ホーム > インタビュー&レポート > デビューまでのいきさつから最新シングル 「幸福あそび/愛をありがとう」の製作秘話まで 純烈にインタビュー!
■夢は紅白、親孝行
--まずは自己紹介と純烈の中での役割をお願いします。
酒井 リーダーの酒井一圭です。主な仕事は純烈の方向性を示すこと。事実上プロデューサーという役割ですが、そこはなんともファジーな感じで、いろいろやっています(笑)。ま、発起人ですね。
白川 白川裕二郎と申します。メインボーカルを担当しています。僕は2002年に「忍風戦隊ハリケンジャー」という作品で子どもたちのヒーローを演じていましたが、その前は大相撲の世界におりまして、綱ノ富士という名前で相撲をとっておりました。
林田 コーラスと踊り担当の林田達也です。もともと17年ぐらい前にBlue-Bというバンドでメジャーデビューし、音楽活動を行っていました。純烈に入ってからは笑顔を担当しています(笑)。
友井 振り付け担当の友井雄亮です。好きな科目は体育です(笑)。
小田井 小田井涼平でございます。踊りとコーラスを担当していますが、その他は……なんでもやるのでスキマ全般です(笑)。
後上 後上翔太と申します。グループ最年少で、コーラスと踊りを担当しています。僕はもともと芸能界とは関係なくて、純烈に入るまでは東京理科大学に通う学生でした。メンバーの中では比較的、数字や漢字、文法に強いので訂正係などもやっています。
--純烈結成のいきさつですが、酒井さんが発起人ということで、グループの構想はいつから持っていたんですか?
酒井 僕、もともと子役でスタートして、いったん普通に学校に通い、また俳優に戻るというキャリアを経ているんですけど、俳優としての限界は子役の頃から分かっていたんですね。それで20代の頃は音楽がやりたくてバンドを組んだりしていました。純烈の構想を思いついたのは2007年に仕事で足を骨折したのがきっかけ。1メートルぐらいの高さから飛び降りて両足で着地したのに、なぜか右足だけ脱臼、複雑骨折でぐちゃぐちゃになりまして。運ばれた病院でCTを撮ったら即入院、くっついても歩行に支障が出るかもと言われるし、妻のお腹には2人目の子どももいたし、さぁ、どうしようかと。そしたら、なぜか前川 清さんの姿が頭に浮かんできたんですよ。「前川さんは歌う時、直立不動だったな……」と思い、そこに食いついて(笑)。でも、「自分はあんなにカッコ良くないし歌もうまくないし歌手なんて無理!」と思って一度は忘れようと思いました。それなのに、その後もずっと前川さんが出てくる。いったいこれはなんなのかと思ったら、後ろでコーラスをされているクールファイブのみなさんを思い出し、「これだ!」とひらめいたんですね。そこからムード歌謡のグループを作ろうと思い立ち、退院後、まずは白川を夜中にファミレスに呼び出し、「お前、普段からお母さんに親孝行したいって言ってたよな。実は歌でNHK紅白歌合戦を狙いたいんだけど、どう?絶対いけるから」と話を切り出しました。
--白川さんとは特撮のお仕事繋がりで?
酒井 そうです。白川が2002年のハリケンジャー、僕が2001年の「百獣戦隊ガオレンジャー」に出演していました。スーパー戦隊シリーズでは前の戦隊メンバーとビデオオリジナル作品を作るのが恒例で、その時の現場で親しくなりました。
--白川さんは、役者ではなく音楽で誘いが来て、どう思いましたか?
白川 僕にできるのかなと思いましたが、当時、俳優としての到達点が見えてきていたので新しいことがしたかったのと、リーダーの言う「親孝行」というキーワードに惹かれて参加を決めました。音楽はやったことがないしムード歌謡も知らなかったので、最初は勉強するところから始めました。
--まずは酒井さんと白川さんの2人で始まって。
酒井 そうですね。でも僕の中でムード歌謡はオジサンがやるからこそ映えるというイメージがあって、純烈も最初はオジサンをメインに据えたグループで考えていました。実はビジュアル的にピッタリで目をつけていた俳優仲間もいて、その時は、白川は後ろにちらちら見えるカッコいいコーラスという想定でした。ところが、そいつが当時、新たに始めた仕事が軌道に乗り始めたので、それぞれの道で頑張ろうということになり、オジサン純烈は白紙に。結局、白川がメインボーカルになり、そうなると他にもカッコいいやつを集めないといけない。できれば背が高い方がいいということで、ならば小田井さんでしょうと。白川みたいな真面目な人がいて、小田井さんみたいな個性的な人がいたら絶対におもしろくなると思いましたね。
--小田井さんは、どのように加入の誘いを受けたのでしょうか?
小田井 今、僕45歳で、誘われた時は35、6歳だったかな。年齢的に一度、自分の足元を見直す時期だなと思っていたんです。リーダーからは歌をやるということで誘われて、ロックやポップスだったら無理だけど、ムード歌謡、演歌、歌謡曲というワードが出てきたので、それならできるかなと。とはいえ最初は迷って、一度はお断りしたんです。ま、それでもあらゆる手段を使い、最終的には銀座アスターの高級中華でもてなされまして(笑)
酒井 五目焼きそばを美味そうに食べるのを見て、「いける!」と思いました。白川は280円のドリンクバーだったけど(笑)。
白川 ちょっと、この差は何ですか!(笑)。
小田井 食べ物に釣られたわけじゃないから(笑)。誘いをもらった後、新宿コマ劇場で北島三郎さんが公演されているのを見たんですけど、一部・お芝居、二部・歌謡ショーという構成で、「演歌・歌謡曲の世界ではこういうことができるんだ!」と思って。それを自分たちに置き換えた時に、将来的な夢として新しい扉が開くなと思って乗っかったというか。
--みなさん新しい方向に進みたいところに、参加の誘いが当てはまったんですね。
小田井 僕なんかはそうですね。舞台の仕事でも当時、若手の役者さんでミュージカルをやるのがすごく流行っていて、イケメン俳優がたくさんいたんですよ。そういう現場にちょっと大人の立場で呼ばれることもあったけど、どこか「自分の居場所はここじゃない……」という気持ちもあって。年齢に見合ったことがしたかったというのはあります。
酒井 白川と小田井さんは当時、ものすごい回転率で仕事をしていたので、よく引き受けてくれたなと思いますよ。
--順番で言うと次はどなたに?
酒井 後上と林田ですね。グループ立ち上げにあたって芸歴0年のフレッシュなやつが欲しかったのと、白川が釣りとか大好きで夜の歌をうたうには健康的すぎるから(笑)、バランスを取るべく色白で王子様的なやつが必要だと思ったんです。それで話に乗ってくれた芸能プロの知人にお願いして推薦してもらったのがこの2人。
--後上さんは接点がなかった芸能界からいきなり誘われて、どのように思いましたか?
後上 当時の僕は本当に普通の大学生だったんですけど、いろいろあって留年してしまい1年遅れで就職活動をしていたんです。ただ、世間はリーマンショック直後で先輩やOBから聞こえてくるのは「氷河期だ」「ボーナスも残業手当もなかった」といった話ばかり。先行きを悩んでいたら、芸能事務所の仕事をしていたサークルの先輩がリーダーと仲が良かったので紹介してもらいました。みんながネガティブな現実を語る中、この人だけは「紅白だよ!」って目を輝かせていたんです。なんなんだろう、この差はって。現実世界とのギャップに惹かれましたね。
--林田さんはもともとバンド活動をされていましたが、ムード歌謡だと同じ音楽でも真逆の世界ですよね。
林田 バンドをやっていた時の先輩がSOPHIAで、ボーカルの松岡 充さんからは、「この先、J-POPでやっていくなら状況が厳しすぎるからやめたほうがいい」と言われたんですよ。それもあって、今までとは違うところで音楽をやりたいと思っていたところにムード歌謡でお誘いを受けて興味が出てきました。あと、コンセプトが「親孝行」ということで、僕は親というかおばあちゃん孝行がしたくて。ジャンル的にもムード歌謡ならおばあちゃんも知っているから、まさにうってつけだと思いました。
--そして満を持して友井さんが加入という。
友井 僕の場合は少し入り口が違って、加入の誘いの前にリーダーから「明日、ジャパンカップダートで俺が目をつけている馬が走るんだけど4番人気でオッズも低いから、こいつにかけてみないか?」と言われて。それで初めて買った馬券が大当たり。結構な金額になったんですよ。で、次の日にファミレスに呼びだされて純烈の話を聞くという。
酒井 その前から会社や周囲の人に友井の話はしていたんですよ。彼を入れたら絶対に面白くなるけど、一時期、関西ジャニーズJr.に所属していたこともあって兼ね合い的に大丈夫かなって確認したら問題ないということで。 じゃ、本人がOKするかはわからないけど、話す前に一度、競馬を挟んでみようと。そしたら、これがしっかり当たってくれて(笑)。
後上 競馬の話もですけど、リーダー、まるで占い師ですよね。僕が誘われた時も、自分に関して言われることがちょいちょい当たるから不思議に感じて。
酒井 後上の先輩が僕と知り合いだから彼が育った環境を詳細に聞いて、ドライブしながら調べるという。事前にできる調査は全部やりました(笑)。
後上 そりゃ当たりますよね(笑)。でも、リーダーの話には何か希望を感じさせるというか説得力があったんですよ。
■純烈始動!デビューから今日まで
--この6人が揃って、まず取り組んだことは?
酒井 三軒茶屋のスタジオで週に1、2回のボイストレーニングですね。「カエルの歌」とか童謡を歌っていました(笑)。
--歌うにあたって舞台、お芝居との共通項はありましたか?
酒井 発声に関しては舞台と通じるところはあります。ただ、僕や白川など俳優をやっている人間が声を出すのと普通の人が声を出すのではかなり違いがあって、最初は後上が萎縮しちゃったんです。でも、「お前、大学やめて純烈入ったのに、萎縮したら終わっちゃうよ」と鼓舞しながらやってきて。その頃は実力どうこう以上に、みんなで同じ時間を共有することが重要だったと思います。そこでお互いを理解できたのが今もオリジナルメンバーでやっていられる秘訣かなと。まぁ、新しいチャレンジだしダメ元じゃん、みたいな。そういう思いは全員共通していたと思います。
--演歌・歌謡曲の世界だと作家の先生に弟子入りして修行というプロセスもありますが、純烈の場合は、そこも自分たちで開拓していますよね。その点で苦労したことは?
小田井 苦労というか僕らの場合、運や出会い……ボイトレスタジオの琴姫先生の旦那さんが作詞家の水木れいじ先生だったとか、そういうきっかけに恵まれたがゆえにデビューできたし、それが自分たちの努力以上にウェイトを占めていると思います。ただ、結成当時は実力不足ということでレコード会社からはことごとく蹴られました。そんな中、友井くんが入って踊りながらムード歌謡を歌うというコンセプトが決まった。これは絶対、革新的なグループになるけど、口で説明しても伝わらないから、先にパフォーマンスを見せようということで所属事務所の社長が「涙の銀座線」のPV撮影を提案してくださったんです。しかも空撮まで交えて。そのPVを気に入ってくれたレコード会社があってデビューに繋がったという。普通とは順番が逆ですよね(笑)。
--曲自体はデビュー前から用意されていたということですよね。
酒井 「涙の銀座線」は、僕が知り合いだったスコラという男子ご用達雑誌(笑)の編集の方と一緒に歌詞を書きました。最初はオジサン純烈のイメージで、「霧の安達太良サービスエリア」というタイトルで作ったけど、その後、イケメン純烈に方向転換したので、舞台を東京に移してタイトルも「涙の銀座線」に変更。そこから主人公の年齢や設定を固めながら書きました。作曲は琴姫先生にお願いしたら快諾してくださって。
--デビューに至って、その後の課題はどこにあると感じていましたか?
小田井 「涙の銀座線」では知名度がなかなか上がらなくて、しばらくは迷走状態でした。そうなると2曲目からはどの方向性に進むかということで違う手も考えるじゃないですか。引き続きボイトレをしながら、いろいろな課題に挑戦していました。
白川 事務所も僕たちもムード歌謡じゃなくて、もっとポップス寄りになった方がいいのかなって悩んでいましたね。
--結果的には2枚目のシングル「キサス・キサス東京」もムード歌謡になって。
酒井 水木先生との出会いが決め手でしたね。僕らもまさか、天童よしみさんや氷川きよしさんの作品で作詩大賞を受賞した先生がそんな身近にいるとは思わなかった。琴姫先生からは「紹介はできるけど、水木と関わるとそれなりに制限も出るだろうし、純烈と作風が合うかもわからない」と言われ、会社やメンバー間で話し合ったけど、もう作家のパワーをお借りして純烈の次の舵を切る時期だと思っていたので、ここはやっぱりお願いしようと。実際にお会いしたら水木先生の方から「ずっと書きたかったんですよ」と言っていただけてホッとしました。だけど、まぁ、マジな世界に踏み込んで嬉しさ以上に怖さはありましたね。
--演歌・歌謡曲の最前線に一気に近づいた感じですよね。
小田井 水木先生と知り合ってから、マヒナスターズさんをはじめ演歌・歌謡曲の先輩方とお会いするきっかけが出来て、世界が圧倒的に広がりました。それは事務所やレコード会社だけで動いても出来なかったことで、そこで僕らも「この世界では作詞作曲の先生が大事なんだ」ということを実感するんですよね。
酒井 リスペクトしつつも、自分が育ってきた世界とあまりに違うので社会見学させてもらっているような感覚はあります。不思議だけど、こういう世界があるから脈々と伝統が受け継がれる。格式もあるし、だからこそお客さんにも伝わるんだなって。
--その後、3枚目のシングル「恋は青いバラ」から日本クラウンに移籍します。
酒井 「キサス・キサス東京」はリリースされたのが東日本大震災のすぐ後ということもあり、プロモーションできる状況ではありませんでした。その間、自分たちで被災地の避難所に慰問で伺ったりしながら活動は続けていましたが、前のレコード会社もそんな大変な状況で僕らを売るノウハウがなく、正直、お互い行き詰まっていたんです。その時に事務所の社長が移籍に向けて勝負に出てくれて。僕らが出演しているイベント会場に日本クラウンのディレクターを連れて来て、ステージを見てもらい、移籍が決まりました。そこでいきなり中川博之先生が出てくるのもすごい話なんですけど。
--中川先生と出会ったことで、求められるレベルがまた一つ上がったのでは。
酒井 演歌・歌謡曲の老舗メーカーに入れてもらって、ましてや中川先生なんて「ラブユー東京」「さそり座の女」など、たくさんの名曲を書かれた大先生ですからね。ますます大変なことになったけど、水木先生と出会った時点で腹はくくっていたし、ここは中川先生にもお力を借りて、この世界で認めていただこうと。打ち合わせをした時、中川先生が率直に「みなさんの世代に自分のメロディーが通用するのか、それを考えると非常に怖い」とおっしゃって。逆に僕らは中川先生の力をお借りして結果を出せなかったらと思うと怖いですと。そう思っている同士だと分かれば年齢は関係ない。中川先生が勝負してくださるのだから僕らも打って出なければということで、「思い切ってやらせていただきます!」と決意を新たにしました。
--デビュー前は実力不足で苦戦されたということですが、この頃には歌唱力、経験値ともにかなりレベルアップされていたと思います。その辺りについては、ご自身ではどう捉えていましたか?
酒井 子供の頃からカラオケ大会で賞を獲ってきて歌手になったような人たちとステージをやって分かるのは、演歌・歌謡曲を歌うのって、やっぱりすごく難しいんですよ。僕らも頑張っているけど、そこに肩を並べるだけの力は正直、まだありません。本当に一つずつ積み重ねて……それでまだ生き残っているのがすごいですよね(笑)。悩んでも仕方ないし、もう一生懸命、下手だけど、僕らは僕らのやり方で行くよって。
--そういうDIYな姿勢や情熱は、まるでパンクバンドのような。
酒井 本当にそう。純烈は、ある意味パンクですよ(笑)。でも、演歌・歌謡曲の先輩方は1人ですべてを背負って歌っているし、みなさんメンタル的にはパンクなものを持ってらっしゃると思います。その重圧との戦いは半端な覚悟ではできないし、本当に素晴らしいなと思います。
--アクティブなステージも純烈の大きな魅力ですが、ステージングは、どのように考えていったのですか?
酒井 セットリストに関してはデビュー以来、一貫して僕が決めています。オリジナル曲の演出は友井にお願いし、カバー曲は小田井さんに振り付けしてもらって。最初の頃はお芝居からのお客さんが多くて、演歌・歌謡曲の現場も知らないから手拍子もないんですよ。こっちはもともと俳優だから、歌いながらアドリブで煽ることもまだできないし、淡々と歌っているのを淡々と見るという(笑)。僕もワワワ~と歌いながら「これはやばいな…」と思って導入したのが紙テープ。体を動かせばお客さんもほぐれるかと思ったら、みなさん慣れていないから投げ出したら際限がないという(笑)。
小田井 効果的な演出が欲しかったのと、「昭和といえば紙テープだよね」という安直な発想でした(笑)。
友井 みんな勉強しながらやっていましたよね。テープの芯を抜かないと当たった時にケガしちゃうとか(笑)。
小田井 もし大きなステージでやる機会があったら紙テープは復活させたいです。
--踊りに関しては友井さんの担当で。
友井 僕は、もう、それしかやってこなかったから。ただ、もともとやっていたのがヒップホップやロックダンス、ストリートダンス系で、踊りのジャンルも違うし毎回、苦労しています。「涙の銀座線」の時にリーダーから、「この曲で踊ったらどうなる?」と聞かれて提示したのが縦ノリのヒップホップ系だったんですけど、「それだとお客さんがノれない。ピンク・レディーみたいなユニークな振りをつけてくれ」と言われて、とりあえず資料になるような映像を見まくりました。その時代を知らないけどおもしろい、できてしまう、みたいなものを逆算して、これどう?なんて言いながら作っていきました。
--みんなが真似したくなるようなものを。
友井 一緒に楽しめるようにというのが基本ですね。その要素は今でも入れています。
--白川さんはメインボーカルとして活動していく中で気づいたこと、発見したことなどはありますか?
白川 デビュー当時は歌が上手くなるようにとか音を外しちゃいけないとか、そういうことに固執していました。それが、レッスンの中で「歌い出しがセリフ、Bメロが語り、サビが歌だ」と言われ、それってお芝居と共通することだし、役者というバックボーンを活かして自分らしさを表現することの方が大事なのかなと思うようになりました。
--ボーカリストとして目指したい次の段階は?
白川 やっぱり表現力ですね。さっき友井がムード歌謡に振りを付けるのが難しいと言っていたように、歌の表現においてもムード歌謡には独特のスタイルがあると思います。歌と表現の連動を、より高いレベルで目指したいです。
--そういった試みによって幅広い音楽性を示した結果、純烈がムード歌謡の新しいフィールドを開拓しているように感じます。
林田 そう言っていただけるのは嬉しいですね。
小田井 僕らももちろん、そこは意識していますが、それ以上に曲を作ってくださる先生方も挑戦してくださっていると思います。
--先生方にとっても、新しいことをやりたい時に「純烈とならできる!」と思うのかも。
酒井 その部分は、すごく広げていきたいです。本気で僕らと何かやりたいと思ってくれる人には有名無名問わず入ってきてもらいたい。そのための雰囲気、場所づくりは徹底して管理しています。そうやってみんなでわいわいやってもらうのが僕のやりたいプロデュースの形。今、実際に思い描いた形になりつつありますが、それですぐにお客さんが増えるわけではないという現実の厳しさも感じています。
--でも着実に動員は増えていますよね。
酒井 おかげさまで。先日も150人キャパのイベントのチケットが一瞬で売り切れて、販売待ちのお客さんの中に見たことない人もいたと。それ、本当に新規のお客さんだったらあせりますね。僕らの能力と体力が新規のお客さんにちゃんと届くのかなって(笑)。僕ら、目の前のことを一生懸命やらないと先がないという感覚が強すぎて、いただいたオファーに対して全力で、過剰なぐらいやっちゃうんです。だから何年先とかが見えていないし、お客さんがたくさん来てくれる状況がおっかなくて。でも少しずつ状況が変わってきている気はします。
--では、近い将来の展望は?
酒井 とりあえず47都道府県でライブがしたいですね。単純に僕が全県行きたいんですけど。でも、歌いながらそれができるジャンルだし、その土地の景色を見ながらインスピレーション受け、また全国各地へキャンペーンに回る。その感覚を純烈全体で共有していきたいです。
■中川博之先生からのメッセージ
--新曲「幸福あそび/愛をありがとう」についてもお聞きしたいと思います。こちらは中川先生が遺されていた曲ということで、もともと世に出す予定はあったんですか?
酒井 いや、当初は同じ中川先生の「愛をありがとう」を競作する話があって、その中で奥さまである作詞家の髙畠じゅん子先生から、実は純烈のために用意していた「幸福あそび」という曲があるから歌って欲しいとお話をいただきました。責任重大だし、中川先生のご遺志をちゃんと伝えられるか心配もありましたが、純烈の歴史の中で中川先生の存在はものすごく大きいし、是非にということでお引き受けしました。
--中川先生としては、もっとたくさん純烈と曲を作りたかったでしょうね。
白川 僕たちとしても純烈がもっと世に出るまでご一緒したかったです。まだそんなに仕事もなかった頃、先生は僕らをムード歌謡の本道へと導いてくださり、お会いするといつも気にかけてくださって……本当にやさしい先生でした。
--中川先生の作品では「スターライト札幌」が本格的なムード歌謡で、今、そのラインにある「幸福あそび」と向かい合うのは、純烈にとって成長を証明するタイミングでもあるのかなと。
酒井 「幸福あそび」は、曲を聴いて率直に「難しい!」と思いました。「スターライト札幌」はご当地ソングで歌詞に時計台というキーワードも出てくるし、イメージを描きやすかったんです。でも、今回は逃げられない歌詞というか、この味を出さなきゃいけないと思って。
小田井 純烈が最近、ポップな要素も入った歌謡曲にも挑戦している中でこの曲が来たのは、「もう一度ムード歌謡も見つめ直してね」という中川先生のメッセージなのかなと思いました。今、6人でムード歌謡をやっているグループってなかなかいないし、中川先生もこの火を消したくないという思いと「お前ら頑張れよ!」という応援の気持ちで曲を書いてくださっていたのかなと感じています。
--中川先生不在の中、レコーディングの現場はどのような雰囲気でしたか?
小田井 でもミキサー卓のところに写真はあったんですよね。
酒井 髙畠先生が持ってきてくださったんです。中川先生の分まで情熱を背負ってこられて、僕らもその情熱に乗っかってやらせていただきました。
--白川さん、この曲の歌いどころは?
白川 サビのところに、ぜひ注目していただきたいです。かつての恋の思い出がとても素敵な言葉で描かれていて、切ない主人公の心情がじわじわと伝わってきます。
--今回、両A面となっている「愛をありがとう」は中川先生が歌われていたもののカバーになります。歌うにあたっての思いもひとしおでは?
酒井 普通に意識しては歌えない、それぐらいスケールの大きい曲ですよね。でも本当に素晴らしい曲なので、どんどん人前で歌って、みなさんに知っていただきたい。まっすぐ歌えば絶対に届くはずなので、なるべくこねくり回さずお届けしたいと思います。
--最後に、読者へのメッセージをお願いします。
白川 「幸福あそび/愛をありがとう」、中川博之先生の思いがたくさん詰まった歌なので、その思いを伝えられるよう一生懸命歌っています。どうか応援お願いいたします。
友井 形があるようでかっちりとは決まっていない純烈。これからもどんどん成長し、おもしろく変わっていくと思います。ぜひライブを見てその意味を確かめていただきたいと思います。
後上 毎回、汗びしゃになりながら取り組んでいる純烈のステージを観ていただければ、必ず“元気”というおみやげを持って帰っていただけると思います。よろしくお願いします!
林田 僕たちは平成のムード歌謡を歌や踊りで表現して、懐メロなどもやっているので、世代を問わず幅広いお客さんに入ってきていただけると思います。切ない曲も歌っていますが笑顔になれるパフォーマンスが信条なので、ぜひ、ライブに遊びにきてください。
小田井 お客さんに笑顔になったり元気になっていただいたり、純烈のパフォーマンスが生活のちょっとした潤いになればいいなと思います。そして、若いとはいえ僕も45歳だし、おっさんが頑張っているので応援してください!(笑)
酒井 『紅白歌合戦』を目標に頑張っていますが本当に出られるのかどうか、そのへんを見守りながら楽しんでいただければありがたいです。興味を持っていただける曲が絶対にあると思うので、YouTubeの純烈チャンネルなどを見つつ、テレビで見かけた時はチャンネルを止めて応援いただけたらと思います。
構成・取材・文/伊東孝晃(クエストルーム)
(2016年5月30日更新)
発売中 ¥1204+税
日本クラウン
CRCN-1960
<収録曲>
01.幸福あそび
02.愛をありがとう
03.幸福あそび(オリジナル・カラオケ)
04.愛をありがとう(オリジナル・カラオケ)
発売中
Pコード:292-932
▼6月26日(日) 12:30
神戸国際会館こくさいホール
S席-6200円
A席-4100円
B席-2100円
[出演]純烈/蒼彦太/花園直道/松尾雄史/川上大輔
※未就学児童は入場不可。
[問]神戸国際会館こくさいホール
[TEL]078-231-8162
ユニット名「純烈」には「純粋であり、かつ強く正しく節操や分別がある」「志を変えずに最後まで貫く」という意味が込められている。2010年6月23日、1stシングル『涙の銀座線』でメジャーデビュー。元戦隊ヒーロー出身の俳優中心メンバー6名で構成され、平均身長183cmの高さを活かしたパフォーマンスなどで注目を浴びる。
(写真左)
酒井一圭(さかいかずよし)
友井雄亮(ともいゆうすけ)
林田達也(はやしだたつや)
白川裕二郎(しらかわゆうじろう)
後上翔太(ごがみしょうた)
小田井涼平(おだいりょうへい)