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土田英生
MONO代表・劇作家・演出家・俳優
1967年愛知県大府市まれ。1989年に「B級プラクティス」(現MONO)結成。1990年以降、全作品の作・演出を担当。1999年『その鉄塔に男たちはいるという』で第6回OMS戯曲賞大賞受賞。2001年『崩れた石垣、のぼる鮭たち』で第56回芸術祭賞優秀賞を受賞。劇作と平行してテレビドラマ・映画脚本の執筆も多数。2017年には小説『プログラム』を上梓。
MONO『はなにら』
【東京公演】
チケット発売中 Pコード:491-195
▼3月2日(土)~10日(日)
一般-4200円
U-25チケット-2000円(25歳以下対象、当日要身分証)
ペアチケット-7600円(2名分/座席指定引換券)
吉祥寺シアター
[作][演出]土田英生
[出演]水沼健/奥村泰彦/尾方宣久/金替康博/土田英生/石丸奈菜美/高橋明日香/立川茜/渡辺啓太
※初日割引:一般-3700円 ペアチケット-6600円(2名分/座席指定引換券)
※未就学児童は入場不可。ペアチケットは公演当日会場にて開演1時間前より座席指定券と引換え。
[問]サンライズプロモーション東京
■0570-00-3337
【愛知公演】
チケット発売中 Pコード:487-699
▼3月16日(土)・17日(日)
穂の国とよはし芸術劇場PLAT アートスペース
一般-3000円
U24指定-1500円(24歳以下)
高校生以下指定-1000円
[演出][作]土田英生
[出演]水沼健/奥村泰彦/尾方宣久/金替康博/土田英生/他
※高校生以下指定券、U24指定券は当日要証明書提示。未就学児童は入場不可。
[問]プラットチケットセンター
■0532-39-3090
【京都公演】
チケット発売中 Pコード:491-204
▼3月23日(土)~27日(水)
ロームシアター京都 ノースホール
一般-4000円(指定)
U-25-2000円(指定、25歳以下、要身分証明書)
ペアチケット-7200円(当日指定、2名分)
[作][演出]土田英生
[出演]水沼健/奥村泰彦/尾方宣久/金替康博/土田英生/石丸奈菜美/高橋明日香/立川茜/渡辺啓太
※未就学児童は入場不可。公演当日、U-25は要身分証明書。
[問]キューカンバー■075-525-2195
【広島公演】
チケット発売中 Pコード:491-204
▼3月30日(土)・31日(日)
広島JMSアステールプラザ 多目的スタジオ
前売-3000円
U-25-2000円(25歳以下、要身分証明書)
[作][演出]土田英生
[出演]水沼健/奥村泰彦/尾方宣久/金替康博/土田英生/石丸奈菜美/高橋明日香/立川茜/渡辺啓太
※未就学児童は入場不可。公演当日、U-25は要身分証明書。
[問]キューカンバー■075-525-2195
第3回「創生期と今までとの決別」 土田英生
MONOの30年の道のりをメンバーや関係者の話から紐解く連載の第3回。
前回は「B級プラクティス」時代の話を中心にお届けしましたが今回は1990年代前半のことを、その頃の関西の小劇場の状況を織り込みながらお届けします。
――MONOという劇団名になった1991年。前回お話しいただいた『ノーティーナインティーズ』に続きコンビニエンスストアの深夜0時から5時までを舞台に、万引き犯と店員たちの人間模様を描いた『0時から5時まで』(1991年8月30日~9月1日 KSKホール)を上演。さらに年末には『ブーゲンビリア改訂版』(1991年12月5・6日 阪急ファイブ・オレンジルーム)を大阪で公演されます。この公演は再演ですよね。
改訂版になっていますが、結局は再演ですね。前回にも言いましたが『ノーティーナインティーズ』は動員も落ちて、あまり評判が良くなかったんですね。『0時から5時まで』は割と良かったんですけど、その前の『ブーゲンビリア』はもっと評判が良かった。まぁ大阪に行く時に、今まで一番観客の反応が良かったのは何かと考えたら、『ブーゲンビリア』だなと。大阪でやりたいとは思っていたので、ビデオと企画書を持ってオレンジルームのプロデューサーの福田さんに会いに行ったんですけど、スケジュールが埋まっていて。でも、あの時は熱かった(笑)。「面白いんです、僕ら!」「ビデオだけでも見てください!」って頼みました。それで、平日ならっていうことで公演させていただきました。そんなにお客さんが入った公演ではなかったんですけど、みんなに「おめでとう」って言われましたね。その頃、京都の劇団は大阪公演をして、次は東京に…という流れでしたからね。だから、まず「大阪で公演できて良かったね」という意味でのお祝いの言葉をもらいました。
第7回公演『0時から5時まで』 1991年8月30日~9月1日 KSKホール
第8回公演『ブーゲンビリア』改訂版 1991年12月5・6日 阪急ファイブ・オレンジルーム
――当時は大阪で公演するならオレンジルームか扇町ミュージアムスクエアかでしたよね。
扇町(ミュージアムスクエア)は敷居が高いと感じていたんだと思います。オレンジルームは、元々関西の劇作家の登竜門だった「テアトロ・イン・キャビン戯曲賞」を催したり、若手の起用もも積極的にしてきた劇場でした。関西の劇場で考えてみると例えば、野田(秀樹)さんとか、鴻上(尚史)さんの舞台は近鉄劇場や近鉄小劇場、北村想さんとか、ブリキの自発団とかは扇町ミュージアムスクエアで観るっていう感じだったので、僕の中では扇町(ミュージアムスクエア)は、東京の劇団も公演するようなイメージだったんです。だから自分たちには無理だと思ったんでしょうね。若手がお願いするにはオレンジルームが最適だと考えたんだと思います。
――次の公演は『紙に書いた青空』(1992年3月28・29日 マイジャーホール)です。
もう今はない劇場ですね。その頃はもう終焉に近かったですけど、まだバブルの流れがありました。京都にもいろんなファッションビルが建って、そのファッションビルの上に結構大きなホールがあったりしたんです。ビブレホールとか、マイジャーホール。マイジャーホールは餃子大王とかがライブをやったりもしていて、スタンディングでも観られる感じでしたが、KSKホールより随分と大きくて「ここで打って出よう」と。ホールには制作チームはなくて、管理だけでしたので、信頼しているKSKホールと一緒に企画、製作をしました。
第9回公演『紙に書いた青空』 1992年3月28・29日 マイジャーホール
この公演の前、水沼君が辞めるって言い出したんです。「本格的に演劇をやりたいわけじゃないから、そうやって本気で頑張っていくなら、一緒にいたらあかんと思う」と東京に行ってしまったんですよ。それで、結構、精神的なダメージを受けて、芝居が雑になってしまった…。当時はお金もないですから、公演はもちろんずっと素舞台でやっていましたし、会場が大きくなっているのに、踊ったりするわけでもなく、素舞台で普通の会話劇をしましたから、今考えたらキツい公演だったと思います。詐欺師の物語だったんですけどね。
――でもこの物語自体は…。
そう、『約三十の嘘』(初演:1996年7月5~7日 扇町ミュージアムスクエア)につながっていく話です。“紙に書いた青空”も「詐欺師同士がいくら親しくなってもお互い信用できないんじゃないか」っていう発想で書かれた作品でした。でも、この時は不本意な形で終わったので、それでもう一回書き直そうと思ったのが『約三十の嘘』です。余談になりますが、この頃、アートスペース無門館で鈴江(俊郎)さんの作品『らくだのこぶには水が入ってるんだぞ』(初演 1988年9月 劇団その1)をプロデュース公演でやったんです。その後、ぴあの演劇担当をされる石川さんがその公演とMONOを観て「京都は才能の宝だと思います」とアンケートに書いてくれて、すごく嬉しかったのを憶えています。
――水沼さんが東京に行ってしまったことについて、もう少しお聞かせください。
泣いて大騒ぎしました(笑)。水沼君の前に創設メンバーの西山君が1回辞めているんです。その後戻ってくるんですけど「西山が辞めて、水沼も…」と思ってショックを受けている時に、今度は、残っていた犬飼君まで「こんなんではやっていけない、俺も辞める」って言い出す状態になって…。僕が西山君や水沼君に対する未練ばかり言ってたからなんですけどね。正直、もう劇団は続かないなと思いました。その時に西野さん、吉本さんがいたんですけど、このままいくと、僕を含めて3人になってしまう。それではやっていけないなと諦めてました。
――そんなことがありつつも、半年後には次の公演『BROTHER』(1992年10月24・25日 扇町ミュージアムスクエア 扇町アクトトライアル92参加)を上演されます。
やっぱりどんな劇団でも長くやっていると、いろんなことが起こるんですが、所々に救いの神がいるんだと思います。前回お話ししましたけど、僕たちにとって最初の救い神はKSKホールの佐藤さん。一回のつもりでとにかくやった公演後に「公演の予定を決めよう」って言ってくれました。その後もいろんな方を紹介してくださったり、他のKSKホールの方々が本当に支え続けてくれていました。そして、この時は扇町ミュージアムスクエアのプロデューサーの米良さんでした。劇団を解散しようと思っていた時に、連絡をいただいたんです。「『アクトトライアル』という企画を始めますから、出ていただけますか?」と。でも僕は「もう僕たちダメなんです、メンバーもいなくなって公演ができません」と。そう言ったら「(辞めるといっている)メンバーをちゃんと説得されましたか。私はあなたたちは才能があると思う。だからギリギリまで待ちますから、もう一度説得してきてくれませんか」と言われたんです。そんなことまで言っていただけるんだと。それでまず犬飼君を説得しました。水沼君は無理だと思ったから(笑)。で、犬飼君は出てくれることになって、西野、吉本、僕の4人だけでこの公演をやりました。
第10回公演『BROTHER』 1992年10月24・25日 扇町ミュージアムスクエア 扇町アクトトライアル92参加
アクトトライアルには遊気舎とか、かっぱのドリームブラザーズとかも参加していたんですけど、僕らは、最低動員数。僕らが430人で、時空劇場が431人。そしたら、時空劇場の内田淳子さんが「一人だけ、勝ったわ」って(笑)。ただ、その時の時空劇場の作品は『紙屋悦子の青春』ですからね。僕たちがやっている演劇の質とは全く違った方向性を持った作品でした。刺激を受けましたね。その刺激がそのあとの『Sugar』という作品とその後のMONOの方向性にも影響を与えていくんですけど…。
今考えると、4人も楽しかったですけどね。僕と犬飼君で機材を積み込んで、軽トラック1台で京都を出発して、劇場に着いて4人で仕込んで…。この作品もつか(こうへい)さんの影響を大きく受けた話なんですけど、それなりに観客にはウケて…。公演が終わって、どん底からは抜けた感じがしたのをはっきりと憶えています。
――節目に人との出会いがありますね。
僕もありますし、どの劇団も絶対、ちょっとルールを超えたサポートをしてくださる人との出会いがあると思います。僕が出会った方々にはもう今から順番に会いに行ってお礼を言って回りたいくらいです(笑)
――『BROTHER』はどんな作品だったのでしょうか。
趣味で陶芸をやっている会社員が、冗談で「明日から会社に来ない」って言ったら、噂に尾ひれがついて「あいつ陶芸家になるらしい」という話になって、会社を辞めざるを得なくなって…という話。まるでつか(こうへい)さんの『出発』ですよね。その噂を言いふらした男と主人公は同じ家に住んでいて、「どうしてくれるねん」ってなった時に 彼女やお姉さんまで登場して、どんどん大変なことになっていく。「会社に帰れる段取りをつけよう」と相談する話。こう話してみると面白い話ですね(笑)
――この公演で奥村さんが舞台美術として参加されたんですよね。
そうです。素舞台だけど、そこに変わったパネルを作ってくれて、いい舞台セットでしたね。舞台美術家としては京都では抜けた存在でした。時空劇場の美術もやっていましたし、綺麗な舞台作るなと。それで、同じ大学の後輩だったこともあってお願いしました。
この公演の稽古の時、僕がダメ出しをしていると、美術家として稽古場にきているはずの彼が小さな声で台詞を言ってみたりしているんです。それで「出たいの?」って聞いたら、「出たい」って(笑)。で、次の公演から役者としても出てもらうことになりました。彼は元々役者をやっていて、パノラマアワーに出演したりもしていましたから。
――次の公演は『ロマン再生』(1993年5月28日~30日 扇町ミュージアムスクエア)。
扇町(ミュージアムスクエア)の米良さんとの繋がりもできて、もう一回やろうよって言ってもらって。でもそんなに動員は増えなかったですね。僕ら動員数が500人を超えたのはかなり後です。ずっと450人くらいで。この公演で西山君が復帰したのですが、時空劇場を辞めてウチに来ていた塚原君はこれが最後になりました。彼はその後、高校の先生になって、演劇部の顧問として全国大会で優勝したりしています。人数も増えましたし、この公演は割といい感じだったと思います。まぁ、つか(こうへい)さんの“パクリ”シリーズ第二弾ですけど(笑)。これは『熱海殺人事件』をヒントに書いた作品で、時効前に犯人、被害者の娘、刑事たちが事件を盛り上げようとする物語。つかさんが『熱海殺人事件』を書く前に考えていた構想をエッセイに書いていて、それを読んで思いついたんだと思います。つかさんのアイデアを勝手に形にした(笑)。
第11回公演『ロマン再生』 1993年5月28~30日 扇町ミュージアムスクエア
この頃は、前回お話しした高橋いさをさんの劇団ショーマが気になって仕方なかったですね。高橋さんもつかさんに影響を受けていましたから。その反面、「いつまでもつかさんを真似ていてはあかんな」とも思っていました。戯曲を書いていても、全然自分のオリジナルになっていかない。やってもやっても…。それだけつかさんが好きだったということはありますけど、考え方がつかさんになってしまっている。新しいことを考えてもパターンがすべてつかさんの手のひらの上なんです。だからもう変えないとダメだと。先ほど言いました時空劇場の『紙屋悦子の青春』という作品の存在があったり、岩松(了)さんや平田(オリザ)さんの芝居を観たりして、そう感じていました。その頃、東京はその種の芝居が勢いを増していましたけど、関西はまだ時空劇場がすごいなんて状況にはなっていなかった。遊気舎とか(惑星)ピスタチオが関西では主流でした。ただ、確実に京都は東京の流れに呼応して、いわゆる“会話だけで成立する芝居”が面白いと思う人たちが増えていました。もちろん鈴江(俊郎)さんたちも出てきていましたし…。
この後の『さよなら、ニッポン』(1993年8月20~22日 アートスペース無門館 9月4・5日 名演小劇場)は聞いていただかなくても大丈夫です(笑)。なぜかと言うと、『ロマン再生』はやったけど、そこそこの結果で、「何か動かしたい」→「じゃあ地方公演をしよう」→「でも東京は怖い」。→「だったら地元の名古屋で」と。名演小劇場に聞いたら「どんな作品を持ってこられますか?」と聞かれて「『さよなら、ニッポン』ウケたよね」というような流れで公演したんです。この時の京都公演はアートスペース無門館の遠藤さんにお願いしてやらせていただきました。KSKホールが閉鎖されたんです。名古屋で公演もした。けどうまくいかない。評判にもならない。公演はしてなかったですけどずっと支えてくれていたKSKホールもなくなった…。やっぱりこのままではダメだなと。『さよなら、ニッポン』が終わった時に、今までの芝居とは決別しようと思いました。
第12回公演『さよなら、ニッポン』 1993年8月20~22日 アートスペース無門館 9月4・5日 名演小劇場
(次回は3月上旬に掲載します)
取材・文/安藤善隆
撮影/森好弘
構成/黒石悦子