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公演情報

壁ノ花団『ランナウェイ』

▼9月9日(木) 19:00
▼9月10日(金) 14:00/19:00
▼9月11日(土) 14:00
▼9月12日(日) 14:00

THEATRE E9 KYOTO

一般前売-3000円 一般当日-3300円
U-25-2000円(25歳以下)
※U-25チケットは当日要証明書。
※未就学児童は入場不可。

【作・演出】水沼健
【出演】金替康博/内田淳子/F.ジャパン/松原由希子

[問]キューカンバー[TEL]075-525-2195

第32回『作品を作る際の物差しに』垣脇純子

MONOの30年の道のりをメンバーや関係者の話から紐解く連載の第32回。
今回は、劇団を陰で支える制作・垣脇さんにお聞きしました。

 

――まず垣脇さんと演劇との出会いについてお聞かせください。

演劇に触れたのは、大学に入ってからです。それまでは淡路島で育って、演劇を観る機会があまりなくて。でも物を書いたりするのが好きだったので、そういうことに関わりたいなと漠然と思っていて。それで近畿大学の文芸学部に行きました。で、入ったのが演劇を主に勉強する学科(※)だったんですよね。そうすると嫌が応にも演劇との関わりができました。演劇を作って、ダンスしてみたいな学科でしたから、「観る」よりも、どちらかと言うと、実際に演ずる方を先に知った感じでしたね。

※注:当時の近畿大学文芸学部には 英米文学専攻・国文学専攻がある文学科、演劇・芸能専攻・造形美術専攻がある芸術学科、文化学科があり、2006年に演劇・芸能専攻を舞台芸術専攻に名称が変更された

 

――何かを書くことがお好きだと先ほどおっしゃいましたが、高校のときは、それに関わる部活動などをやっておられたんですか?

放送部と美術部を掛け持ちしていました。小さい頃からものすごくテレビが好きで、華やかな世界やクリエイティブなものへの憧れがあったんだと思います。放送部が全国大会レベルで強かったこともありますね。

――近畿大学の舞台芸術をお選びになったのは、何か理由が?

最後の最後まで部活動をしていたので、どんな大学に行きたいとかも考えずにいたし、自分の偏差値と照らし合わせて、行けそうなところを受けました(笑)。その選択肢の中に演劇というジャンルを入れていたのは、部活動をわりと必死にやっていたので、そういうものが役に立つんじゃないか、とかちょっと面白そうなんじゃないか、とか思っていたんだと思います。

――大学生活はいかがでしたか。

演劇・芸能専攻の私たちは4期生で、ちょうど全学年が揃ったぐらい。当時は本当に俳優を目指している人は案外少なくて、クラスの人気者みたいな人ばっかりが集まってる感じでした。みんなで試演会というか「お芝居を自分たちでつくってみましょう」みたいなのをやる機会があって、それが文化祭的な楽しさがあって、「ああ演劇って面白いな」って思うようになっていったんだと思います。

――周りで劇団を立ち上げたりした人も?

ありましたね。学園祭のノリで、学外の劇場を借りてみんなで公演したり。それらに参加して、その時は役者もやっていました。

――「役者も」ということは、制作もやっていたってことでしょうか?

そうですね。今はどうかわからないですけど、当時、制作は人気がないセクションでした。でも私自身は、制作がやるとされていた細々とした作業も嫌いではなかったので。役割を与えられるってやっぱり嬉しいですしね。演じるよりそっちの方が楽しいような感じがしたんです。

――大学生活も卒業を迎えて…。

普通に就職活動をしました。試験もいくつか受けたんですよ。やっぱり昔から、ちょっと華やかなものに対する憧れがあったので、マスメディア関係や出版関係を受けていました。でもそういうところは押しなべて早々に駄目でした。勉強も対策もしていなかったので当然の結果で(笑)。でも別の業種には興味が持てなくて、ゼミの担当だった教授に相談をしました。ちなみに太田省吾さんという方で、当時はおもしろい教授くらいに思っていましたが、卒業して演劇に向き合うようになってから偉大な演劇人だと認識しました(笑)。教授から「劇場とか制作会社とか、劇団とか、そういう方面で考えてみては」と言っていただいて。でも、当時は劇場自体が企画してっていうようなところはあんまりなかったんですね。だから「私がやりたいと思ってるようなことを一番そのままできるのは劇団だと思う」って。ただ劇団は経済的な問題もあるから「それでもやりたいと思う劇団を探しなさい。そのためにいっぱい舞台を観て、いいと思うところを探しなさい」と。舞台を実際に作る学生って意外と、自分たちがやることに精一杯で観劇をしていない人が多いように思います。私自身もそんなにたくさんは観てなくて、その頃から慌てて観に行くようになりました。

――その当時、印象に残ったのは…。

大学生のときにすごく好きだったのはカクスコでした。私、昔から演劇の「嘘くささ」が苦手だったんです。恥ずかしいっていうか。「普通こんな恥ずかしいこと、せえへん」って思ってしまう。でも、カクスコは恥ずかしくなくて。舞台も作りこまれていて、しかも、ちょっと劇中に歌も入ってる。観終わって、帰ってからも劇中歌を鼻歌で歌って、ちょっとハッピーな気分になれるんですよ。「幸せな時間をありがとう」っていう感じになれるんです。

――そのとき観たのは?

青年団、弘前劇場…小劇場が多かったです。先輩で「劇団八時半」に入ってる方がいた関係で『芸術祭典・京』を観ました。その年は京都の劇作家5人が小学校跡地みたいなのをテーマに短編を上演していて、その中でMONOが面白かったんですよね。それが私の中に残っていて、後日、本公演の『スタジオNO.3』(1995年)を観にいったんです。

『スタジオNO.3』

 

――観てどうでしたか。

私、実はその時にアンケート書いていて…何年か後に調べたんですよ。残ってるかなと思って。ありました! 「欽ちゃんみたい」って書いてありました(笑)。「おいおい」と思いましたけど(笑)。それで公演のチラシに「制作スタッフ募集」って書いてあったのですぐに電話して、一度お話をしましょうとなって。場所は扇町ミュージアムスクエア。土田さんが関わっていた「扇町コントジャンボリー」(1996年3月5日~10日)の公演中だったと思います。

――土田さんの第一印象はいかがでしたか?

シュッとされてましたねえ(笑)。石丸(奈菜美)さんや立川(茜)さんがこの連載で話していた感じです。でも、昔から喋りやすい方ではあったと思います。すごく緊張していたので、あんまり覚えてないですけど。気遣ってもらって、私が帰る時に梅田まで送っていただいたんですけど「あ、まずい、ソワレの時間が」って土田さんが走って帰っていかれたのを覚えています(笑)。 お会いして、「お世話になります」という話になったのですが、入ってすぐに次の公演があるわけではありませんでしたから、関係者が出ているような公演にちょっと受付のお手伝いさせてもらったりしていました。実際は春に大学を卒業して、夏に『約三十の噓』(1996年)があったので、そこから関わらせていただきました。ただ、まだチラシなどには制作としてクレジットされていなかったと思います。

――制作の仕事を専門で学んだわけではなく、いきなりですよね。

当時は西野(千雅子)さんが俳優をやりながら制作的なルールを決めていらっしゃったので、それをまず覚えるっていうところから始めました。

――少し話は戻りますが、MONOの何が一番自分をぎゅっとつかんだんでしょうか?

もちろん「恥ずかしくない」っていうのが自分の中では重要だったんですが、正確なことはわからないものの、土田さんってちょっとだけ心拍数が早いから、それに沿って喋るのも早いんじゃないかと勝手に思っていて。私も早い方なので、観ていて、自分の生理にあった芝居に出会えた感じがしたんですね。昔と今はまた全然違うんですけど。「恥ずかしいと思う瞬間がなかった」し、「考えようと思ったら次にいっている」し。余計なことを考えずに、舞台に集中して、物語を追いかけて終わる。それがすごい気持ちが良かったというか…。しかも、ちょっと小粋っていう、なんか良いですよね(笑)。

――その時代、1990年代の後半って劇団の皆さんも若いし、MONOって自分にとってどんな集団でした?

皆さん仲が良かったし、ちょっと上のお兄さん、お姉さんと話せて、いろんなことが目新しかったし、楽しかったですね。その反面、私はそんなに劇団のことを知らない状態で入っているから、「これからどうなるんやろなぁ」とは漠然と思っていました。親には、劇団の仕事をすると大きめに言って納得してもらっていたこともあって、「劇団は今後どうしたいと思っているのか」をお聞きしておきたいなぁと、ある時土田さんに聞いたような気がしますね。 96年の終わりか97年の頃だったと思います。

――土田さんはなんて言いましたか?

「プロとして、やる以上はちゃんと知名度のある集団になりたいと思ってる」という趣旨のことを仰ったと思います。本人は覚えてらっしゃらないかもしれませんけど(笑)。そんな中で、98年に利賀の演劇フェスティバルに参加させていただいたり、99年ぐらいからは東京公演を行ったり、嫌が応にも外の人とご一緒させていただく機会が増えてきて、社会性みたいなのが必要なんだなっていうことを肌で感じていきました。外の人からの評価を聞いたりすることもありましたし、ご一緒した方々からいろいろと学ぶことも多くて。劇団も私個人も世界が広がったような気がします。

――「キューカンバー」(劇団「MONO」の制作部を独立させるものとして設立。2001年11月に法人格を取得。MONO以外の演劇公演のプロデュースや制作、マネージメント業務を展開)という会社を2001年に設立されています。

会社を作る少し前から、土田さんがテレビや大きな舞台の仕事に声をかけていただけるようになっていました。土田さんご自身が「このままでは自分一人だけが呼ばれるようになって、そうなるとおそらく劇団が続かなくなるだろう」っていう危機感を感じておられて、法人化した方が劇団のみんなを守れると思ったのが一番大きかったと思います。時を同じくして、いろんな地方の劇場とかに呼んでいただけるようにもなって、そんな時の契約って、私が個人で契約すると、単純に信頼問題と税金の問題みたいなこともあって。あと99年から「セゾン文化財団」から劇団に助成金をいただけるようになったんですけど、その申請時に「夢のプラン」を書いたんですよね。1年目、2年目の目標を立てて、3年目には会社を作って、その後は自分たちで助成がなくても運営できるようにしますっていう書類を出したんですよ。それで「言った限りはやりましょう」って。

――MONOの制作をやっていて何が大変でしたか?

土田さんがロンドンに行くタイミングで、女性がみんなやめたんですよね。俳優のお二人はサバサバとした姉御風の人達だったんですけど、だからこそ頼れました。制作は三人で回してたんですけど、私以外の二人がやめてしまって。あの時はちょっと孤独を感じましたね。

――そんな孤独の中で、続けていこうって思ったのは何故なんでしょうか。

「私がやめたら終わりだ」と思ったこともありますが…、ひとりでコツコツ作業をすることが元々あまり苦ではなかったからですかね。例えば、音響や照明のオペレーターは、怖くて絶対できないけど、制作の仕事は失敗しても取り返せる部分が多いし、地道にやれば何とかできるんじゃないかとかと思っていました。

――制作にとって、一番大切だと思うものは何ですか?

俯瞰して物事を見ることとか、何かあるかもしれない場合のことを、ちょっと人より多く想像するみたいなことかな、とは思っています。でも制作と言っても、企画を立ち上げるところから公演当日の差配をするところまで、いろんな役割を担う方がいて幅が広いので、大事にしていることは人それぞれかなと思います。

――そうですね。制作の仕事は多岐に渡っていますからね。

そうなんですよ、好みもあるというか、人と関わらずにコツコツと作業を積み上げることが、私はどちらかと言うと好きだし、得意だと思うんです。とはいえ「何のためにこんなしんどいことコツコツやってるんや」って思うからそれを確認するために現場に行くっていう感じなんですけどね(笑)。稽古場で作品が出来上がっていく様を見て、状況を把握して、何かが起こった時には、それを引き取ることができることこそが制作というセクションの役割だろうなとは思います。でもそれが出来ているかというと…残念ながら、後々気づいて反省することがいっぱいありますね(笑)。

――印象に残っている作品を教えてください。

やっぱりMONOに入った頃の作品は印象に残ってます。例えば奥村さんが美術を担当した『―初恋』とかは本当に素敵だったんですよ。そして賑やかな客席でもあったんですよね。制作としてその場に居られたのは大きかったですね。「こんなんに立ち会えたらやめられへんやん」っていう感じになりました。土田さんも仰っていましたけど、その頃はお客さんが「まだ来る、まだ来る」って感じで、次やるとさらに来るんですよね。劇団制作をやる人は「一度はそんな場面に立ち会ってみたい」と思うはずですけど、私は入った時にそんな状態だったので、幸運でした。あとは『相対的浮世絵』かな。女性陣はいなくなったけれど、メキメキとエネルギーが盛り上がって行く感じでした。

『―初恋』

 

――若いメンバーの方々はどうですか?

MONOの作品を好きでいてくれる方たちだし、土田さんが信頼して声をかけた方たちなので、今までのことも尊重してくれています。変に媚びないし、すごくバランスの取れた方ばっかりですね。素敵なところが多くて、頼りになります。ただ控え目だったりする部分もあるんで、せっかく若いし、もうちょっと好き放題して、わがままでもいいと思います。

――土田さんが作り上げる世界観があって、その中で垣脇さんが担う役割って何だと思いますか。

私、自分の利点は、同じぐらいの世代の中で中庸なことだと思うんですよ。平均的だと。だから私が理解できないと思ったら、世の中の半分ぐらいの人が分からんのじゃないかなと思うんです。以前、土田さんが世の中の全員が分かるものを作りたいわけではないけど、7割ぐらいの人が分かるものを作りたいと仰っていましたが、それでもやっぱり基本的に難しいこと考えるじゃないですか、クリエイターって。だから「私が分からんということは」…。作品を作る際の物差しみたいになれればいいかなって思っています。

――最後の質問です。これもみなさんにお聞きしていきますが、なれるとしたらメンバー中の誰になってみたいですか?

役者としてやるなら、奥村さんがいいです。私、人の顔色を伺いすぎてわけが分からなくなっていくタイプなので、フラットでいられるあの感じがいいなって。奥村さんになってみたいなって思います。

 

取材・文/安藤善隆
構成/黒石悦子