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プロフィール

水沼 健(みずぬまたけし)
1967年10月25日生まれ。愛媛県出身。
立命館大学在学時、劇団の旗揚げに参加。その後、劇作家・演出家としての活動も開始。2004年に結成したユニット・壁ノ花団第1回公演『壁ノ花団』で第12回OMS戯曲賞大賞を受賞。その他、近年の活動に壁ノ花団『スマイリースマイル』『ニューヘアスタイルズグッド』『ウィークエンダー』(作・演出)など。近畿大学文芸学部教授。

公演情報

MONO『その鉄塔に男たちはいるという+』

【兵庫公演】
チケット発売中 Pコード:499-016 
▼2月13日(木)19:00
▼2月14日(金)19:00
▼2月15日(土)13:00/18:00
▼2月16日(日)13:00/18:00
▼2月17日(月)13:00
AI・HALL(伊丹市立演劇ホール) 
一般-4000円(指定)
25歳以下-2000円(指定、要身分証明書)
ペア-7200円(2名分、当日指定)
※2/16(日)18:00公演終了後トークショーあり。

【長野公演】
▼2月22日(土)14:00
▼2月23日(日)14:00
全席自由(一般)-3000円 U-25 1500円
※U-25チケットは、公演当日に25歳以下の方が対象。入場時に要身分証明書提示。

【三重公演】
チケット発売中 Pコード:498-535 
▼3月1日(日)14:00
四日市市文化会館 第2ホール
一般-3000円 22歳以下-1500円 
※22歳以下チケットは入場時に要証明書提示。

【福岡公演】
チケット発売中 Pコード:494-909
▼3月7日(土)14:00/18:30
▼3月8日(日)14:00
北九州芸術劇場 小劇場
全席指定 一般-3500円
学生(小~大学生)-3000円(当日、要学生証提示)
※有料託児サービスあり、詳細は北九州芸術劇場[TEL]093-562-2655まで(公演7日前までに要申込)。

【東京公演】
チケット発売中 Pコード:498-963
▼3月13日(金)19:00
▼3月14日(土)14:00
▼3月15日(日)14:00
▼3月16日(月)14:00
▼3月18日(水)19:00
▼3月19日(木)19:00
▼3月20日(金・祝)14:00
▼3月21日(土)14:00/19:00
▼3月22日(日)14:00
吉祥寺シアター
指定席 一般-4200円
25歳以下-2000円(当日要身分証)
ペアチケット-7600円(2名分/座席指定引換券)
※ペアチケットは公演当日会場にて座席指定券と引換え。

【作・演出】土田英生
【出演】水沼健/奥村泰彦/尾方宣久/金替康博/土田英生/石丸奈菜美/高橋明日香/立川茜/渡辺啓太

※未就学児童は入場不可。

チケット情報はこちら

第19回「ACTOR’S HISTORY⑨」水沼健

MONOの30年をメンバーや関係者の話から紐解く連載の第19回。
前回は劇団と演劇から一度離れ、東京に向かった1991年までをお届けしましたが
今回は、東京から京都に戻り、ふたたび演劇に携わり、
MONOの中心メンバーとして活躍されるまでのお話をお届けします。

 

――前回は劇団を一度離れられたときまでをお聞きしました。今回はそこから戻るきっかけとなった頃のお話からお聞かせください。

大学を6年かけて順調に卒業できたのはいいのですが、就職活動をまったくしてなかったんですよ。で、2月に大学の卒業判定が出て、そのまま東京に行きました。京都に戻るきっかけになったのは、「GOVERNMENT OF DOGS(ガバメント・オブ・ドックス)」(*編注:1991年、故林広志を中心に立命館大学で結成されたコントユニット。土田、水沼も参加。1997年まで活動。2008年に1公演限りの復活公演を行う)になりますね。ガバメントの1周年を銘打った『GOVERNMENT OF DOGS monthly 6月/大きめ(1周年)』(1992年6月14日 KSK HALL)で、土田さんから「公演のチラシに名前を載せといたから」っていう連絡がきたんです。それで、東京まで稽古しに来てくれて。そしたら、故林君の台本が面白かった。その笑いのセンスは自分では考えられないものがありました。台本の魅力に負けましたね。それで公演に出て、また東京に戻ったんです。でも、その2ヵ月後にもまた今度はベスト盤的な公演をするからってことで公演に出ることになりました(笑)。(『GOVERNMENT OF DOGS monthly 8月/記念碑的総集編・前編』1992年8月9日 ウイング・フィールド、『GOVERNMENT OF DOGS monthly 8月/記念碑的総集編・後編』 1992年8月21日 KSKホール)。結局、8ヵ月くらい東京で生活した後、実家のある愛媛に帰って、就職先を探しました。でもその後、またガバメントから声が掛かって…(笑)。(『GOVERNMENT OF DOGS発病』 1993年2月27・28日 KSKホール)実際、ガバメントは楽しかったんです。“発病”は「新しく固定した6人のメンバーでやるんだ」と故林君が言い出して、そのメンバーとして加えてもらったことがうれしかったし、就職することにも迷いがあったんです。それなら一度「京都に戻ってみようか」という感じだったような気がします。

――MONOにはいつ戻られたのでしょうか。

京都に戻ってきているということもあって『さよなら、ニッポン』の再演(1993年)をすることになった時に誘われて。それを断る理由もないし…。この公演が劇団へ帰るきっかけではあったと思います。西山君が僕より先に戻っていましたね。大きな決断をして戻ったわけではないんですけど、なんとなくそのまま流れに乗って元の場所に戻ったような感じでした。

――『さよなら、ニッポン』の再演が終わった時、土田さんは「このままではダメだ。今までの演劇とは決別しようと思った」と。それで『Suger』(1994年)でトーンを落とした会話劇を書いたと語っておられます(本連載第3・4回)。また劇団ホームページの『Suger』の項には「芝居の方法を現在のスタイルに変え、新たな一歩を踏み出した作品」ともあります。“トーンを落とした会話劇”という意味では、1992年の『BROTHER』で扇町ミュージアムスクエアのアクトトライアルに参加した際、同じく参加した時空劇場『紙屋悦子の青春』に対して、「自分たちとはやっている演劇の質とは違う方向性を持った作品で刺激を受けた」とも土田さんは語っておられます。この時期のことについて少しお話をお聞かせください。

この頃、松田正隆さんや鈴江俊郎さんの作品が全国的に評価されるようになりました。そんな状況にも影響されたんじゃないかなと思います。作品性だけでなく、劇団の雰囲気が明らかに変わりましたね。時空劇場の面白さには僕もかなり影響を受けましたし、鈴江さんの会話劇に対してもそうですね。あと僕にとっては演劇に対しての興味が高まっていった時期ではありました。それまではほとんど演劇を観に行くことがなくて、「演劇を楽しむ」みたいな感覚があまりなかったんですけど、徐々に周りのカンパニーの作品も観るようになって、楽しめるようになったんだと思います。もちろん面白いものも、そうでないものもありますけど、とりあえず、数を観るようになってから“演劇の見方”みたいなものが少しは分かるようになってきて、演劇に対する期待も自分なりに育っていきました。松田さんや鈴江さんの舞台だけでなく、維新派が野外で大きな舞台を始めた頃で、それにも刺激を受けましたね。

――MONOにとっては奥村さんや尾方さんも、少し前に相次いで入団された時期でもありました。

この頃の作品で驚いたのは『路上生活者』(1995年)ですね。その前の『Suger』は変わろうという意識が強すぎて、自然な会話をやろうとしすぎてるなと思ったんですが、この作品は土田さんにも時間的余裕がなくて台本は遅かったんですけど(*編注:『Suger』の2ヵ月後に『路上生活者』を公演)、余裕がない分、とにかく「かき集める」感じがあって、そこから言葉が生まれてきていました。セリフが『Suger』よりマイルドな感じがして、それが自然な会話に繋がっているなと思いました。建物があって、壊されて、「ここ、前、なんだったっけ」みたいな、何でもない会話が続くんですけど、そこがすごく深い感じがして。「こんなセリフが書けるのか。すごいな」って驚いたのを覚えています。それは「狙って書いたセリフ」というより、「こぼれ落ちてきたセリフ」だったんじゃないかなって気がします。このあとは多分、そこを狙って書けるようになっていったんだと思います。言葉を捕まえにいって、それが確実に形になるみたいな。だからそのあとの「乗ってる時期」がくることに関して、驚きはなかったですね。

――劇団としての方向性や骨格がしっかりと固まり始めていた感じがありましたか?

劇団に制作が入って、劇団の表と裏が揃って、舞台を作る体制も整ってきていましたね。それが以前よりカンパニーとしての安定感に繋がっていったんじゃないかと思います。

――その頃の作品で印象に残っているものはありますか?

1995年あたりの、『約三十の嘘』『―初恋』『赤い薬』などの公演はどれも印象に残っています。その頃の中で印象的な作品をひとつ選ぶなら、『―初恋』かな。ゲイの人たちが住むアパートの中で暮らす住人たちが一人の女性に恋するという話で、僕はその中でリーダーの役だったんですけど、周りの人たちが「そこから去っていく」という話でもあって…。すごく笑いの多い作品ではあったんですけど、役者としてはある意味キツイ作品でした。言葉遣いとか、役柄とか、ゲイの役はすごくやり辛かったし、それ以上に周りから人が消えて行くっていうのが、演じていて非常に辛かった。でも、そう思うのは役に没入できていたからなんだとも思います。そんなことは今までなかったし、そこまで求められるようなこともなかったと思うのですが、この役はそこまで没入しないとできない役でした。だから精神的には辛い役でしたけど、自分にとっては大きな経験でしたね。そういう意味で印象に残っていますね。

――それは確かに役者として大きな経験ですよね。

自分はそういう風に「役を作る」ことはしたくないと思っていたんです。ちょっと役と距離を置いてそれであまり過剰にキャラクターを作らない形で、それまでやってきていたので。この作品に関しては自然とそうせざるを得なかったということで、図らずも、そういう経験ができたと思います。

――その後、先程、水沼さんも話しておられた、土田さんが乗って書いている時期が続きました(*編注『きゅうりの花』OMS戯曲賞大賞を受賞した『その鉄塔の男たちはいるという』、その後、小説『プログラム』のモチーフにもなる『燕のいる駅』、『錦鯉』)。その中に『なにもしない冬』(2001年)という作品があります。この連載の中でも、土田さんが熱く語られた作品でした。その作品について少しお話をお聞かせいただけますか。

土田さんは、この作品に対してすごくこだわりがありますね。それまでは「いがみ合いとか対立みたいなものを笑いに転化する」という、その作用を最大限に利用して作品を創作してきていたと思うんです。でもこの作品は、その言い争いを「そのまま言い争い」として扱おうという感じだったので土田さんにとってのエポックになったんだと思います。この頃の土田さんの言葉で印象的だったのは「なんかみんな、イラついてるよね」みたいなことをおっしゃたんです。何でそんなことを言うんだろうと思ったんですけど、苛立ちを隠して、それを笑いに変えていくことに、もしかすると疲れたんじゃないかなとも思いましたね。

――そのあと2003年に土田さんが文化庁の新進芸術家留学制度で1年間ロンドンに留学されます。

いい時期だと思いました。土田さんが、外部の仕事が増えてちょっと精神的にしんどそうだったし。僕は結構この時期忙しくて、京都芸術センターの「演劇計画」というプロジェクトの1年目で(*編注:演劇計画=舞台芸術作品を生み出す長期的視野の立ったプロジェクト。従来の劇団、カンパニーの枠を超えて演出家を発掘育成し公演。翌年イヨネスコ作『アルマ即興』を上演)、そのあと壁ノ花団結成の準備。12月にはMONOの特別企画『退屈への扉』(2003年)の演出をしたり、岡山に呼ばれて劇を作ったりもしていて、休みなく演劇をしていた時期でしたね。

 

取材・文/安藤善隆
撮影/沖本 明
構成/黒石悦子