもまた「ある視点」に過ぎない。『ジョギング渡り鳥』は、撮る行為を外側からのんきに眺める映画ではない。内側から膨らみ、ショットから離陸し、スクリーンから映画館へ、映画館から映画館へと、見えない川を遡上しつつある。日本語じみたことばを話す渡り鳥たちのなんとたどたどしくもすがすがしいことか。彼らの関西への飛来を、見逃すことなかれ! (細馬宏通)
(2016年6月17日更新)
Check
鈴木卓爾(すずき・たくじ)
1967年生まれ。8ミリ映画『にじ』がPFF88にて審査員特別賞を受賞。92年、東京造形大学の1年後輩にあたる矢口史靖監督のPFFスカラシップ作品『裸足のピクニック』に脚本と助監督で参加。長編監督作に、第31回ヨコハマ映画祭新人監督賞、第19回日本プロフェッショナル大賞作品賞&新人監督賞受賞の『私は猫ストーカー』(09)、第25回高崎映画祭最優秀監督賞受賞の『ゲゲゲの女房』(10)、東京国際映画祭正式出品作『楽隊のうさぎ』(13)がある。脚本家・俳優としても活躍中。
細馬宏通(ほそま・ひろみち)
1960年生まれ。滋賀県立大学人間文化学部教授。専門は会話とジェスチャーの分析、19世紀以降の視聴覚メディア研究ほか。バンド「かえる目」のボーカル&ギターとして3枚のフルアルバムもリリース。これまでに上梓した著書のテーマは、塔、絵はがき、ステレオグラム、二桁の掛け算、アニメーション、あまちゃん、古今東西の歌のしくみ…と縦横無尽。最新刊は介護現場での観察研究を記した『介護するからだ (シリーズ ケアをひらく)』(6月20日発売、2160円、医学書院)。
Movie Data
(C)2015 Migrant Birds Association / THE FILM SCHOOL OF TOKYO
『ジョギング渡り鳥』
広島・横川シネマ
上映中〜 6月21日(火)
大阪・第七藝術劇場
6月18日(土)〜 7月1日(金) ※ 6/19休映
長野・松本CINEMAセレクト
6月19日(日)
神奈川・シネマ・ジャック&ベティ
7月2日(土)〜7月8日(金)
埼玉・深谷シネマ
7月3日(日)〜 7月10日(土)
愛知・名古屋シネマテーク
7月9日(土)〜7月15日(金)
兵庫・神戸映画資料館
7月15日(金)〜 7月26日(火) ※ 7/20, 21休映
京都・京都みなみ会館
8月20日(土)〜 9月2日(金)
監督:鈴木卓爾
撮影監督:中瀬慧
音響:川口陽一
助監督佐野真規、石川貴雄
編集:鈴木歓
出演:中川ゆかり/古屋利雄/永山由里恵/古川博巳/坂口真由美/矢野昌幸/茶円茜/小田篤/柏原隆介/古内啓子/小田原直也/吉田庸/佐藤駿/山内健司/兵藤公美/古澤健/他
【公式サイト】
http://joggingwataridori.jimdo.com/
【ぴあ映画生活サイト】
http://cinema.pia.co.jp/title/168587/
Event Data
舞台挨拶決定!
6月18日(土)
19:30の回上映後舞台挨拶
会場:第七藝術劇場
登壇者:鈴木卓爾監督、中川ゆかり、永山由里恵
6月19日(日)
13:00の回上映後舞台挨拶
会場:松本CINEMAセレクト
登壇者:小田篤、小田原直也、茶円茜、中川ゆかり、永山由里恵、古内啓子
神戸ではこの2人のトークも!
7月16日(土)
13:00の回上映後、15:50よりトーク
会場:神戸映画資料館
出演:鈴木卓爾(監督)+細馬宏通(滋賀県立大学教授)
参加無料(要当日の映画チケット半券)
映画『ゲゲゲの女房』監督、鈴木卓爾インタビュー
『楽隊のうさぎ』鈴木卓爾監督&磯田健一郎音楽監督インタビュー