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プロフィール

奥村泰彦(おくむらやすひこ)
1968年2月6日生まれ。兵庫県出身。立命館大学でMONOのメンバーと知り合い1992年に参加。俳優と並行して舞台美術家としても活躍する。舞台美術家としての近年の作品にグループ る・ぱる『蜜柑とユウウツ~茨城のり子異聞』(演出:マキノノゾミ)、テアトル・エコー『青い鳥たち、カゴから』(演出:土田英生)ほか。第14・17回読売演劇大賞優秀スタッフ賞受賞、第6回関西現代演劇俳優賞男優賞受賞。

第13回「ACTOR’S HISTORY」奥村泰彦 前編

MONOの30年をメンバーや関係者の話から紐解く連載の第13回。
今回は立命館大学在学中に舞台美術として MONOに参加。
その後、俳優、舞台美術家としても活躍されている奥村泰彦さんの
辿ってこられた道のりをお届けします。

 

――これはメンバーのみなさんにお聞きしていく質問です。奥村さんが演劇というキーワードに出会ったのはいつ頃ですか?

演劇に出会ったのは小学校低学年の頃で、宝塚歌劇を観に行きました。お遊戯会とかではなく“公演”として出会ったのはそれが最初だと思います。小学校2年か3年の頃、子供会の年に一度の催しで「今年は芝居を観に行こう」という年があったんです。それで、住んでいた地域の沿線に宝塚があったので、みんなで観に行くことになりました。

――宝塚歌劇の印象はどうでしたか?

とにかく、みんな声がでかいな(笑)というのが一番印象に残っています。あと、子どもなので、女性が男性を演じることに最初は違和感がありましたが、公演が終わる頃にはそれが当たり前のようになって、歌もあり踊りもありで結構楽しく観たことを覚えています。でも本当に声が大きかった…(笑)。

――そこから舞台に興味を持つようになりました?

そうではなかったんですが(笑)。小学生の頃って、学校で学んだことを芝居にして見せる学習発表会っていうのがあって。それで割といい役をもらって「楽しいもんやなぁ」って感じたりはしていましたね。

――学校の発表会で“いい役”を演じる人って、中心的、リーダー的な人が多いですよね。

中心ではないんですけど、小・中学校では生徒会長をやっていました。ちゃんと選挙に出て、公約を言ったりして。何ひとつ守れなかったですけど(笑)。

――人前に出るのは好きだったんですか?

そんなことはないです。ただ、中学校までは割と活発な子だったとは思います。でもまぁ生徒会長に立候補するくらいだからそうだったのかもしれませんね。その頃までは、バラ色とまではいかないですけど、楽しい人生を歩んできていたと思います(笑)。でも高校に入って、そこから一気に転落しちゃって。簡単に言えば、進学校に入ったんですが、落ちこぼれたんですね。持病で蓄膿症を持っていて、それが高校1年の時にすごく悪化して、それが一番大きかったと思うんですけど。授業中とかもずっと鼻を押さえていて、鼻水は出るんだけど、鼻が通らなくて口呼吸しかできなくて…。それが2年くらい続きました。頭もぼーっとして、年中花粉症みたいな感じで集中して授業を聞けないんで、どんどん落ちこぼれていきました。それから何をやってもダメみたいな感じになっちゃって、もちろん恋愛もしていなかったし、暗い高校生活を送りましたね。

――高校生の頃、何か影響されたものとかありますか?

演劇に関しては、学校公演に来た劇団の『岩窟王』を観て、それを「割と面白いな」と思ったことは憶えています。でもだからと言って演劇をやってみようとは思わなかったですね。学校に演劇部はあったんですけど、全然興味が湧かなかった。高校から大学にさしかかる頃に、映画には影響を受けました。テレビの「日曜ロードショー」でいろんなアメリカ映画が放映されていて。そこに出演している、ダスティン・ホフマン、ロバート・デ・ニーロとか…。「演じてみたいな」と思うようになったのは、その頃見た彼らに対する憧れがあったからというのが大きいと思います。

――確かに当時は地上波のテレビでも洋画がよく放映されていました。

「金曜ロードショー」もありましたしね。週に2~3日やっていましたから。それをよく見ていました。大学に入ってからはビデオを借りまくって、一日に3本くらい見たりして…。でも映画を撮る方ではなくて、そこに出ている役者に対して憧れて「こういうことができたら楽しいだろうな」と思いましたね。

――その後、立命館大学に入学されるんですよね。

入学した頃は、将来は学校の先生になろうと思っていました。高校の時に落ちこぼれて、その中でも一番苦手だったのが英語だったのですが、それから塾に通い始めて、高校2年の終わりあたりから挽回し始めて、結構成績が伸びたんですよ。それで、僕自身が、英語が苦手なのを克服したし、なぜ分からないかというのも理解できるし、どこでつまずくかも分かる。それで「俺って、いい先生になれるんじゃないか」と思って、英語の教師になろうかなと(笑)。立命館の文学部英米文学科に進んだのもそんな理由からです。イギリス留学もしたんですよ。2回生が終わって、1年間ウィンブルドンに行って、語学の勉強をしました。順調だったんですけど、留学に行っている間に、教師になる夢がしぼんできて(笑)。「俺、教える側には向いてへんのちゃうか」と思ったのがひとつと、あと英語って言葉なんで、イギリスの子どもが僕よりも、すらすらしゃべっているのを聞いて「こんな子が俺よりうまんいんだから、英語なんか学んでもしょうがないんじゃないの」って思って(笑)。教師になる夢は、語学留学の最後の頃にはなくなっていました。それで帰ってきて、3回生。一応1回生の終わりぐらいに演劇部に入ってはいたんです。なぜ入ったかというと「賑やかそうだったから」という理由だけです(笑)。その頃小劇場ブームがあって、演劇自体がすごく華やかな感じだったんです。それで僕も、役者に対する憧れも少しあったし「さわりだけでも触れてみよう」と入ったものの、役者のキャスティングに落とされまくって、裏方ばっかりやらされてました。その裏方の時に初めて舞台美術をやったんです。

――立命館大学には演劇サークルが多くあったと聞いています。土田さんや尾方さんは立命芸術劇場でした。奥村さんはどこに所属されていたんですか。

僕らの頃は6~7つのサークルがあったと思います。僕はそこで学生劇場というところに入ったんですけど、バイトで留学費用を貯めないといけなかったので、演劇に真剣に向き合ってはいなかったですね。でも教師への夢がなくなって、留学から帰ってきて、「さあどうしよかな」って思った時に、劇団にも以前よりは顔を出すようになっていきました。それでだんだん楽しくなってきて(笑)。役者としてもキャスティングされて、舞台に徐々に出演できるようになっていったからかもしれません。

――役者として出演できるようになったのは、何かきっかけがあったんでしょうか。

なんででしょうね。これは分からないですけど、周りが勝手に「イギリス帰りで、すごい演劇を学んできたんじゃないか」って思っていたのかもしれません。そんなことないのに(笑)。僕は留学の1年間で何も変わっていなかったですから(笑)。でも周りの雰囲気がちょっと違っていたのは確かです。

――その後、『BROTHER』(1992年)で舞台美術としてMONOに参加されることになるわけですが…。

舞台美術に関しては劇団内で美術を担当していた頃から、他の学内の劇団でも色の修正とか汚しなんかを手伝っていて、それが学外の劇団にも広がっていきました。例えば、松田(正隆)さんが時空劇場を旗揚げされたときに美術を担当してほしいって依頼していただいたり、劇団パノラマ☆アワーの美術のお手伝いをしたり、他にもいくつか頼まれてやっていましたね。

――小さい頃から美術がお好きだったのですか?

美術は不得意ではなかったですね。絵がコンクールの佳作に入選したりはしていましたけど、得意な方だったくらいです。だから、自分から美術の方面に進もうとかはまったく思わなかったです。

――そんな時に土田さんから声がかかって…。

たぶん土田さんが時空劇場の舞台を観て、その美術が気に入ったから声をかけていただいたんだと思います。それがMONOとの最初の出会いですね。土田さんのこと、知ってはいたんです。B級プラクティスは最初から観ていましたし。

――最初にB級プラクティスを観られてどう思いましたか?

いやぁ、すごかったですね。まず勢いがあった。土田さんは立命芸術劇場のトップで、黄金世代の第一人者。その人が旗揚げするってことで、結構我々の周りも盛り上がっていたんですね。そんな中、旗揚げ公演を観に行って、お客さんも沸いているし、勢いもあるし、笑いをとるのがとにかくうまい。これはすごい!と思いました。

――その後、舞台美術だけでなく、俳優としてもMONOの舞台に立つようになっていきます。

美術で呼ばれていたんですが、稽古で土田さんが役者のみなさんにダメ出しをしているのを見て、自分で演技してたんです。

(編注:連載第3回『BROTHER』(1992年)公演時についてー 土田「この公演の稽古の時、僕がダメ出しをしていると、美術家として稽古場にきているはずの彼が小さな声で台詞を言ってみたりしているんです。それで「出たいの?」って聞いたら、「出たい」って(笑)。で、次の公演から役者としても出てもらうことになりました。)

その頃、役者として、「もし出られるなら出たい」と思ってはいたんですが、メンバーに入るだの、劇団に入るだのっていうは思ってもいなかったですね。

 

取材・文/安藤善隆
構成/黒石悦子