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プロフィール

水沼 健(みずぬまたけし)
1967年10月25日生まれ。愛媛県出身。
立命館大学在学時、劇団の旗揚げに参加。その後、劇作家・演出家としての活動も開始。2004年に結成したユニット・壁ノ花団第1回公演『壁ノ花団』で第12回OMS戯曲賞大賞を受賞。その他、近年の活動に壁ノ花団『スマイリースマイル』『ニューヘアスタイルズグッド』『ウィークエンダー』(作・演出)など。近畿大学文芸学部准教授。

公演情報

MONO『その鉄塔に男たちはいるという+』
●2020年2月13日(木)~17日(月)
(木)(金)19:00 (土)(日)13:00/18:00 (月)13:00
AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)
一般-4000円(指定) 25歳以下-2000円(指定、要身分証明書) ペア-7200円(2名分、当日指定)
【作・演出】土田英生
【出演】水沼健/奥村泰彦/尾方宣久/金替康博/土田英生/石丸奈菜美/高橋明日香/立川茜/渡辺啓太
※2/16(日)18:00公演終了後トークショーあり。未就学児童は入場不可。
Pコード 499-016
発売中

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第17回「ACTOR’S HISTORY⑦」水沼健

MONOの30年をメンバーや関係者の話から紐解く連載の第17回。
今回は立命館大学在学時に劇団結成に参加。
その活躍が演劇界を刺激し続ける水沼健さんの幼少の頃から大学時代まで
その独特の感性を培った原風景をお届けします。

 

――これはメンバーのみなさんにお聞きしていく質問です。水沼さんが演劇というキーワードに出会ったのはいつ頃ですか?

覚えていないんですよね(笑)。みんなが最初に聞かれているので考えたんですけど。幼少の頃に、学芸会とか、何かしら演劇的なものに関わる機会があったかもしれませんが記憶に残っているものがないんですよ。興味がなかったからかもしれません。ですから演劇との出会いとなったら、高校3年ぐらいになります。

――そこまで…。

そうなりますね(笑)。すいません。

――質問を替えますね。小学校の時は何に興味を持たれていましたか?

野球を観るのは好きでしたね。とはいっても人並み程度ですが。友達と草野球チーム作っていました。王(貞治)選手が好きでしたね。やっぱり野球の華はホームランでしょ(笑)。その頃は所謂「文系的」なものは好きではなかったですね。縁がなかった感じです。読書感想文とか全然ダメでした。本を読むのも大嫌いだし、科目で言えば国語は大嫌いでした。得意だったのは理科と社会。「理系」が好きでしたね。

――そのあと、中学生の頃はいかがですか。

ラジオばっかり聴いていました。親が転勤族だったんですよ。定期的に移動することが決まっているから、今あるものの「終わり」が決まっちゃってるんです。例えば野球チーム作ったとしても、僕だけ終わりが見えていて、「次」の転校先に行かなくちゃいけない。塾に通っても途中で辞めないといけない。そういった事情であらかじめ終わりや別れを意識してしまう中学生だったと思います。小学生の時に4回、中学校で1回、愛媛県内だけでしたけど転校しました。友達としっかり「チーム」を作っちゃうと、そこから一人だけ抜けないといけなくなる。それが自分の負担になってくるんですよ。ですから継続的な活動に対し強い警戒心を持つようになっていたと思います。そうすると夢中になるとしたら「一人でできるもの」になって、それがラジオや音楽を聴くということでした。

――その頃、印象に残っているラジオ番組はありますか?

やっぱり『オールナイトニッポン』ですかね。(ビート)たけしさんが好きでした。録音もしていましたね。タモリさんとかも、あの落ち着いた感じが好きでした。お笑いなのにあのガッつかない感じが。たけしさんはガッつくじゃないですか。その二人のギャップも面白くて、そんなことでも楽しんでいました。あと、転校する地方ごとに言葉が少しずつ違っていて、それを覚えていくことが楽しかったのを今、話していて思い出しました。僕は三人兄弟なんですが、下の弟とは二つしか離れていなくて、学校行って、帰ってきてっていう「外の世界」に触れる経験、情報は変わらない。でもその中で、弟の方が先にその地方の言葉を覚えてきたり、使ったりするのがうまかったんです。それで二人で競うように、頑張って新しい言葉を覚えることをしていた部分もあったと思います。もしかすると国語が大嫌いだった僕が「言葉」に対する興味をそこで持てたのかもしれません。

――高校3年の時、どんなきっかけで演劇と出会われるんでしょうか?

出会いというか、自分から演劇を観るんじゃなくて「観させられて」観たのが高校3年の時でした。僕の高校が愛媛にある新設校で、僕らの代が1期生だったんです。だから3学年揃ったのが僕が高校3年生の時。その時初めて文化祭をやることになって、クラスでそれぞれ出し物を考えることになったんです。その時、クラスの出し物だけでなく、有志で即席で演劇部ができて「公演をするから体育館に集まれ」と。まあ僕は当日まで知らなかったんですけど(笑)。

――どんな内容だったんでしょうか。

内容はあまり覚えてはいないんですが、イジメをテーマにしたような作品で、衝撃的に面白くなかったことだけは覚えています(笑)。これが演劇というキーワードとの最初の出会いではないかなと思います。見た記憶としてはありますが、それ以上の印象はありませんでした。ほんとにつまらなかったとしか。

――水沼さんご自身のクラスは何をされたんですか。

クラスの企画は何をしてもよいということだったと思いますが、うちのクラスは当時、鶴瓶さんの『突然ガバチョ』(1982年10月~1985年9月 火曜日22:00~ MBS系)っていう公開バラエティ番組があって、その中に『テレビにらめっこ』っていうコーナーがあったんです。視聴者から番組に送られてきたギャグが書かれたハガキを鶴瓶さんが読んで、スタジオの観客が笑わずに我慢するっていう企画です。友達と放課後それをよく真似してやっていたのですが、それをクラスの出し物としてやりました。なんだか僕が代表者のような立場にされて企画としては大いに失敗しました。他のクラスは無難に合唱ばかりでしたけど(笑)。その企画をいっしょにやったうちのひとりが半年後、本当の意味で僕に演劇と出会わせてくれる手引きをしてくれた西山(智樹)くんでした。

――「笑い」という事に対しては深夜ラジオやテレビを通して親近感を持たれていた感じですか?

そうですね。「お笑い」は好きでしたね。漫才ブームもありましたし。テレビでは『ひょうきん族』。これを見るためだけに「生きてる」って感じすらありましたから(笑)。やっぱりたけしさんが好きだったんです。それと大学受験で東京にも受験に行ったのですが、その日は試験が終わったらすぐ帰らなきゃいけなかったんです。でも、ちょうど木曜日でたけしさんの『オールナイトニッポン』がある日。で、たけしさんは放送が終わったら、その後は四谷の『北の屋』っていう当時自分が持ってた店で飲むっていうことを知ってて、そこに行こうと。そしたらたけしさんに会えるんじゃないかって思って。流れ次第では「弟子にしてもらってもいい」とまで思ってました。新宿で時間を潰して満を持して四谷に行ったら、四谷という街が思ってたよりも巨大で見つけられず…(笑)。まあ何が言いたいかというと、そのくらい、たけしさんとたけしさんの笑いが好きだったということです。

――大学は東京ではなく、京都の立命館大学に入学されて、その後、立命芸術劇場に入られます。

入学して最初は、友達に誘われてソフトボール同好会に入ったんです。そんな時に先ほど名前の出た西山君が先に立命芸術劇場に入っていて、彼に誘われました。まあ西山君も、クラスの友達に誘われて立命芸術劇場に入って。その誘った友達は西山君を紹介する代わりに抜けたんです(笑)。なんだかネズミ講みたいでしょ。もしかすると、彼も僕を入れて「抜けよう」としてたのかもしれません。ただ、西山君のたっての願いだというし「行くだけ行くわ」って言って一緒に部室まで行ったんです。そしたら「新入団員?」って聞かれて、「いやぁ、友達に連れられて見にきました」って言ったんですけど、その日のうちにあだ名を付けられて。立命芸術劇場は上下の関係をなくすため、あだ名で呼ぶんです。まあ、後輩は先輩のあだ名にさん付けするので上下関係は無くならないんですけどね(笑)。で、僕が付けられたあだ名は「金髪ボインダー」でした。

 

取材・文/安藤善隆
構成/黒石悦子