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プロフィール

土田英生
MONO代表・劇作家・演出家・俳優
1967年愛知県大府市まれ。1989年に「B級プラクティス」(現MONO)結成。1990年以降、全作品の作・演出を担当。1999年『その鉄塔に男たちはいるという』で第6回OMS戯曲賞大賞受賞。2001年『崩れた石垣、のぼる鮭たち』で第56回芸術祭賞優秀賞を受賞。劇作と平行してテレビドラマ・映画脚本の執筆も多数。2017年には小説『プログラム』を上梓。

第4回「MONOクラシックスの誕生まで」 土田英生

MONOの30年の道のりをメンバーや関係者の話から紐解く連載の第4回。
前回は、1990年代前半の出来事を、当時の関西の小劇場の状況を織り込みながら
お届けしましたが、今回は劇団が浮上するきっかけとなった公演から
「MONOクラシックス」の誕生秘話をお聞きしました。

――前回の続きですが、結成から5年が経って、1993年8月の公演『さよなら、ニッポン』が終わった後、「やっぱりこのままではダメだ、今までの演劇とは決別しようと決めた」と。

そうですね。それで、『Sugar』(1994年3月19日~20日 京都府立府民ホールアルティ)をやりました。松田(正隆)さんの『紙屋悦子の青春』とか岩松了さんたちの芝居に影響を受けて、ちょっとトーンを落とした会話劇を書いたんです。観客の皆さんには受けたし、例えばマキノ(ノゾミ)さんなんかはこれを見て「新しい感覚が出てきたって」言ってくれましたし、鈴江(俊郎)さんも「よくできてるなぁ、<現代>を切り取ったんやろ」って。周りにそう言ってもらってますから、今から考えるとそんな悪い芝居じゃなかったかもしれません。でも松田さんが「あんた何してんの?」って。「東京で流行ってるような芝居をやってみたくて、真似してみたけど、何にもないっていう芝居だった」って言われたのを覚えてます。で「はい…」。としか言えませんでした。僕、松田さんに言われたら全部素直に聞きます。「そんなひどかった?」って聞いたら「前の方が良かった」と言われました。

第13回公演『Sugar』 1994年3月19日~20日 京都府立府民ホールアルティ

 

――TV局を舞台に、仕事ができない大道具会社の社員と大手代理店の新人プランナーがセットを作っていく話ですね。実際の舞台でも、何もないところからセットが作られていく…。

今振り返ってみると結構面白いですよね。客入れの時は何にもないところから、ラストにはセットができ上がっているんですから。

――次の公演は『路上生活者』(1994年5月27~29日 扇町ミュージアムスクエア)です。

でも松田さんに何を言われても、もう変えると決めた以上、この方向でいくと決意して臨んだ公演でした。でもあまりにも台本が書けずに…。みんなに迷惑をかけました。よくよく考えたらおかしいですよね。スケジュールが。前回の『Sugar』が3月、この公演が5月。2ヵ月後に新作をやるなんてバカですよね。そんな短期間で。

第14回公演『路上生活者』 1994年5月27~29日 扇町ミュージアムスクエア

 

――なぜ、そんなスケジュールで?

これは当時『芸術祭典・京』という催しがあって『Sugar』でそれに参加、さらに扇町(ミュージアムアクエア)でもやりたいから扇町では『路上生活者』をやろうと。でも台本ができなくて、扇町(ミュージアムスクエア)の裏で泣き叫んでいたら、当時ミュージアムスクエア内に事務所のあった劇団☆新感線の方々が横を通りながら、不審げな顔で、小さな声で「おはようございます」って(笑)。その上、なんとか台本ができて稽古中に演出でダメ出ししたら、「ぐちぐち言ってないで、練習させてくれ」ってメンバーに怒鳴られたんです。今だから笑えますけど、当時はこたえました(笑)。でも、台本は面白いんですよ。ホームレスがただ空き地で過ごしている風景を描いた話で、お金の賭け合いしたり、トランプをやったり。そこには一切喋れない男とか、素性の分からない人たちがいるんですけど、そこでいつも話題になるのが空き地の前のアパートに住んでいる美大生のこと。「彼氏ができたんちゃうか?!」「元気なんかな?」とか。そんな中、アパートに立ち退き問題が出て、市の人が二人、説明に来る。そして、そのうちに一人が感化されてホームレスになっちゃう…。ラストは立ち退きが決まって、ホームレスがみんな追い出され、そのことに罪の意識がある市役所の人がコーヒー飲んで座っていると、引越ししていく美大生が来て、ふたりで会話する場面で終わります。書けずに苦労しましたけど、この時は松田さんが観にこられて、「興奮したよ。良かったよ」と言ってもらいました(笑)。

で、その次にやったのが『4つのテーブル』(1994年10月28~30日 AI・HALL)。深夜の喫茶店で一晩中、人が喋ってる会話劇。明らかに、この頃の小劇場の潮流の影響を受けてますよね。夜9時くらいから、朝、日が昇るまでの話。この公演で初めて動員数が500人を超えて550人になりました。大阪での公演が定着してきたというのもあったんでしょうね。

第15回公演『4つのテーブル』 1994年10月28~30日 AI・HALL

 

――この頃、稽古はどこでされてたんですか?

『Sugar』は立命館大学の構内でやったり、京大のA号館。スケジュール管理の黒板に名前を書けば使わせてもらえました。本当は京大生じゃないとダメだし、もう顔つきとか大人になりかかってましたけどね(笑)。あとは、公民館とか青年の家とかを回ったりしてました。でもまだ20代で、ここからがまたキツかったですね。

――『路上生活者』は再演されましたね。(1995年2月18・19日 駒場アゴラ劇場)

この公演、170人しか入りませんでした。知り合いに来てくれとみんなで電話をしたら、友達が力士の友達を二人呼んでくれて…。「一人一つの座布団でお座り下さい」と張り紙をしたんですが、力士の方はそれでは無理だろうと。だから「なるべく詰めてお座りください」と書こうって言ったら、水沼が「テッポウ禁止」って冗談で書こうとしたんです(笑)。そんな思い出ぐらいしかない公演ですね。平田オリザさんが初めて観に来てくださったんですが、だいぶ辛口だったのを憶えています。

第16回公演『路上生活者』 1995年2月18・19日 駒場アゴラ劇場

 

――当時、まだ劇団員ではなかった金替さんが出演されています。

彼とは昔から仲良くて。実は『路上生活者』の初演にも出ていたんです。だから「東京公演もくる?」という気軽な感じでしたね。で、その次の公演が『Sugar』の改訂版の『スタジオNO.3』(1995年9月1~3日 AI・HALL)。これは僕がギリギリまで京都市の仕事をしていて(「ビギナーズユニット」の作・演出)ただでさえスケジュールがないのに、こっちの台本も書けずにいました…。メンバーから聞いたら、この公演も辛かった思い出として出てくると思います。『Sugar』のセットが残っていたので、それをそのまま使える公演を考えて改訂版としてやったんですけど、初演から1年以上経っていますから、セットの木が反ってしまってる。この公演、先ほども言いましたが、順番にセットを立てていく芝居なのに、木が反って本番中にセットが入らない。しかもセリフもうろ覚え。もうボロボロでした。この時に覚えているのは、扇町ミュージアムスクエアのプロデューサーの前川さんが観に来られて、「土田くんとこの膿が出たね」って言われました。でも本当にそうでした。舞台監督の清水(忠文)さんにも、「もう少し真剣にやってよ」って言われましたし。AIホールの山口さんにも「『4つのテーブル』は良かったし、動員も550人超えて、それでもう一度声をかけたのに」と。だからもう終わったと思いました。AI・HALLの外で輪になってみんなで深夜まで練習したのを憶えています。


第17回公演『スタジオNO.3』 1995年9月1~3日 AI・HALL

 

――尾方さんもこの頃に入られました?

尾方君は1994年の5月に入ってるので、彼も『路上生活者』の初演からですね。立命芸術劇場にいて、僕の後輩なんですけど、そこで主役やってる尾方君がすごくカッコよくて。しかも学生劇団の中で群を抜いてうまかった。彼、いいなと思って、そのあと劇団のみんなと話して、まず『Sugar』の稽古の時に尾方君にビデオを撮ってもらうことになったんです。ずっとビデオを回しながら劇団を見てもらって。公演が終わったあと、「MONOに入りたいんですけど」と連絡をもらいました。

――次は『Holy Night』(1995年12月2・3日 扇町ミュージアムスクエア)です。

今につながっているのは完全にこの公演です。『Sugar』はもちろん新たなチャレンジをしたけど掴めてなかった。皆さんもご存じのように僕は本当にリアリティのある世界を書いているわけじゃなくて、ちょっといびつな世界を書いています。昔はいびつなことだけをつか(こうへい)さんのホンを模倣してやっていました。でも『Sugar』なんかはいびつなことを抜きに“普通”のことを書こうとして、話まで“普通”になってしまっていたんです。だから『路上生活者』や『4つのテーブル』も悪くはないんですけど、何にもない“普通”の話を書いてしまっています。そこにいびつさというものがない。正直、行き詰まってしまっていました…。

第18回公『Holy Night』 1995年12月2・3日 扇町ミュージアムスクエア

 

それで次の作品にとりかかっている時「ピーン」と音がしたんです。変なこと(いびつさ)を題材にして“普通”に書いたら面白んじゃないかと。そんなこと劇作する人にとっては当たり前のことだと思うんですけど、僕はその時に気づいたんですよね。だから、この公演は変な設定を作ってみようと。それが、クリスマスに反対する人たちが、クリスマスイヴにケーキを食べずに頑張る話でした。これ、設定がバカバカしいじゃないですか。それをリアルなタッチで書こうと思ってやったら、2日間の公演なのに500人以上入ったんです。で、その時の500人はお客さんの観ている空気が違いました。ドッカンドッカン受けるんですけど、静かなシーンではお客さんが食い入るような感じになる。付き合いで観ている感じがなく、ものすごく一生懸命観ている雰囲気があって。赤字だったし、お客さんも増えなかったけど、打ち上げがやたら楽しかったのを覚えてます。なんか手応えがあったんでしょうね。

それで次が『約三十の嘘』(1996年7月5~7日 扇町ミュージアムスクエア)なんですけど、この公演、例えば今までは自由席で5日間ぐらいやるとして「初日に150人来てくれたらいいな」と思うけど、結果は100人…。みたいなことが続いていました。でもこの時は初日になかなか幕が開かなかったんです。いつまで経っても開演にならない。舞台監督がきて“少し待ってください”と。劇場に200人くらい来ちゃってて、入れない人がいると。びっくりしました。最終的には800人くらいの方が観に来てくれましたね。初めて赤字が出なかった公演だったと思います。

――のちに映画化もされる『約三十の嘘』は、仲間の裏切りで一度はバラバラになった7人の詐欺師たちが再び集まり、仕事の算段をする往きの寝台列車の車内と、仕事が終わって帰りの車内での会話劇。あるはずのお金が帰りの車内にはなく…という話ですね。

ここから数年は本当に環境がガラッと変わっていきました。この公演、大阪で活躍している小劇場関係者も次々観に来てくれましたね。遊気舎の後藤(ひろひと)さんにも褒められたし、牧野エミさんからは「普段はベラベラ(どうでもいいことばかり)喋ってるのに、こんな(すごく面白い)舞台を書く人なの!?」って(笑)。いろんな方から声をかけられる時期でしたね。実際評判も良かった。分岐点として言うなら、この2作品が、劇団が浮上するきっかけになった作品ですね。

第19回公演『約三十の嘘』 1996年7月5~7日 扇町ミュージアムスクエア

 

――その次の公演は『-初恋』(1997年5月16・17日 ウイングス京都、5月30日~6月1日 AI・HALL)になります。

トントン拍子で来てましたよね、この頃。書きたいことが次々に浮かんでくるんです。だから書くのが追いつかない。まだ今書いているところなのに、次のアイデアが浮かんでくる。前から言っているのですが、僕は“降りてくる”って言葉が大嫌いなんですよ。「イタコじゃないんだから」って言ってるんですけど、でもまぁ、この『-初恋』は阪急電車の中でいきなり台詞が降ってくるように出てきましたからね。花田明子さん(三角フラスコ)が同じ車両に乗っていて、「土田さんだと思って声をかけようとしたんですけど、気持ち悪くて声をかけられなかった」と。セリフを思いつくから、演出を考えて身振り手振りをしてしまう。それを電車の中で一人でやっていた。そりゃそんな人気持ち悪いですよね(笑)。セリフが頭の中に次々に出てきて、一般的には“乗ってきてた”んでしょうね。無敵な感覚がありました。

第20回公演『-初恋』 1997年5月16・17日 ウイングス京都、5月30日~6月1日 AI・HALL

 

――ゲイたちが暮らすアパートという設定自体思いつかないですよね。周りとの軋轢がありながら楽しく暮らしていたそこの住人のうちの一人が女性に恋をして…という話です。

新宿2丁目のお店の方々の会話からインスピレーションを受けて台詞を書きました。次の『赤い薬』(1997年9月26~28日 扇町ミュージアムスクエア)その次の『きゅうりの花』(11998年5月3・4日 利賀山房 6月4~7日 扇町ミュージアムスクエア)『その鉄塔に男たちはいるという』(1998年12月10~13日 AI・HALL)と続くこの頃は、自分で言うのは恥ずかしいですけど、調子いいし、幸せだなと思っていました(笑)。それはやっぱりお客さんが増えていったことが大きかったですね。『-初恋』で1000人超えて、それからも増えて行きましたし。あ、『赤い薬』は1000人を割ってたかも。

――『赤い薬』は、治験薬のモニターとして人里離れた臨床医学センターに集められた人々の会話劇。いい作品でした。

私にとっては「出来の悪い子」って感じですかね。動員が減ったのは、やっぱりドラマ性が少なかったのが影響したんだと思います。MONOのお客さんが求めていたのは、当初笑いだったんですよ。会話で笑えるものを求められていた。だからインタビューでも「三谷幸喜さんをどう思われますか?」とよく聞かれました。この頃は笑いと同時にドラマ性、哀しみみたいなものを入れることができるようになっていました。でも『赤い薬』にはその部分が少し欠けていた。ドラマが小さかったんだと思います。

第21回公演『赤い薬』 1997年9月26~28日 扇町ミュージアムスクエア

 

――外部での公演に書き始められたのも、この頃だったでしょうか。

『―初恋』の時、G2さんが観にいらして「外に書く気はないの?」って声をかけていただきました。ただその時はまだ具体的なスケジュールは決まっていませんでした。だから外部公演として最初に書いたのは『遠州の葬儀屋』(劇団M.O.P. 1998年4月3~5日 紀伊国屋ホール)になります。『赤い薬』の時にマキノ(ノゾミ)さんから電話がかかってきて、話をしましょうと。「M.O.P.はずっと俺が書いてきたんだけど、今回は外部の人に書いてほしいと思ってる。それをあなたにやってほしい」と言われて「なぜですか?」と聞くと、「お前は将来いろんなところから依頼をされる劇作家になるから、一番に頼みたい」と。マキノさんには今でも本当に感謝しています。それで書き下ろしたのが『遠州の葬儀屋』。初めて書かせていただいたのが、京都の先輩劇団のM.O.P.というのは今でも僕の誇りです。宮本亜門さんからもこの頃に電話をいただいていました。それでパルコに書いたのが『BOYS TIME』です。森山未來くんとか佐藤隆太くんのデビュー作です(笑)。

――『きゅうりの花』は富山県の利賀村で上演されていますよね。

「利賀フェスティバル」に参加するためでした。当時「利賀フェスティバル」は、「P4」という集団=青年団、花組芝居、山の手事情社、ク・ナウカが持ち回りでディレクションしていました。その年の担当は山の手事情社の安田雅弘さんでしたが、平田オリザさんに推薦していただいて。関西からは初めての劇団だったと思います。ゲストは3団体でレニ・バッソと、野村萬斎さんとMONO。せっかく利賀フェスに参加するのなら、それに合わせた芝居を書こうと思って、田舎を舞台にした芝居を書いたのが『きゅうりの花』です。この公演で良かったのは東京の演劇記者の人たちに観に来ていただけたことですね。それもあってこの頃から「あなたが、土田さんですね」「MONOのこと、聞いてます!」とか、東京の方にも言っていただけるようになりました。家帰ってから“思い出し喜び”をしてました(笑)。

――過疎の町を活性化するために、青年会の若者たちが地元の民謡をディスコ調にアレンジしたイェイェ踊りを都会で踊ろうと企画する話。イェイェ踊りは印象的でした。

劇団が“乗ってる時”って、お客さんも興奮して増えてくるし、食いつくように見てくれるので、何やってもいい方向にいく。楽しかったですね。あの頃の僕の熱はどこに行ってしまったんでしょうね(笑)。

第22回公演『きゅうりの花』 1998年5月3日・4日 利賀山房、6月4日~7日 扇町ミュージアムスクエア

 

――劇団のメンバーが固定されてくるのもこのあたりですよね。

そうです。この前から金替くん以外は固定してましたけど、この公演で金替くんが完全に入団して、そこから7人体制が生まれました。まあ、DVDでは「MONOクラシック」として発売されている一連の公演。その幕開けです(笑)。でもまだまだ京都の片隅で活動している感じはありました。


取材・文/安藤善隆
撮影/森好弘
構成/黒石悦子