ホーム > インタビュー&レポート > マキノノゾミが名作舞台「オーファンズ」を演出 人間が成長するためには絶対、他者との出会いが必要
--「オーファンズ」は、日本でも再演を重ねてきた名作です。
僕はオファーを頂いて、初めて台本を読みました。正直言って最初は「え、これがそんなに名作か?」とピンとこない部分があったんですけど(笑)、何度か読み直しているうちに、なるほど、これはやりがいがある作品だなと。観客にとっても、まったく分かりにくい芝居ではないですし。少しぐらいディテールが分からなくても、今どういうことが起こっていて、どうなるんだろうとハラハラして見ることができる、キャラクターと感情を共有しやすい。なるほど、これは隠れた名作だなと思いましたね。日本でも長年上演され続けてる理由が分かりました。去年、宮田慶子さんも演出されているので、なんだ、見とけば良かったなと(笑)。僕は自分が演出した作品を他の演出家がやってるのを見に行くのが好きなんで。え、どうやってやってんのかなぁって(笑)。今回の「オーファンズ」も、僕のあとにほかの人がやるかもしれない。それは是非、見たいなと思いますね。
--どういう視点で見られるのですか。
一回、自分が経験していることは、その戯曲に対してそれなりに深く考えて、自分なりに何かつかんでいるということですよね。それを他の人がやると、「あ、こんな解釈があったのか」という発見があるんです。だから好きですね。
--自分ならこうやるのにとか、イライラすることはないんでしょうか(笑)。
まぁそういうのも含めてですけどね。分かってないなーとか(笑)。
--マキノさん版はどうなるのでしょう。
この芝居はとくに稽古に入らなければどうなるのか予測がつかないですね。知的な会話劇というわけではない。登場人物は、社会の最下層に生きている孤児の兄弟と暗黒街にかかわっている人物です。孤児の兄弟の間に、同じ身の上の先輩格の他者がやって来て、人間関係が移ろっていくという話。だからある意味、ひじょうに身体性の高い作品ですよね。身体に触れ合ったり、肩を抱いたりするシーンが多いし、それが重要なポイントになってる。こういうのは実際に役者の身体を通してみないと分からないんです。だから稽古に入るのが楽しみですね。今ピンときてなくても、やってみたら分かることがきっといっぱいあるんだろうという、これはもう、確信があります。稽古に入って、身体を使ってみればお互いに腑に落ちることが多いはず。僕自身が早くそういうのを見つけたいです。細貝圭くん、佐藤祐基くん、加藤虎ノ介くんと一緒にやるのは初めてですので、楽しみです。
--脚本を拝読したのですが、トリートとフィリップは10代なのでしょうか。戯曲には年齢設定がありませんね。
僕はトリートが20代でフィリップが二十歳前後、ハロルドが30代後半から四十前後ぐらいかなと思っていたんです。でも人によっては、もっと上と思う人もいる。読み手によってイメージする年齢が違うでしょうね。
--私はフィリップは10代だと想像していました。
彼はおそらく知的障害があり、少年のようですが、それを例えば30代の大人として演じても成立しますね。痛ましくてヒリヒリとするものを観客は感じることができると思う。字面の感覚だけでいくと、兄弟はおそらく10代の不良少年かということになるかもしれません。役年齢の設定をいくつにするかは僕はそんなにこだわりませんね。ある意味、兄弟の中では時が止まっているので。
--確かに時が止まっています。
他者のハロルドと出会うことで、初めて人間として大切な教育をされ、成熟を始める。そこを表現するには何歳の役者がやっても成立すると思います。
--ハロルドは時間の流れを持ってくる役ですね。
閉じている人間関係が他者と出会い、開いてゆく。「人間は一人では生きられない」というのが基本のテーマなんだと思います。人間が成長、成熟するためには絶対に他者との出会いが必要なんだと。ハロルドという他者の出現によって、兄弟の成熟のスイッチがようやく入る。それは、とてもプリミティブな人間のありさまだと思います。だからこそ、そこではボディータッチというようなプリミティブな要素が重要になるということです。
--トリートはフィリップを籠の中に閉じ込めて支配しようとする。その関係は兄弟だけではなく、親子、恋人との関係にも似ています。「誰かを支配したい」というのはどんな関係でも起こりえることですよね。そこは観客も共感しやすいと思います。
廃屋に住んでいる兄弟とか、特殊なシチュエーションだと思われるかも知れませんが、見ている人は「そういえば自分にも」と思いあたる節があるのではと思います。シンプルに人間関係の話ですからね。少しくらいディテールが分からなくても、目の前で起こることに観客もヒリヒリとした感覚を共有できるだろうと。
--純真無垢なフィリップ、そのフィリップがいるゆえに支配的になるトリート、そして彼らを教育していくハロルド。マキノさんから見て、やはりハロルドが魅力的ですか。
そうですね。いや、3人とも魅力的ですよ。成長するためには他者が必要で、人は何かを与える使命を持って現れる。説話というわけではないですが、話の骨格は本当にシンプルで分かりやすいん。だから演じる側は身体ごとぶつからなければいけない。どの役も、俳優なら皆が演じたくなる「やりがいのある役」だろうと思います。
--マキノさんは演出されるとき、役者には何が必要だと思われますか。
なんだろう…。分かんない(笑)。クレバーさかな。クレバーじゃない役者には、とりあえずどうすればクレバーになれるのかを考えろと(笑)。俳優っておのれの身体の中ですごく大変な作業をしなければいけない。観客に向かっているベクトルと物語に向かっているベクトル、自分の内部に向かっているベクトルと3方向にものを感じたり、考えたりする力がいる。それは瞬時にものすごい速度で動いてるんです。よくイメージするのはイコライザーの表示ランプですね。あのぐらい瞬時に色んなことが内面で変化する運動量。「この瞬間は観客へのベクトルを少し強くしてほしい」と言ったとすれば、それを理解してくれる俳優がいちばん楽でいいですね(笑)。「この瞬間は自分の中にもっと向かえ」、「この瞬間は観客のことなんて考えず、相手を見ろ」といったときに、瞬時に分かってほしい。そういったバランスでものすごい運動を役者は身体の中でしている。常に多方向に引き裂かれている状態で舞台に居続けられないと俳優という仕事は成立しないわけです。だからこそ俳優というのは、人間の、もっとも尊敬に値する仕事の一つなんです。小山内薫(大正時代の劇作家・演出家)も「人間の中の宝物が俳優になるんだよ」とか言ってますし。まぁ、俳優に要求するのは、「できるだけそういう俳優であってね」ってことかな(笑)。
--マキノさんご自身の演出もそのベクトルにどう俳優を向かわせるかなのでしょうか。
僕は演出するときは、基本的に台本に描かれていることを実現するためにはどうしたらいいかという方向を提示するだけです。あまり自分の思い込みで「絶対にこうやってくれ!」というのではない。まぁ、そうなるときも多々ありますが(笑)。でも、基本は「台本を読んで考えよう」と一緒に作っていきますね。
--それは、ご自身が劇作家だからということもありますか。
すごく大きいですね。劇作をするようになってから考え方がずいぶんと変わりました。まず戯曲を大事にするようになった(笑)。劇作上「これは必要だ。ここが印象づけられているから、ほかのシーンで効いてくるんだよ」という、そういうテクニックは読み取りやすくなりましたね。自分も同じ苦労してるわけだから(笑)。今はそれを俳優に伝えることができますよね。俳優に「この無駄話は実は大事なんだ」と説明できるもん(笑)。
--翻訳劇で言えば、マキノさんはミュージカル「グッバイガール」、芝居「ローマの休日」など色々と手掛けています。どういう基準で作品を選んでいらっしゃいますか。
やっぱりそのホンが好きかどうかですね。抽象度が高い作品には、たぶん僕はあまり向いていないんだと思う。不条理劇は、まったく分かんない、お手上げです(笑)、だからそれはやらない。いまだにベケットの「ゴドーを待ちながら」はたぶん一生演出しないと思います。どこが面白いのか全然分かんないですもん(笑)。読んで面白ければ、翻訳劇でも日本の劇作家の作品でもどっちでもいいです。やってみたいのはたくさんあります。
--翻訳劇は、今作もそうですが、役者がセリフを言うテンポも気になるところです。
例えば、ミュージカル「グッバイガール」のセリフ回しは、ニール・サイモンが登場人物にどれだけ会話の早さを競わせるかという、ニューヨーカーの独特の特徴がありますよね。切れのよさや、どう洒落た皮肉で切り返すかと、そういうルールでしか会話できない人たちだから(笑)。それはそれで楽しいんですけど。「オーファンズ」は先ほども言いましたが、登場人物は育ちがよくないので、言葉使いも荒っぽかったり、ギャングふうだったりする。どんなテンポが生まれるかは分からないです。速いところは速く、弛緩するとこは弛緩するかもしれない。やってみないと分かりませんね。
--今回は、上演台本も担当されます。
原語(英語)の持っているリズムとかテンポ感にできるだけ近づけたいですね。日本語に翻訳すると、どうしてもシラブル(音節)が多くなりがちなんですが、それを原語のセリフに近い音節数にできるだけ置き換える。そういう努力はします。昔の翻訳劇の会話がどうしても弾まないのには、そういう理由もあったと思います。日本で上演される多くの翻訳劇が日本語と原語のシラブルの差とかに関して、あまり意識的ではなかったんですね。僕は人間の身体に対して起こっていることが変わるのが嫌なんです。英語ならば15分ぐらいのシーンが、日本語で20分かかってしまえば、その人間の身体で起こることの意味が変わってしまうと思うんです。感じ方の速度とかが。設定を日本に置き換えるならそれでもいいんですが、そうすると、やっぱり違う作品になってしまう。描かれていることの意味も変わりますよね。
--確かにそうですね。
僕の場合、セリフは日本語でありつつ、同時にできるかぎり英語話者としての身体運用を俳優に要求します。そんなハイブリッドな演技は、俳優にとってはとんでもなく多大な負荷がかかりますが(笑)。でももし実現できれば、観客は違和感なく、もっとリアルにセリフを受け取れると思うんです。翻訳劇に挑む場合は、そういうことを意識してやるのと、一切考えずにやるのとでは、やはりずいぶん違うと思います。今回のは身体性が強い戯曲だからこそ、よりそこを意識してやらないといけない。
--それを伺うと、役者さんというのは本当に大変な仕事ですね(笑)。
ええ、大変なことをやっとるんですよ、あの方々は(笑)。
--マキノさんご自身についておうかがいします。マキノさんの劇団M.0.P.を2010年に解散されてから「書きたいから書く、やりたいからやる」というスタンスでお仕事をされているのでしょうか。
基本はそうなんです(笑)。でも僕のスケジュールだけでは動けないので、多少のストレスはたまりますよね(笑)。これから先、自分ができる本数はそんなに残ってはいないと思うんです。一本、一本を大事にしたい。若いころは「いつかやりたい」と呑気に構えていたけれど、「いつか」はもうあまりないぞと(笑)。
--それは何歳ぐらいから思われたのですか。
四十になったときに意識して、そう言ってる間に四十半ばになって、あっという間に五十代突入(笑)。速いですね。年々歳々そうなります。今がチャンスだと思ったら、「いつかは」とか言って取っておかないで、今やっておこうと思います。もうそんなん言ってられへんわと。インプットのピークは十代の後半から二十代の後半で終わるんだけど、アウトプットのピークは五十代半ばと何かで読んだんです。でも、そこももう三年前に過ぎましたからね(笑)。僕は最初から演劇を志していたわけではないですから、六十を目前にして、もっと知りたい、もっと勉強したいと思うようになりましたね。今年、チェーホフの評伝劇「わが兄の弟」を書いたんですが、こんなにチェーホフのことを考えたことなんて今までなかった(笑)。二十歳のころにチェーホフを読んで、「どこが面白いんだ?」って思っていましたから。僕の場合、五十代後半にならないと、出会えなかったんですね。今になって少しずついろんなこと勉強したいんですけど、残された時間があまりない(笑)。
--そんな、まだまだお若いです。宮本亜門さんは「90歳過ぎても演出をやる」とおっしゃったそうですよ。
それは素敵だなぁ…。まぁ、そこまでは分かりませんが、一本、一本悔いが残らないように大切にしたいですね。この言い方自体、何か死期が近い人みたいですけど(笑)。それにしても、いまだに戯曲を書くことは苦痛なんです。98%は苦しみで、楽しいのは2%ほどですね。いつも「書けない、苦しい、死にそうだ」とかのたうち回ってますよ。
--そうですか!それは意外です。
僕、エッセイや自分の公演のパンフレットの挨拶の文章さえも、オファーを受けるとすごくブルーになる。いや、マジです(笑)。書くこと自体が好きじゃないんだよね。なのに何で劇作家になったのかなといつも思うんですよ(笑)。でもそのぶん、完成したときの喜びと開放感がとてつもなく大きい。皆が喜んでくれて、僕もいい気分になっているときにオファーが来ると、すぐ「いいよ、書くよ」とホイホイと引き受けてしまう。それで今まで続いているのかもしれないですね(笑)。
取材・文 米満ゆうこ
(2017年9月 5日更新)