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プロフィール

尾方宣久(おがたのぶひさ)
1973年2月13日生まれ。福岡県出身。立命館大学在学中にMONOに参加。劇団公演の他『帰郷』(演出:入江雅人)、iaku『逢いにいくの、雨だけど』『粛々と運針』(演出:横山拓也)、世田谷パブリックシアター+KERA・MAP#007、009『キネマと恋人』(演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ)、演劇・時空の旅シリーズ#3『三人姉妹』(演出:永山智行)などに出演。第8回関西現代演劇俳優男優賞受賞。

公演データ

〈MONO特別企画 vol.7〉
MONO「涙目コント」

チケット発売中 Pコード:494-791
▼8月9日(金) 19:30
▼8月10日(土) 15:00/19:30
▼8月11日(日) 13:00/18:00
▼8月12日 (月・休)15:00
THEATRE E9 KYOTO
一般-3300円
U-25-2000円(25歳以下、要身分証明書)
【脚本・演出】土田英生
【出演】奥村泰彦/金替康博/土田英生/石丸奈菜美/高橋明日香/立川茜/渡辺啓太
※整理番号付。※未就学児童は入場不可。公演当日、U-25は要身分証明書。

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第11回「ACTOR’S HISTORY」尾方宣久 前編

MONOの30年をメンバーや関係者の話から紐解く連載の第11回。
今回は立命館大学在学中の1994年にMONOに参加し、
近年は、劇団外の公演でも活躍されている、尾方宣久(のぶひさ)さんの
辿ってこられた道のりをお届けします。

 

――これはメンバーのみなさんにお聞きしていく質問です。尾方さんが演劇というキーワードに出会ったのはいつ頃ですか?

幼稚園の学芸会だったと思います。先生が役を決めるんですけど、僕の仲のいい友達はいい役をもらったんです。3人いる主人公のうちのひとりで。僕はたくさんいる羊の中の一匹でした。その時は悔しかったのを覚えていますね。「なんで僕がこんな役?」って(笑)。演劇ではそういう役回りでしたけど、他のイベントというか学校行事では活躍してましたよ(笑)。運動会で選手宣誓とか、中学の入学式で新入生代表式辞とか。福岡の田舎の方の出身なので、周りには何にもなくて、もし演劇を見るとしたら「旅行に行く」みたいな感覚になるし、だから家族で演劇を観に行くこともなかったですね。

――小さい頃はどんなお子さんでしたか。

僕の家ではあんまりテレビを見せてもらえなかったんです。父親がちょっと厳しかったこともあって。バラエティ番組に関しては特に厳しくて“ドリフ”も“ひょうきん族”もダメだったので、土曜の夜8時は「暴れん坊将軍」でした(笑)。そんな厳しい中“欽ちゃん”だけは許されてたんです。だから小学生の頃は“欽ちゃん”ばかり見てました。その頃は“欽ちゃん”の番組が週に何本もありましたしね(編注:『欽ちゃんのどこまでやるの!』(通称『欽どこ』。1976年~1986年 テレビ朝日系で放映)、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(通称『欽ドン』。形態を変えながら1975年~1980年 1981年~1986年 フジテレビ系で放映)など)。で、学校のお楽しみ会でそのパロディ的なものをやったりしていました。僕は欽ちゃん役じゃなくて、斉藤清六(編注:欽ちゃんファミリーのひとり。親しみやすいキャラクターで茶の間の人気者に)でしたけど(笑)。でもやはり“ドリフ”や“ひょうきん族”を見ていないと友達との話についていけないので、父がいない時にこっそり見ていました。見てはいけないものを見てる感じで、そういう背徳感からか“欽ちゃん”より面白く感じてました。

――思春期の頃は?

中学時代は部活は何もしていなくて、高校に入ってからバレーボール部に入ったんです。ほんと田舎なので、文化部と運動部があれば、ちょっと活発な人たちはみんな運動部に入っていました。文化部だとちょっと地味め…みたいな。今はもうそんなことないですよね。それなりにバレー部も一生懸命やってましたけど、それ以上に学校のイベントとかにバレー部の友達と積極的に参加してました。生徒会選挙の推薦人になったり、体育祭で仮装したり。だからちょっとだけ学校の中で目立っていた感じです。今思うとただのお調子者ですけどね(笑)。

――初めて演劇というものを意識したのはいつ頃ですか?

高校3年の時に、「とりあえず、九州からは出よう」と思っていたんですけど、東京にいくとお金がかかるし、じゃあ関西かなと。当時、仲のよかった友人が京都の大学を目指していたこともあって、僕も京都の大学で「どこかいいところないかな」って(笑)。でも僕は数学や理科が苦手だったから国立は無理だったし、学費が安くて、そこそこのところと思って選んだのが立命館でした。大学に入学すると、いろんなサークルに誘われますよね。その時に「一番目立つところがいいな」と思って演劇サークルに入りました。演劇をやりたいというよりも高校生活の延長で「目立ちたい」とか「面白いことやりたい」という気持ちが強かったと思います。無理やり誘われて入る人が多かったので、僕みたいに自分から希望する人は珍しかったんじゃないかな。部室は暗くて湿っぽくて、なんか怪しい雰囲気でしたね(笑)。それが、土田さんが所属していた「立命芸術劇場」だったんです。年が離れてるのでもう土田さんはいなかったですけど。

――立命芸術劇場はどうでしたか。

「サークルとして趣味とか遊びでやっているんだろう」って思っていたんですけど、学業よりも本気でやっている様子に驚きました。ただ正直言うと、観劇した新入生歓迎公演自体は、そんなに面白くは感じられなかったんです。大学に入るまでこういう世界を知らずにきて「どうやって観ればいいんだろう?」って。ストーリーで物語を追うことしかできないから、ストーリーが分からなくなるともうわけがわからなくて。見方自体がよく分からなかった。で、ギャグとか小ネタとかに笑っていた感じでした。

――続けていくことに迷ったりすることはなかったんでしょうか。

劇団内でオーディションをして、運良く毎回役者をやらせてもらってたんですね。それで何となく後には引けなくなっちゃって…。先輩が怖かったし(笑)。続けているうちに学業の方がおろそかになっていきました。授業に出ないから学部の友達が全然できなくて、劇団の友達だけになっていって。そうなるともうますます演劇に対して割く時間が多くなっていっちゃって。先輩の劇団とか関西の小劇場の舞台もみんなで観に行ったりしていましたね。

――公演を観て自分が影響された劇団とかありましたか?

善人会議(*1982年、横内謙介が早稲田大学在学中に神奈川県内の高校演劇部OBと共に旗揚げ。1992年に横内は『愚者には見えないラ・マンチャの王様の裸』で第36回岸田國士戯曲賞を受賞。1993年に扉座に改名)が好きでしたね。難解な演劇が苦手だった僕にとって、分かりやすくて楽しかった。もちろん魅力は分かりやすさだけではないですけど。善人会議は演劇をやっていない知り合いにもおススメしやすかったですね。一度、立命館の学園祭にも来ていただいたこともあって、出演者の方々からみんなでわいわいとサインをもらいました(笑)。横内さんの脚本を本公演でやったりもしましたね。他には(新宿)梁山泊とか第三エロチカとかも好きでした。面白いとは思いましたけど、自分がやれるとはとても思えなかったですね。あの世界観に自分が溶け込める気がしなくて(笑)。立命芸術劇場は2年で辞めて、3回生の時にMONOに入ることになるんです。2回生の一番最後の公演に土田さんが観に来てくれて、ちょっと誉めてくれたのがきっかけでした。

――その時のことは土田さんも連載の第4回で語られているのですが(連載第4回より:尾方君は1994年の4月に入ってるので、彼も『路上生活者』の初演からですね。立命芸術劇場にいて、僕の後輩なんですけど、そこで主役やってる尾方君がすごくカッコよくて。しかも学生劇団の中で群を抜いてうまかった。彼、いいなと思って、そのあと劇団のみんなと話して、まず『Sugar』の稽古の時に尾方君にビデオを撮ってもらうことになったんです。ずっとビデオを回しながら劇団を見てもらって。公演が終わったあと、「MONOに入りたいんですけど」と連絡をもらいました)、その舞台はどんな内容の舞台だったのですか?

『太陽の輝く夜』というタイトルだったんですけど、内容はあまり思い出せなくて(笑)。夜でも太陽が出ているっていう世界を舞台にした作品で、全体的にダークな雰囲気のお芝居だったような…。

――主役をなさったんですよね。

たまたまです。立命芸術劇場時代に主役をやったのはその1回だけで、それを土田さんがたまたま観たという…。「たまには後輩の舞台でも観てみよう」と思って来たと聞いています(笑)。

――そのあと『Suger』の稽古の時にビデオ担当となり、『路上生活者』の時にMONOに入団されることになります。

そうですね。自分から入りたいって言いました。土田さんは僕がそう言うように仕向けたってよく言っていますが、どうなんでしょうね。もし僕が言い出さなかったらどうなってたのか(笑)。その時は、土田さんの電話番号を知らなかったので、まずMONOの事務所に電話をしたら、当時劇団員だった西野(千雅子)さんに「みんなと相談します」って言われて、土田さんから折り返しの電話がありました。それで大学を待ち合わせ場所に指定されて「どうなるんだろう?!」ってドキドキしながら行ったら、「OKです」って。

――MONOを最初に観られたのはいつですか?

最初に観たのは『BROTHER』(第10回公演 1992年10月24・25日 扇町ミュージアムスクエア)です。「会話のテンポが速い!」というのが第一印象です。先輩からも「速い」って聞いていましたが、想像以上でした。土田さんは普段からしゃべるスピードが速くて、しかも落語みたいにいろんな人を演じながらしゃべるんですよね(笑)。それが芝居になるともっと速い。舞台上では相手のセリフが終わるやいなやどんどん次のセリフが出てきて、怒涛のような会話が繰り広げられる。土田さんは間があくのを嫌うから、今でも会話のテンポは速いと思うんですけど、昔はもっと速かったと思います。実は『BROTHER』と『ロマン再生』(第11回公演 1993年5月28~30日 扇町ミュージアムスクエア)のふたつ、「面白い」とは思ったのですが、MONOに入りたいとは思わなかったんです。「入りたい!」と思ったのは『Suger』の時ですね。『Suger』は『BROTHER』や『ロマン再生』と違って、役者のみなさんがすごく自然体で会話していました。土田さんのリズムだけでみんなが動くのではなくて、自然体の会話で、全然力が入ってなくて。こんなお芝居をやりたいと強く思いました。


取材・文/安藤善隆
構成/黒石悦子