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プロフィール

金替康博(かねがえやすひろ)
1967年6月20日生まれ。福岡県出身。
立命館大学卒業後、1992年~1997年まで劇団「時空劇場」(主宰:松田正隆)に所属。1998年にMONOに参加。近年の主な出演舞台に、竹内銃一郎集成『花ノ紋』、東京マハロ『紅をさす』、壁ノ花団『スマイリースマイル』『ニューヘアスタイルイズグッド』『水いらずの星』、 ABCホールプロデュース『目頭を押さえた』など。そのほかテレビドラマ、CM出演も多数。第2回関西現代演劇俳優賞男優賞受賞。

第15回「ACTOR’S HISTORY⑤」金替康博 前編

MONOの30年をメンバーや関係者の話から紐解く連載の第15回。
今回は立命館大学卒業後、1992~1997年まで劇団時空劇場に所属し、
その後、 MONOに参加された金替康博さん。
その飄々とした佇まいで唯一無二の存在感を感じさせる彼の
幼少の頃から大学時代まで、その演劇との出会いをお届けします。

 

――これはメンバーのみなさんにお聞きしていく質問です。金替さんが演劇というキーワードに出会ったのはいつ頃ですか?

一番最初は幼稚園の時の学芸会だったと思います。具体的にはあまり覚えていないんですけど(笑)。ストーリーは山の神と海の神が対立していて、双方には手下がいて、山の神の手下が動物だったかなぁ。そのふたつが争いごとをするんですが、最後は仲良くなって、終わり。みたいな内容だったと思います。その対立する二つの神のうちの山の神をやりました。

――幼少の頃ですが、「舞台に立つ」ことがどんな感覚だったか憶えてらっしゃいますか?

先にお伝えしておきたいんですが、僕、いろんな話しをしていくと思うんですけど、その中でキーワードになるフレーズは「あんまりよく憶えてないんですよね。昔のこと」になるんです(笑)。すいません(笑)。この時のことも、ただ写真で、王冠みたいなものを頭につけているので、「ああ、そんな役やってたんだなぁ」ぐらいの感じなんですよ(笑)。

――その感じで大丈夫です(笑)。質問を続けますが、そのあと成長するに従って、演劇に対するイメージはどう変化していきましたか。

小学校低学年の時に、学校をめぐる“演劇”が僕たちの小学校にもやってきたんです。それを観て、あまり意味がわからなかったですね。当時の僕には、何をやっているのかがわからない。なんで、あそこ(舞台上)で喋っているのかなって。高学年になっても同じでした。

――小学生時代はどんなお子さんでしたか?

小学生の頃は意外と活発な子供でしたね。隣に住んでいた同級生の男の子とふたりで遊んでいました。海の神だったやつなんですが。学校から帰ってからも、その子の家に行ったり、公園に行ったり、地域のソフトボールクラブにも入って一緒にやってましたね。僕は出身が福岡で、福岡空港と博多駅の間にある、周りが田んぼばかりのところで育ったので、小さい頃は秘密基地とか作り放題でした。小学生の頃に空港と博多駅を繋ぐ幹線道路ができて、田んぼが全部なくなりましたけどね。

――その頃、何に興味を持ってました?

兄が漫画好きだったので、借りてよく読んでいました。「週刊少年チャンピオン」が全盛の時代で、手塚治虫の『ブラックジャック』(1973~1978年連載、その後1979~1983年不定期連載)とか、山上たつひこの『がきデカ』(1974~1980年連載)とか好きでしたね。あと、「週刊少年ジャンプ」の『アストロ球団』(1972~1976年連載)も。チャンピオンではその少し後ですが、鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』(1977~1979年連載)も好きでした。「月刊コロコロコミック」(1977年創刊)は友達と回し読みをしてましたね。

――多感な中学生、高校生に成長されてからは?

中学生になる頃、先ほどお話した隣の同級生が引っ越してしまって…。そこから“一人の時期”に入っていきましたね。本を読んだり、映画を見に行ったり。星新一さんが好きでずっと読んでました。どこでハマったのかはよく憶えていないんですけど(笑)。そこからSFの世界に魅了されて、(レイ・)ブラッドべリとか(ロバート・A・)ハインラインとかを読みました。星新一さんが何かの雑誌で自分の好きな小説を紹介していることがあって、「星さんが言ってるんだから、一通り読んでみよう!」と思って読んだら、すごく面白くて。映画は『スター・ウォーズ』の日本公開2作目、3作目あたりとか(『エピソード5 帝国の逆襲』(1980年6月日本公開)『エピソード6 ジェダイの帰還』(1983年7月日本公開))『E・T』(1982年12月日本公開)とか。やっぱりSFが好きになってたからでしょうね。

高校になっても“一人の時期”は続きました。クラブには入らず、バイクの免許を取って、熊本とかにソロツーリングとかしてました。原付より少し大きなバイクで当時はノーヘルでOKの時代でしたね。そんなことを誰かと共有することもなく“一人”の時代を過ごしていました。何が面白かったんでしょうね(笑)。学校では普通にクラスのみんなと喋るんですよ。テレビの番組の話とか…。

――当時はテレビではお笑い番組も多く放送されてましたが、それらに影響されることはなかったですか?

そうですね。兄とよく見てました。でも“あちら側”の人たちがやってることって感じがして、別世界の出来事だと思ってました。それはSF、映画の世界とも共通した感覚でした。だから今の自分を当時の僕が見たら“なにやってるの”ってびっくりするかもしれません(笑)

――その後、立命館大学に入学されることになります。

受かったのが立命館だけだったんです(笑)。京都は碁盤の目のように道路が交差しているって聞いていて、なんとなくデカいイメージを持ってたんです。牛車が走ってたくらい広い道が碁盤ですから。でも実際には道が狭くて思い描いていたイメージとは全然違いましたね(笑)。

――それまでに本格的に演劇に触れられるきっかけはあったんでしょうか?

高校生の頃に「卒業生を送り出す会」があって、学校の演劇部がそれをやるのを強制的に観る機会があったんです。内容は覚えてないんですが、これが、本当に面白くなくて…。それだけ覚えてます。だから「なんかよくわからないつまらないもの」というイメージが続いてました。そんな時にチケットを売るプレイガイドが繁華街にあって、そこにすごくカッコいいポスターが貼ってあったんです。それが、(劇団夢の)遊眠社のポスターでした(1985年 第28回公演『宇宙蒸発』(ワルハラじょうはつ))。遊眠社のことなんてそれこそまったく知らなかったんですけど、それが「演劇」って書いてあるコーナーにあるんです。「演劇ってこんなにカッコいいものじゃないはず」って思いながら、プレイガイドの人にチケットのことを聞くと「売り切れでチケットはない」って言われて。がっかりしましたけど、その気持ちを払拭するために、福岡に劇場を持っている劇団のチケットが取れたので観に行ったんです。でも、これがまた面白くなかった(笑)。つまらないくせにポスターはカッコいいしチケットも手に入らない「何なんだ、演劇って…」と、演劇に対してモヤモヤが増幅されていくばかりでした。

――その演劇に対するモヤモヤを持ったまま、立命館に入ることに…。

そうですね。入学したての頃、キャンパスの通りに新入生を部やサークルに勧誘するブースが出ていて、右に「立命芸術劇場」、左には「月光斜」と、“演劇”って書いてあるところがワイワイ騒いでいて。そこを歩いていたら公演のチケットをもらったので、演劇を「もう一回見てみようか」って思いました。立命芸術劇場は北村想さんの作品で、月光斜は井上ひさしさんの『泣き虫なまいき石川啄木』で、両方観ました。どちらかに入ろうと思って観たわけじゃなくて、演劇に対するモヤモヤがあったから観たんですけど…。それが両方面白かったんです! 奥村さんが入っていた立命学生劇場も観て(それは清水邦夫の作品だったと思うんですけど)みんな「面白くない」って言ってたけど、僕はそれも面白かった(笑)。もしかするとその時、自分から意識して「演劇」と出会おうとしていたのかもしれません。演劇が「面白いな」って思うようになっていたし、とりあえず話でも聞きに行ってみようと思ったのが月光斜の方でした。立命芸術劇場の方が厳しそうだったので(笑)。立命芸術劇場には水沼さんも出てて、そちらの方が面白かったんですけどね(笑)。

――月光斜に入られていかがでしたか?

楽しかったですね。サークルに行くために学校に行くみたいな感じです(笑)。みんなで協力してひとつの作品を作っていくというのもあるし、舞台は千秋楽が来たら終わる。台詞や段取りなんか全部忘れて良い。作って壊すサイクルが以外と性に合ってたんだろうなと思います。僕はあまり長期スパンになると、“気持ちが持たない”性格でもありましたから(笑)。もうすぐ怠けられるみたいな感じがいい(笑)。それが本当に自分に合ってるのだろうなって思いました。

――大学時代は月光斜の活動以外にも、さまざまな演劇作品に触れられていたんですか?

そうですね。そのあと、いろいろ演劇を観るようになっていくんですけど、当然、遊眠社も観ました。初めて観たのは『半身』(第35回公演 1988年)です。「これがあの遊眠社だったのか」って(笑)。ポスターのカッコよさが腑に落ちました。そのあと南座で『贋作・桜の森の満開の下』(第37回公演 1989年)も観ました。あと第三舞台なんかも観ましたね。「もう、すごい人たちだ!」って。自分も同じ“演劇”に携わるようになったけど全然違う。ソフトボールをやっている自分が、メジャーの選手と同じ“演劇”というフィールドにいるのはちょっと不思議な感じもありましたね。実家の裏の空き地にロジャー・クレメンスがいるみたいな。

 

取材・文/安藤善隆
構成/黒石悦子