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一人一人に寄り添うようなメッセージが胸に迫る
熱い男、松山三四六の大阪初ワンマンライブが開催!

ラジオパーソナリティであり、シンガーソングライターの松山三四六が、初の大阪ワンマンライブを開催する。1992年、素人モノマネ番組の出演を果たし、吉本興業の所属となった三四六。その時22歳。同期にはロンドンブーツ1号2号、ペナルティなどがいた。銀座七丁目劇場で活躍する一方で松山千春に弟子入りをし、吉本を退所後は単身渡米。グラミー賞にもノミネートされた音楽家、喜多郎のもとで住み込み修業を開始。その後、単身ロサンゼルスに移動、滞在中に千葉真一と出会って…。運命的な出会いを繰り返しながら、芸能活動を続けてきた三四六。さらにさかのぼること高校時代は柔道の選手として活躍、オリンピックへの道を志した。また、子どもの頃にはわんぱく相撲でも注目され、同級生の元横綱・若乃花が「絶対に適わなかった相手」とテレビ番組で紹介したこともあった。現在は長野県を中心にラジオ番組などで活躍しながら、並行して音楽活動も続けている。「やっとできるようになった」と語る大阪ワンマンを前に、三四六を今に導いた数奇な縁について聞いた。

――学生時代は相撲や柔道をされていて、今年の1月にはTBSの番組に出られたそうですね。
 
ビックリしましたね。TBSから電話がかかってきて、「今でも相撲をされていますか?」って。「相撲はやっていませんよ、強いて言うなら柔道です」と言ったら、「いや、相撲でしょう?」と。これはわんぱく相撲のことを言っているのかな?と思って「わんぱく相撲では3連覇しているけど」と答えたら、「テレビに出ていただけませんか」と。聞けば、元横綱の若乃花が子供の頃、絶対に勝てなかった相手として僕の名前を出したそうなんです。
 
――そういう経緯でのご出演だったんですね。
 
高校までは柔道をやっていて、オリンピック選手の夢もあったんです。でも、けがをして諦めて、さて何をやろうかと。それで、この挫折を生かすために学校の先生になろうと思ったんです。指導者になって「人間は必ず挫折する、夢は叶わない。夢が叶うと思ったら大間違いだ。人生は無様に転んだり、失敗することの方が多い。だからこそ、転ぶことに強くなるんだ」ということを教える先生になりたくて、教員免許を取りました。ところがそれもしっくりいかなくて、他にやることがあるだろうと思って辞めたんです。
 
――辞めてどうされたんですか?
 
劇団のオーディションを受けて入団しました。その劇団で大阪の弁天町にあるオーク200という施設のオープン記念の仕事を請けて、ショーをしたんです。全身タイツ着て。その時、「俺、こんなことやっていていいのかな、恥ずかしいなぁ」って思って。プライドも傷ついているわけですよ。その日、宿舎でニュースを見ていたら「若乃花優勝」ですよ。大阪場所で初優勝。これでいよいよ関脇から大関かと大騒ぎになっていて。僕はそれをテレビで見ていたわけです。子どもの頃、僕の方が力では上からスタートしていたのに、いつのまにか人生がクロスして逆転していたんですよね。もう、俺は何をしてるんだろうと。そう思っている時に親父から電話があって「若乃花が優勝したな」と。「今からお祝いに行け、いいから花を買って行け、記者会見場に行けって!」って言うんですよ。だから、金がないから一番安い花を買って、大阪のホテルに行ったんです。優勝したその日に。でも会見なんてプレスの証明書もないので中に入れないですよね。だけど、神様っているんですよね。

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――何があったんですか?
 
落っこちていたんですよ、一つ。プレスの腕章が。それを拾って着けて、中に入っていったんですよね。花束をお腹の中に隠して。カメラがわーっと構えている中で、一番後ろの席でメモを取るふりをしていました。そして、記者会見が終わって若乃花が立ち上がろうとしたときに「まさるー!!」って花束を振り上げて立ちあがったら、モーゼの『十戒』みたいに記者が道を作って、なんだなんだと。それで、ばーって走っていって、「おめでとう」って花束渡して「事情があって逃げるから。またな!」って言って逃げたんです。駅まで走って行って、切符を買おうとしていたら、後ろから肩を叩かれて。一人ぜぃぜぃ言いながら追いかけてきた記者がいたんですよね。あんた、何者なんですかって。いや、同級生でって話して。そしたら、次の日に新聞に出ていましたね。会見で、いよいよこれで大関への道が開かれましたねと記者に聞かれたとき、彼は強い口調で「僕はまだまだ強い関取ではありません。そこまでは行っていません。大関なんて程遠いです。もっともっと精進しなきゃいけない」って言ったんです。それを見て、すげぇなぁ…って。俺は何をやってんだって。頑張らないといけないと思ったんです。
 
――その言葉が残って。
 
謙虚であること。常に努力をすること。自分は努力も何もしていないですもん。学校の先生になりたいとか、オリンピック選手になりたかったとか、夢ばっかり語って。その上、劇団でもやってみるかって。何もなかったですもん。頭を殴られた気持ちになりましたね。
 
――モノマネ番組に出られた時期と重なっているんですか?
 
モノマネは、高校の時に1回、素人番組で優勝していて。『We Are The World』を一人で全部やったんです。柔道部の後輩をふたり両脇に連れて、僕が真似して、両隣の後輩が髭をつけたり、かつらをかぶったりと、着せ替えみたいにしてアーティストの模写をして。それが、ウケてウケて。あれはテレビ東京だったかな。また、世界大会が日テレで行われて、そこでも優勝して。『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』のレギュラーとかもらったりして。あれは学生時代でした。
 
――すごいですね。『元テレ』なんて大人気でしたよね。
 
だから、学校の先生をやりたいと言いながらも「そんなんでいいのかな、俺の人生、それだけかな」って思ったのは、10代で素人モノマネで優勝したからっていうのがあったんだと思うんです。それで劇団やりつつ、学校の先生の免許とかも取ったんだけど、就職活動をしないでどうするんだろうって。もう2月になっちゃった、あと2ヵ月後には社会に出なきゃいけないって思っているときに、吉本興業からDMが来るんです。吉本興業が東京に進出しますと。今から25年前です。そこにはオーディションを受けてみませんか?とあって。
 
――東京NSCが出来る前ですか?
 
その前です。東京1期生というのが、僕とロンドンブーツ1号2号とペナルティ、それからぐっさん、極楽とんぼ。ココリコ。その辺が同期です。それでオーディションを受けに行ったら「1分間で人を笑わせろ」と。だからアニメのキャラとかのモノマネやっていたら審査員の人に「そんなモノマネでチャンピオンになったんか」と。「いや、違います」と。「どんなモノマネや」と聞かれたので、『We Are The World』ですって言ったら、それをなんでそれやらへんねんと。「『We Are The World』は全部で14分です。1分であの良さは伝わりません」って言ったら、特別にやらせてもらえたんですね。そしたら、ずっと腕を組んで見ていた審査員が歌い終わってもそのまんま動かずに「おもろないわ……」って。「……感動や…! おもろいのとちゃうねん! お前は感動や! すごいな!!」って。それで合格して吉本興業に入ったんです。そのあと、銀座七丁目劇場でずっとお芝居をしていました。深夜番組のレギュラーももらうようになったんですけど、営業仕事がもらえるようになるまではすごく苦労しましたね。
 
――お笑いをされつつ、松山千春さんに弟子入りを?
 
そう。何で松山千春さんに弟子入りできたかというと、10代の時に『We Are The World』のモノマネで優勝した番組を千春さんも見ていて、感動していたんですって。僕の高校時代の親友の親父が北海道で千春さんの後援会のトップをやっていて、その話になって、「あいつに会いたいなぁ」って言ってくれたみたいで。それで、じゃあ、今すぐ呼ぶわと飛行機のチケットが送られてきて、北海道に行って千春さんの前で『We Are The World』を披露させてもらいました。
 
――急展開ですね。
 
そしたら「今年の12月に新宿厚生年金会館でコンサートやるから、お前来い。歌え」と。嘘だろうなぁって思いながらも数か月後に会場に行ってみたら、本当に松山千春さんがコンサートの最後に「今日、紹介したい奴がいる」って。「三四六、ステージに上がって来い」と。それは吉本でデビューする前です。千春さんのファンの前で『We Are The World』を歌わせてもらいました。その後も「僕、将来は歌を歌いたんです」って自分で書いた歌をカセットテープに吹き込んで渡したりもしているうちに認めてもらった感じですね。それから吉本を辞めて、アメリカにいた喜多郎さんのところに飛び込みで行きました。「すみませんが、住まわせてください」と。そしたら「いいよ、トイレ掃除から始めろ」って。
 
――喜多郎さんと面識は?
 
紹介してもらったんです。それで住み込みで入って。それからロスに行って一人暮らしを始めて歌を作っていたんですけど、お金が無くなったのでお寿司屋さんで寿司を握っていました。僕、ハリウッドで板前やっていたんですよ(笑)。そこに千葉真一が現れたんです。「君、おもしろいね」って。「元吉本です」って言ったら「ああ、そう、僕と一緒に仕事しよう」って。それから千葉さんの手伝いをするようになりました。僕は勘当同然で家を追い出されていたんですけど、千葉さんのおかげで実家に帰ることができました。実家に帰る時に千葉さんも一緒に来てくれて、「お父さん、なかなか素晴らしい息子さんで」って。それで勘当がとけました(笑)。
 
――意味が分からないですね(笑)。
 
そうでしょう(笑)。アメリカから帰って、松山千春さんに挨拶に行ったんです。横浜アリーナのコンサートでした。控室で「『We Are The World』歌うか? でも、カラオケがないよな」って言われたので、「千春さん、俺、持ってます」と、当時使っていたMDをポケットから出しました。「365日、何があってもいいように僕は持って歩いてます!」って言ったら、「気に入った! すばらしい」と。それで8000人の前で歌いました。「応援してほしい奴がいるんだ」って同じことを数年ぶりにやってくれたんです。それが27歳の時でした。
 
――27歳。
 
22歳で吉本でデビューして、そのあとアメリカとか行って5年かかりました。その千春さんのコンサートにTOKYO FMの坂上みきさんが観に来ていて、僕のモノマネを見て「あんな素晴らしい子いない、絶対ラジオ向きだ」っておっしゃってくれたみたいで、後日、坂上さんの番組に出させてもらうことになりました。15分間、わーっとしゃべって、すぐ終わりました。スタジオの外に出ると、TOKYO FMの編成の偉い人たちがいて「ちょっと君の話、聞かせてもらえる?」と言われて、ここまでの話を全部しました(笑)。そしたら「おもしろい! ラジオでしゃべって! 君の帯番組を作る!」って言われて、4月から渋谷のスペイン坂スタジオで『エモーショナル・ビート』という番組が始まり、急にデビューしました。最初のゲストはglobeでしたよ。びっくりしました。
 
――全盛期ですよね。
 
全盛期ですよ。何をリリースしても1位の頃です。面白いでしょう、この人生。
 
――すごいですね、いろんなご縁がつながって、つながって。
 
そうなんです! その通りなんです!
 
――誰がどこで見てくれているか、わからないですね。
 
本当にそうなんです。一生懸命生きてきたつもりは全くないんです、僕は。なのに助けられてきました。僕は学生時代、柔道の天才だと思っていましたから、本当に。その上でちゃんと努力をしていたら、もしかしたら世界に届いていたかもしれない。でも努力をしていないんですよ。ちょっとしたケガで挫折だと言って逃げて。そういう人生であるにも関わらず、見えない力が「お前を消さないぞ、お前を消さないぞ」って言ってくれていたように思いますね。アメリカに逃げても千葉真一さんが現れたり、仕事がなかった時に松山千春さんがステージに上げてくれたり。いろんなことがあって。本当に助けられたなって思います。そしたらもうあとは恩返しするしかないじゃないですか。助けてもらったんだから、誰かを助けなきゃいけない。でも自分には特別な力がないので、困っている人や悲しんでいる人、話を聞いてもらいたい人に寄り添う番組をラジオでやっていきたいなと思うんです。
 
――ラジオって不思議ですよね。顔が見えなくても、ものすごく個人的なところまでつながりますよね。
 
そう。やっぱり、パーソナリティって「あなたは」って呼びかけるからだと思うんです。テレビは「皆さんは」と呼びかけますよね。ラジオって一人で聞いていることが多いので、「あなたは」と呼びかけられると、マンツーマンで語ってもらっているように思うんですよね。だからものすごくコアな関係になるんですよね。コンサートにも「私だけの三四六」と思っている人がいっぱい来るんです。僕は800人いたら、対800人のコンサートじゃなくて、1対1の関係が800あると思っています。ラジオをやっているのでわかるんですよね。このリスナーはこないだお父さんが亡くなったとか、この子はこないだ別れたんだよなとか。この子はうつ病なんだよなっていうのがわかってしまうので、いつもものすごく熱いコンサートになります(笑)。
 
――そういう中で、作られる歌にもメッセージが込められていて。
 
そうです。メッセージがなければ歌う意味が僕にはなくて。僕はラジオのパーソナリティだから。ラジオのパーソナリティも、メッセージ性のある、こういったことを伝えたいんだって思う人がしゃべるべき仕事だと思うんです。じゃあ、そのメッセージを曲に乗せて、形として残したい、作品として残しておきたいなと思ってCDを作っています。
 
――三四六さんの歌は、松山千春さんにカセットテープをお渡ししていた頃から変わりましたか?
 
全然違います。恥ずかしいですね、あの頃の歌は。何でもそうですけど、自分のために、自分のためにとがっついている時はいい作品じゃないんですよね。誰かのためにと思って書き始めたら、歌もよくなってきたというか。仕事をしている中で、いろんな人に出会うじゃないですか。そして、こういう生き方もあるんだな、こういう人生もあるんだなって思うんですよね。そして何とかこの子たちの励みになる曲を作ろうと考えた時に、いいフレーズが出てきたりして。千春さんは何度CDを渡してもオンエアしてくれなかったんですけど、前々回の『いきるうた』というアルバムを作って持って行った時、全国放送でオンエアしてくれました。しかも、「俺の後輩に三四六っていう奴がいて、こいつはずっと俺が面倒見てきたんだけど、いい曲を書いてきやがった」と。「俺も年を食ったなぁってへたれて、もう辞めちゃおうかな、疲れたなって思う瞬間があるんだけど、後輩がこんないいメッセージを残して勝負してきたら、その勝負は受けて立つしかないだろう。俺、すごく刺激になった。俺はもっといい曲を書いてやる」ってコメントしてくれて。もうラジオの前で泣きましたね
 
――しびれますね。
 
はい。やっと認めてくれたんだって。それが『生きる歌』っていう曲だったんです。
 

 
――自分のためにから、誰かのためにという思いになったのは、大きなきっかけがあったんですか?
 
ありましたね。ラジオをしている中で3つの大きな出来事がありました。一つは番組中にある病室からメールが来て。そのメールには「うちのかみさんはホスピスに入っています。47歳、子宮がん。後はもう死にゆくだけなんだ」と。だけど「金曜日にあなたのラジオを聞いて、大いに笑って終わって、あと一週間生き延びたらまた聞けるんだよねって言って、生きているんです。ところが急に危篤になって、いよいよ家族が集められた」と。それで病室にラジオが流れているので、あなたの声をずっと聞いて生きながらえてきたかみさんに何か一言メッセージをお願いできますか?とあったんです。でも僕はそんなの無理だと、死を前にした人に何を言うんだと思って、何も言えなくて。だからオリジナル曲の『今が輝かないのなら』という歌を歌いました。そしたら、山を越えたんですって、お母さんが。家族たちもそこで家に帰されて。それを聞いていたリスナーたちも会ったことのないお母さんのために千羽鶴を折り始めて、その曲をCD化してくれという署名運動が起こって。それでCD化しました。そういうことがあったんです。ところが、そのCDがやっと出来上がった時にはもう、間に合いませんでした。白馬でペンションを経営しているお母さんだったので、ペンションにCDを持って行きました。その時初めて、お母さんの写真見ましたね。
 
――そうだったんですね。
 
その次に会ったのが、目が見えなくなっていく少年でした。「今、眼科にいます」とお父さんからメールが来て。「息子は先天性の緑内障で間もなく目が見えなくなる。この子の光が消える前に見たいものを見させてあげてと医者に宣告されたので、何が見たいかと聞いたら、“ラジオでしゃべっている三四六さんに会ってみたい”」と。それで「今からスタジオに行ってもいいでしょうか? いつまででも待ってます」と。ラジオが終わってスタジオに出たら、待ってくれていましたね。
 
――なるほど…。
 
僕は4人兄弟で、僕以外はみんな医者なんです。僕だけがのらりくらりとした人生だったんです。だから、人生どこで間違えちゃったのかなって悩んでいたんです。兄貴たちを見て「医者ってすごいな。社会に生きる、社会貢献ってこういうことなんだな。仕事は社会貢献じゃなきゃだめだよな。でも俺の仕事って何なんだろう」って。ちょうどその頃でしたね、番組が終わって外に出たら、万引きでもしたのかっていうような感じで怖いオッサンに首根っこをつかまれている少年が立っていて。どうしたんですか?って聞いたら「あんたが三四六か」と。「こいつは引きこもりなんだ。部屋から1回も出ないんだ。ゲームとラジオばっかり。どうしたら出るんだって聞いたら、金曜日のラジオの三四六さんに会わせてくれるんだったら出るっていうから来たんだ。あんたで間違いないのか」って言われて。間違いないですと。もうびっくりして。それで、「君、本当にそう言ったの?」って聞いたら黙っているから、「ちょっとお父さん、彼を貸してくれって」言って、彼を連れて公園に行って、ふたりでベンチに座りました。
 
――その子はどうしていたんですか?
 
ずっとうつむいたままですよ。そして僕は「ありがとう」って言ったんです。そしたらパッと頭をあげて「何でですか? 何もしていない」って。「君、俺の命の恩人なんだ。俺、自分のやっている仕事が何のためにあるのか全然わかってなかったんだ。だけど、どんな医者が、どんな先生や親が部屋から出ろって言っても動かない子が、その子を部屋から出す力が俺にあるんだろう。俺はラジオをやっていた意味があったんだ。俺、明日から仕事の仕方が変わるわ。自信を持ってしゃべる。それを教えてくれたのはお前なんだぞ」って言ったら、わんわん泣いちゃって。「ありがとうと言われることも、認められたこともないんだろう」って。
 
――少年の気持ちを思うと胸が痛みますね。
 
「きっと、親父とかに一家の恥だとか言われてきたんだろう」って。「だけど、何かを頑張らないといけないって思わなくていいから、ただ生きていればいいから。生きているだけで誰かを救っている可能性がある。お前はすでに俺を救ってるじゃん、自信持て。なんも頑張らなくていい、ゲームしながらでも、ラジオ聞いているだけでもいいから絶対死ぬな」って言ったら「ありがとうございます!」って言って帰って行ったんですよね。その1か月後にね、またあのオッサンが連れてきたんですよ、少年を。
 
――何があったんですか?
 
「あんた、こいつに何した?」って言われて。その態度に頭来たから「あんた、何なんですか!」って言ったら、あれから学校に行っていると(笑)。それで「こいつに何をしたんだ」って言うから、「あんたは親父としてこいつを認めたことがあるか」って説教し始めちゃって、僕が(笑)。「息子にありがとうって言ったことあるか!? ないだろ!」って。「こいつも必死に生きてんだよって。あんたは親として失格だよ!」って言いましたね…。そういうことがあったんです。この3つの出来事は僕にとって、ラジオパーソナリティとしてもっと頑張らないといけない、もっと恩を返さないといけないという励みになりました。そこからですね。本をたくさん読んだり、いろんなことを勉強しよう、努力しようと思ったのは。努力というほどではないんですけどね…。

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――リスナーの方ともすごくいい関係を築かれているのでは?
 
そう。僕に長野のラジオがあてがわれなかったら、人生は全く違ったものになったかもしれないです。勘違いしている、何か暑苦しいだけのオッサンになっている可能性がありましたね。
 
――5月には大阪で初のワンマンライブがありますが、いかがですか?
 
プレッシャーはありますよ。完全アウェイ。ただ、大阪はおふくろの生まれ故郷で、知り合いが誰もいないわけではないから何人来てくれると思うので、そういった意味ではお客さんが全く入らないことはないと思うのですが(笑)。プレッシャーはありますが、気負わず、ありのままでやって、受け入れてもらえなかったらもうしゃあないんだと。これが僕ですからという。大阪に来たから違うことやりますよっていうのは違いますしね。長野からもファンの方が来てくれると思うので、その方が大阪では全然違うことやっているって思ったらがっかりするでしょうし。いつものことしかできないので、いつもの感じでやっていこうと思います!
 
――楽しみにしています。今日はありがとうございました。

取材・文:岩本和子



(2018年5月 8日更新)


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