「ずっと“挑戦”ですね」。ARBに松田優作
渾身のライブ盤『LIVE Neo Retro Music 2015』
ミュージシャンとして、俳優として
60年の生き様とあの頃を語り尽くす石橋凌ロングインタビュー
石橋凌のソロ第2弾アルバム『Neo Retro Music』(‘15)を携えた、昨年のツアーの最終日の模様を収録したライブ盤『LIVE Neo Retro Music 2015』が発売された。この夜のために最高の音色を鳴らす音、MC、そしてステージ上のメンバーの呼吸も全て閉じ込めたこのアルバムは、まるであの夜に自分がその場にいて、ライブを楽しんでいるかのようなひとときを味あわせてくれる。そのアルバムに続き、石橋凌の地元である福岡を皮切りに新たなツアー『Neo Retro Music 2016』が2月6日(土)よりスタート。大阪公演は2月9日(火)心斎橋BIGCATにて開催される。ライブ盤の中で彼は、ARB時代の忘れがたい楽曲であり石橋自身を語る曲ともいえる『魂こがして』(‘79)を歌う際に“一生歌い続けます”と言葉を添えている。バンド時代からのファンにしてみれば、’06年に彼がARBを脱退した際に最後のメッセージとしてファンに贈った言葉と重なるそのMCに、胸を打たれる人も多かったに違いない。1970~80年代を駆け抜けた“伝説”と言われるそのロックバンド、ARBのボーカルだった彼は、今や国内外を問わず活躍する俳優として知られることの方が多い。幼い頃から様々な音楽に触れ、確固とした信念を抱いて音楽に向かい続け、“とにかくバンドに憧れていた”という彼が、バンド活動を停止してまでも俳優の道に進む意を固めた故・松田優作との出会いや絆。ARBの再開から脱退、そして現在のソロ活動。俳優でありミュージシャンであることを貫く1人の表現者・石橋凌が、じっくりと語ってくれた言葉はどれも、彼の音楽同様にまっすぐであたたかかった。
“全曲そのままで、MCも極力カットしないでいきましょう”と
――ライブ盤『LIVE Neo Retro Music 2015』は、まるで自分がその場にいるように、ライブを追体験できるようなアルバムでした。
「ありがとう。去年のツアーの最終日、3月20日の東京Zepp DiverCityでのライブなんですが、元々この日は資料用にカメラが入って、音も録っておくということだったんですね。ですが、ライブが終わった後にスタッフから“すごくいいライブだったからリリースしませんか?”と。自分でも聴いてみたんですけど、確かにいい感じに収められていたので、“それなら全曲そのままで、MCも極力カットしないでいきましょう”と。昔、バンドでやっていた頃のライブはほとんどMCもなくて、ビート系の曲が多かったんですけど、ソロになってからは歌はもちろんですが、MCでお客さんとのキャッチボールを楽しみたいなと」
――鮎川誠さんが3曲ゲスト出演されていて、鮎川さんがシーナさんのことを話すMCも収録されていますね。
「あのときはお客さんも泣いていましたね。鮎川さんは僕が生まれ育った(福岡県)久留米の先輩でもあり、僕が地元でアマチュアバンドをやっていたときに、サンハウスというバンドでギタリストをされていた昔からの憧れの人でした。昨年2月にシーナさんが亡くなられて、鮎川さんから“シーナの追悼ライブがあるから出てくれないか?”と連絡をいただき、“もちろんです”と答えました。その後、サンハウスの柴山(俊之)さんのライブが下北沢であったときに鮎川さんもお見えになっていて、その日はスタジオで音を出すからということで僕よりも先に帰られたんですけど、その後ろ姿が何とも印象深くて…。シーナさんが亡くなられてまだ間がない頃でしたし、鮎川さんはやはりギタリストですから、その悲しみとか寂しさをギターを弾いて紛らわされるのかなと思った。その後、このライブの前日に鮎川さんから改めて追悼ライブの確認の電話があって、“もちろん参加します”と一旦は電話を切ったんですが、そこで下北沢で見た鮎川さんの後ろ姿が浮かんで…。だからまた電話して、“実は明日ライブがあるんです。鮎川さん、失礼だったらごめんなさい。ただ、明日ギターは弾かんですか?”って久留米弁で聞いたんですよ。そしたら“あ、それはおもしろかね”って言ってくださって、ライブ前日の夜10時ぐらいに鮎川さんの出演が決まりました。すぐにスタッフに“鮎川さんが出てくれることになったから、アンプを用意してくれ”ってお願いして、当日はリハーサルなしで『Johnny B. Goode』『STAND BY ME』『I’VE GOT MY MOJO WALKING』(DISC2:M9~11)の3曲をやりました。鮎川さんが出演されることを当日まで知らないスタッフもいましたし、お客さんは全く知らなかったですね」
自分が今まで培ってきたもの、持っていた価値観、
目指しているものが間違ってなかったという答えが、
くしくも映画の現場で自分に跳ね返ってきた
――今回のライブ盤にも収録されていますが、ARB時代の曲もライブで歌われていますね。
「バンド時代に自分が書いた詞とメロディに限って歌っているんです。それはバンド時代を引き摺りたくないというのもあるし、あくまでも自分が当時書いた歌を、今の時代にもう一回問いたいという気持ちからですね」
――“引き摺りたくない”というのは、懐古でもなく、“ARBの石橋凌”でもなくソロの石橋凌としての表現である、という意味もありますか?
「そう。昔はとにかくバンドをやりたくて、ARBには一番最後のメンバーとしてオーディションで入ったんですが、僕らはアマチュア時代から洋楽を聴いて育っていたし、ビートルズもストーンズも、ボブ・ディランも海外ではテレビに出て歌っている。でも、日本では“今日も どっかの阿呆が ビルから 飛び降りちまったぜ”(『喝!』(‘79)/DISC2:M-3)と歌っただけで、社会的なことを歌っているとレッテルを張られて、メディアが扱ってくれなかった。それは僕の中では理不尽極まりなかったわけですよ。自分たちが憧れたロックミュージックは、ラブソングもあれば、仕事、家族、社会で起きていることや戦争のことまで、いろんなことを歌ったものがあって、歌っていいものだと思っていた。プロになったらそれが日本語で歌えると思っていた。ところが、19歳でオーディションを受けて入った事務所から最初に言われたのは、“歌詞には社会的、政治的なことをひと言も入れるな”と。さっき言った『喝!』が事務所の逆鱗に触れたんですね。でも、それじゃロックじゃないし、“じゃあ何を歌えばいいんですか?”と聞いたら“ラブソングだよ”と。確かにあの時代は、演歌から歌謡曲、ニューミュージック、フォークも全部、男女のラブソングだった時代でした。でも、戦争のことを歌っていても、ジョン・レノンの『イマジン』(‘71)も、僕はラブソングだと思うんです。そんな風に言われたときに、“この国は本質をやっちゃいけないんだな”と思ったんですね。結局、コマーシャリズムに乗って、売れるものしかやっちゃいけない。それまでマンガとかで見たことのあるうんざりするような世界というか、“音楽や映画、文化と言われるものをこういう人間たちが作ってるんだ”と思うような人に何人も会いましたし、それは全く健全なモノ作りじゃないなと思った。そういうことを経て、自分が思うロックミュージックはこの国では出来ないと落ち込んで…。事務所をクビになってからは、ワンボックスカーを買って、日本全国をバンドで廻って、メンバーチェンジもあり、様々なトラブルもあり、壁を乗り越えながらやってきたんですが、自分が思ういわゆる“お茶の間”にはARBというバンドは入っていけなかった。それで、27~28歳のときに“もうここまでだ”と思ったんですね。で、久留米に帰ろうと」
――そうだったんですね…。
「そんなときに出会ったのが松田優作さんでした。キャロルやダウン・タウン・ブギウギ・バンドのドラマーをされていた相原誠さんがARBのライブを手伝ってくれたこともあって、家に閉じこもっていた僕に電話をくれて、“気晴らしに呑みに行こうよ”と誘ってくださって。そのときに、まずジムで汗を流してから呑みに行こうとなって、そのジムのプールに優作さんがいらしたんですね。相原さんは優作さんをご存知だったので紹介してくれて、そのときはご挨拶をしただけでした。それから数ヵ月後に、原田芳雄さんのお宅であった忘年会に優作さんがお見えになっていて、僕は直感で“相談に乗ってもらえるのはこの人しかいない”と思ったんですよ。そしたら、プールで会ったことを覚えてくださっていて、後日、ARBのレコードとCD、ビデオ、本を持って優作さんのお宅にお邪魔して。そこでこれまでの経緯を話している間、優作さんはずっと腕を組んで聞いてくれて、“お前がやっている音楽の世界も、俺がいる映画の世界も、残念ながら欧米のようなプロデューサー・システムがない。だからこの国は表現者自身がセルフ・プロデュースでやっていくしかないんだ”と言われて。そして、“土に穴を掘って、種を蒔いて水をやると芽が出てくる。その芽を大事に大事に育む。また次の年も、同じように穴を掘って種を蒔いて水をやる。その作業をやり続けるしかないんだ。それを手を抜かずに大事にやっていたら、その姿をちゃんと見ている人がいる。その人が近付いてきたときにハジけろ”と。そのときに、“お前がいる音楽の世界よりも俺がいる映画の方がメディアが大きいから、いつか映画でお前の名前と顔を売れ”と言われました。僕は子供の頃から映画は好きだったんですけど、俳優になろうなんて思ってなかったし、殴られるのを覚悟でそのとき優作さんに言ったんですよ。“じゃあこのバンドをお茶の間に売るための宣伝として、映画を使ってもいいですか?”と。そしたら2~3秒の間があって、ニヤッと笑って“それでいいよ”と」
――それが『ア・ホーマンス』(‘86年公開。松田優作監督、脚本)だったんですね。
「これは結果論ですが、自分が今まで培ってきたもの、持っていた価値観、目指しているものが間違ってなかったという答えが、くしくも映画の現場で自分に跳ね返ってきたんです。でもそれは、現場に入る前に優作さんが僕にハッキリ言ったんですよ。“お前はどうせ芝居は出来ないんだからするな。ただ、お前がバンドを通して培ってきたフィーリングやニュアンス、生理みたいなものは全部、俺が拾うから出せ”と。そう言われた通りにしたら、“あ、正解だったんだ”と思えた。“これでもう一回、気持ちも新たにバンドで歌える”と思いました。その御礼を優作さんに伝えたときに、“今後、役者はどうするんだ?”と聞かれて、そのときは“もし自分にやれそうな役があればやるかもしれません”ぐらいにしか答えていなかったんですね。そうする内にARBはライブ会場がライブハウスから小ホール、大ホールと大きくなっていって、10年かかって武道館でやることが出来ました」
優作さんは、音楽で心が折れて田舎に帰ろうとしていた自分を
生き返らせてくれた人でした
――優作さんとは、そういうつながりがあったんですね。
「優作さんと映画をご一緒したのはその1本なんですが、その後も一緒に呑む機会や話す機会をたくさんくださって、よく言われていたのが“なぜ海外との合作映画で、日本人の役を日本人がやれないのか”という話だったんです。理由は3つあって、1つは自分たちはThe Screen Actors Guild(=SAG、全米俳優組合)に入れていない。2つ目はネイティブな英語力が必要になる。3つ目は露骨には分からないかもしれないけど、偏見や差別と戦っていくしかないんだと。実際にそこで戦っているのが、アメリカ在住の二世の人や、コリアン・アメリカン、チャイニーズ・アメリカンの方たちなんですよね。そう話されていた優作さんが、『ブラック・レイン』(‘89)でサムライや空手家ではなく、等身大の日本人の役を演じられて見事に大成功した。優作さんはものすごく楽しそうで、“凌、俺はね、映画の父の国に行けたんだ。本当にすごいんだ”ってよく話してくれました。そういうお土産話をたくさん聞かせてもらって、最後にお会いしたのが’89年9月の優作さんの誕生日でした。“下北沢で呑んでるから来い”と連絡があって、お誕生日だし『ブラック・レイン』の大成功もあって美味しいお酒を呑んで。そのままお宅にまで伺ったんですが、その場で優作さんから、それはもう場の空気が変わるぐらいの迫力で一喝されたんですよ。優作さんの最後の作品はテレビドラマだったんですが、実はその作品にもお声をかけていただいていて、バンドのスケジュールとその他の仕事の都合もあってお断りしていました。そのことをその呑みの席でいきなり言われて、“お前ね、『ア・ホーマンス』で新人賞をもらって、『Aサインデイズ』(‘89)で主演男優賞をもらったのに、何でもっと真剣に役者をやらないんだ”って。僕としては、“おかげさまでバンドが順調で、両方を行うのは無理だったものですから”と答えたんですが、優作さんは“もうちょっと俳優というものを真剣に考えろ”と。でも、おいとまするときには優作さんが玄関まで来てくださって、握手してニコッと笑って、“頑張れよ”と言ってくれた。それが優作さんと僕の最後なんですよ」
――そんな…。
「訃報が入ったのは、それから2ヵ月後の11月でした。その日はARBの本を書いてくださった方と編集者、マネージャーとで、ささやかな祝いの打ち上げを、優作さんを紹介してくれた相原さんが経営するバーでしていました。そのときに家に電話をしたら義母が出て、“今、テレビの速報で優作さんが亡くなられたって”と聞かされて。全く寝耳に水というか、僕はその場に崩れ落ちちゃって…。急いでご自宅に伺っても、亡くなられていたのが全然信じられなくて。それから四十九日の法要のときに、優作さんの奥様のお母様から、実は亡くなる寸前に優作さんから、“アメリカから3本メジャーの話が来ている”と話してくれたと聞かされたとき、僕はもう何も言えなくなっちゃったんですね。優作さんは、音楽で心が折れて田舎に帰ろうとしていた自分を生き返らせてくれた人でした。映画での表現は、舞台やテレビとは全然違うものだと教えてくださった、自分にとっては師であり兄のような存在でもありましたから、優作さんの夢とか遺志を、自分なりの方法論で継いでいきたいと思った。それが’90年、僕は34歳でした。そのときから、ちゃんと俳優として向き合うために一旦音楽を封印するという意味で、バンド活動を停止したんですね」
――当時のことは印象深く覚えています。“松田優作さんの遺志を継ぐ”と報道されたときはファンの1人としても驚きましたが、そこに至る経緯についてはあまり多くを語られていなかったように記憶しています。
「ただ、当時所属していたレコード会社のディレクターと話したときに、このままではファンや関係者が納得いかないから、『宝島』と『ロッキング・オン・ジャパン』の2誌の取材は受けようということになりました。優作さんとの出会いや、役者の道に進む決断をした経緯も、そのときに全部話しました。あと、優作さんの生前に、実はちょっと不思議な体験があったんです。夢の中で僕と優作さんが2人で禅寺に行くんですが、僕はお堂に入ってすぐの板張りのところで座禅を組まされる。そのお堂には壁に沿ってらせん状に上がっていく階段があって、優作さんがその階段を上っていく――そこで夢が終わったんですね。それを優作さんに伝えたら、“俺はどこに行った?”と聞かれて、“僕が座っているところからは見えなくなりました”と伝えたら、ニコッと笑われたんですね。その時点で、僕は優作さんの病気のことは全然知らなくて、さっきの誕生日の席で最後に“頑張れよ”と言われた」
――そんなことがあったんですね。
「もう1つ不思議だったのが、お葬式が終わった後に、火葬場に行くために乗り込んだバスの窓から空を見ていたんですね。その日は朝からずっと曇っていたんですが、空を見上げていたら突然パッと雲が切れて、日が差してきた。自分はとても寂しい気持ちでいっぱいだったから、“こんな気持ちのときに、なぜ急に空がこんなに晴れてくるんだろう?”と思っていたんです。それから数週間後にARBの東北ツアーがあり、新潟から秋田へ電車で向かっていました。スタッフもメンバーも寝ている中で僕1人だけ、窓の外を見ていた。田園風景が広がる中に太陽が出ていて、そのときふと火葬場に行くバスの出来事を思い出して、遊びというわけじゃないんですが、“優作さん、今から僕が自分の今後について選択肢を上げますから、正しいと思うものがあれば虹をかけてください”と念じてみたんです(笑)。1つ目は、“ミュージシャンとして海外に出られるようになる道を選ぶ”。そう念じて5つ数えて目を開けても、窓の外は変わっていない。2つ目は、“海外と日本を行き来するソロシンガーになるための方法を探る”。また5つ数える。それを5~6回繰り返していった中で、“今後は役者として優作さんが目指したところに行く努力をする”。そう念じて5つ数えて目を開けたら、山の上にくっきりと虹の半円が出ていたんですよ」
――えぇぇぇぇぇぇ!
「もう“うわー!”って全身に鳥肌が立って、すぐにメンバーのところへ行って大騒ぎして。でも、メンバーも起きないし、自分でもふと“石橋はおかしくなったんじゃないか?”と受け取られてはいけないと思って(笑)、それ以上はその場では言うのを止めたんですね。振り返ると、禅寺に行く夢も実は伏線だったのかもしれないという気持ちもあって。そういうスピリチュアルな現象ってなかなか理解も共有もしにくいと思うんですが、当時、メンバーやスタッフ全員に話しましたし、さっきの2誌の取材でも全部話しました。みんな半信半疑でしたが、唯一ドラムのキースだけは、俺が電車で騒いだときに目を覚まして、“確かに虹が出ていたね”と。その虹を見たときは現実として自分の身に起きたわけですし、それまでにあったことを経た上で、そのときに決断したんですよね」
家にあるCDやレコードをクロゼットにしまい込んで
一切音楽を聴かなかったし、人のライブにも行かない、歌わない7年間でした
――本当に初めて伺うお話ばかりで。
「その1年半後だったと記憶していますが、『ヤクザVSマフィア』(‘93)のお話をいただいて、LAで撮影をしました。オールハリウッドクルーでの制作で、ヴィゴ・モーテンセンと共演したんですけど、そのときのプロデューサーがショーン・ペンの初監督作『インディアン・ランナー』(‘91)のキャスティングプロデューサーを務めた方で。約3ヵ月半ロスにいて2本撮ったんですが、そのときにプロデューサーが“ショーンが今、次回作『クロッシング・ガード』(‘95)を準備している。ジャック・ニコルソン主演で、ニコルソンが経営する宝石店のマネージャー役でアジア人の俳優を探しているが、お前どうだ?”と聞かれて、僕はもう“ぜひ!”と答えました。ただアメリカでは、ルールとしてオーディションを受けなければならないし、ギャラもあまりないと。これはよく言ってるんですが、僕にとっては映画と音楽が僕の学校だったというぐらい、子供の頃から同じぐらい好きだったんです。だから、大好きなショーン・ペン監督で、神様のようなジャック・ニコルソンが主演となれば、お金はいらないどころか、お金を出してでもやりたいと。なおかつゲイの役なんですけど、僕はもうゲイでも芸者でも何でもやると(笑)」
――(笑)。
「それで、オーディションを受けたら合格しました。その後にもう1本決まって、計4本に出演したんですが、その後に優作さんが夢だと言われていたSAGに入れたんです。結果、7年かかりました。その間、僕は家にあるCDやレコードをクロゼットにしまい込んで、一切音楽を聴かなかったし、人のライブにも行かない、歌わない7年間でした。SAGに入れたという達成感もありましたし、優作さんにお線香をあげて“ここまで行けました”と報告して、それで’98年にARBを再開したんですね」
――なるほど。そういうことだったんですね。
「ただ、自分の中では同窓会をやるつもりはなかったので。その7年間で時代の変化もあったし、日本でもBLANKEY JET CITYやTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTなどカッコいいバンドがたくさん出てきた。それなのに、ただ先輩ヅラするのは嫌だったし、ましてや自分はアメリカの映画の現場でプロ意識というものを学んできました。それを音楽に還元したかったし、ただバンドが楽しいだけでやるんじゃなく、音楽も以前とは違うものを目指したいと。それをメンバーにもスタッフにも伝えましたが、実際はなかなかうまくいかないこともあって、再開して6年目で俺は脱けました。音楽も俳優も続けていく意思があったけど、それは申し訳ないけどバンドという形では出来なかったんですね。ただ、それについて当時はバンドの公式サイトでは発表しましたが、黙して語らずで終わったような形でしたから、ファンの方には誤解を抱かせてしまったかもしれません」
――『魂こがして』(M-6)を歌われるときに、「一生歌っていきます」と言われています。再開したARBを’06年に脱退されたときも、同じ言葉を最後のメッセージとしてファンに贈られていましたね。それから今年でちょうど10年。役者として演技を通して伝えたいことと、音楽で伝えたいことは同じでしょうか?
「そうですね。九州でアマチュアバンドをやっているとき、17~19歳まではイタリアンレストランでアルバイトをしていました。最初は皿洗いで入って、ピザの生地作りをやるようになって、その間に二度ほど東京からお誘いがあったんですよ。僕としてはバンドで出て行きたかったんですが、全部ソロという条件でした。それをお断りしている内に誘いも来なくなって、店のマスターが自分が修行したお店がシチリアにあるから行っておいでと。僕の中ではミュージシャンじゃなくシェフでもいいかなと8割方思い始めていたときに、九州のラジオ局でディレクターをされていた岸川さんという方から電話があって。井上陽水さんも海援隊もチューリップも、九州出身のミュージシャンのほとんどがその方に背中を押されて東京へ行ったんですね。僕もアマチュア時代からずっと応援してもらっていて、今でも覚えていますが、ちょうどスパゲティを作っているときに電話がありました(笑)。“東京でARBというバンドがボーカルを探しているから、オーディションを受けてみたらどうだ”と。その電話がなかったら、いまだに白いコック服を着てピザ生地をくるくる回していたと思います。ミュージシャンになるか、シェフになるかの分かれ道で岸川さんに出会い、音楽を辞めようと思っていたときに優作さんと出会って、今があるんですね。僕は『魂こがして』とか『縁のブルース』(‘11)とか、“魂”や“縁”といった目に見えないものを歌っているんですけど、さっきの出会いがそうだったように僕は実際に“縁”を体験しているから、それは嘘じゃないし本当にある。魂も本当にあるんだよ、ということを音楽として、歌い手として伝えていきたいんですね」
――縁と言えば、今回のライブ盤にも収録されている『STAND BY ME』は日本語詞で歌われていて、詞の中に“縁”という言葉があります。ARBを聴いていた子供の頃は、どこにもぶつけられない寂しさや悔しい気持ちを音楽を聴くことで解消していたように思います。大人になればそういう寂しさや苛立ちはなくなると思っていたんですが、全くそんなことはなくて。
「日本人は全員と言っていいぐらい、そういう感覚や喪失感みたいなものがあるんじゃないかなと思う。特に今の時代、世の中全体がバラバラで、その上ギスギスしているように感じるんですね。それを解消するために何があるのか。それは、もしかしたら昔から言い伝えられている各地の祭かもしれないし、僕にとっては小さい頃からそれが映画と音楽だったんですね。学校の先生が言うことよりも、よっぽど大事なものを黒澤明監督の映画から学んだし、人が本当に豊かに幸せに生きていくためにどうしたらいいのかということをジョン・レノンやボブ・ディランの歌から学んだ。本来、音楽や映画はそういうところに位置付けられるものだったはずなんですけど、今の時代は逆転しちゃった感がありますよね。かつては素晴らしい監督がいて、その才能に共感して人が集まり、お金を出す人もいた。そうやって出来た映画は娯楽性も芸術性もあるものが多かったし、海外の映画祭にもどんどん出品できたと思う。でも今は、まず資本があって、そこに名の売れた監督さんや役者さんを揃えるという考えからスタートしているように思える。そうやって出来たものはあまり海外に持っていける作品ではないけれど、彼らとしては内需だけで、日本の国内だけで売れればいいという発想、価値観なんだと思うんですね」
――なるほど。
「人が落ち込んでいるときに一番力をくれる、元気にするはずだった音楽、映画といった娯楽までもが、そういうコマーシャリズム一辺倒になっちゃってるように思うんですね。昔は映画界というものがあって、職人さんや匠と呼ばれる人がいた。音楽界にも、売れるだけじゃなくて良質のものを作っていこうという気骨のある方もいらっしゃった。でも今は全てがルーティンになっているような気がして、個人のクリエイティビティが出しにくくなっているように見えるんです。モノ作りの現場がそうだから、普段の仕事でストレスやプレッシャーや喪失感を抱えている人に響くものが作れなくなってきているように思うんです。僕は10代の頃、当時ビルの窓拭きやデパートの配送のアルバイトで走り回っているとき、ものすごく音楽に助けられた。音楽や映画は、そこにあるべきだと思う」
――はい。
「だから、僕は子供の頃に聴いていた洋楽の質感を知る1人として、日本語で歌おうが、“やっぱりこれがロックだよね”と感じるもの、なるべく“本質”を追っていきたいんです。俳優としてもそこにいたいんですよね。振り返れば、最初にやらせていただいた『ア・ホーマンス』の現場で、優作さんから何十回もNGを食らったんですよ。その内にプロデューサーが来て、“凌ちゃん、優作が何を言おうとしてるか、今に分かるからここを耐えなさい”と言われて。その日は中華料理店でジュラルミンのケースを持ってガラスに向かって歩く演技でした。僕が歩く。ダメ。もう一回歩く。またダメ。それを何十回もやって、とうとう優作さんに“どこがいけないんでしょうか”と聞いたら、“その歩き方はお前が28年間生きてきたバンドマンとしての歩き方でしょう。気付いてないかもしれないけど、右足の膝が外に出てるし、右肩が落ちてる”と。ここで必要なのは、山崎道夫というヤクザの若頭が誰に対して何を持っていく8歩なのかを知りなさいと。ここに来るまでに山崎は電車で来たのか、バスで来たのか、歩いて来たのか。ここに来る前に何か食べてきたのか、外は晴れているのか、雨が降っているのか。それを全部自分の中で想像して、山崎道夫で8歩を歩きなさい、と言われました。映画の表現は、スクリーンに映った瞬間に、ヤクザだったらヤクザ、刑事だったら刑事、お医者さんだったらお医者さんに見えなきゃいけないんだと。でも、ほとんどの俳優がお医者さんだったらお医者さん、ヤクザだったらヤクザ“らしく”歩いたりする。それがよくないんだと。だから“映画の表現では、引き算を覚えなさい”と言われたし、絶対にごまかすなと教えられましたね」
いい時代の良質の音楽をもう一回自分の中に取り込んで噛み砕いて
今の時代に見合うものを生み出したい
それがネオ・レトロ・ミュージックで、これを自分のジャンルにしようと
――先ほど音楽でも演技でも“本質を追っていきたい”と言われましたが、それは昨年『Neo Retro Music』で打ち出された、これまでご自身が体験されてきたものを今の時代感覚とマッチさせるということにつながりますか?
「そうですね。僕は5人兄弟の末っ子なんですが、兄弟全員の音楽の趣味が違ったんですね。一番上の兄貴がブラザース・フォアとかPPMが好きでギターを弾いて歌っていた。2番目の兄貴はドラムでベンチャーズのコピーバンドをやり、3番目は黒人音楽が好きでブルースやソウル、R&Bを聴いてました。すぐ上の兄貴はビートルズやCCR、ストーンズのコピーバンドでボーカルをやっていた。経済的に厳しい家だったけど、いろんなジャンルのレコードにギターもあったので、僕も小学校ぐらいの頃から見よう見まねで歌ったりしていて。そういう環境で育ったこともあって、僕の中に“ジャンル”はあまりなかったんですね。70年代末期にパンクが入ってきたこともあって、バンドではその影響もあってタテ乗りのビート系をやっていましたが、個人的には今回のライブ盤でも歌っているようなブルースやソウルが大好きで。ただ、それを懐かしむとか郷愁で終わるんじゃなくて、“ネオ・レトロ”と謳っているように、いい時代の良質の音楽をもう一回自分の中に取り込んで噛み砕いて、今の時代に見合うものを生み出したい。それがネオ・レトロ・ミュージックで、これを自分のジャンルにしようと思っているんです」
――あと、このライブ盤の音の良さにも、とても贅沢な気持ちになりました。
「メンバーには、レコーディングでもライブでも、“深くて豊かな音を”とお願いしたんです。今はパソコンで音楽を聴くような時代でしょ? デジタルの音は上下がカットされて真ん中しかないんですよね。僕はアナログ盤の音が好きだし、音も立体的だしいいなと思うんですね。映画も同じで、今はカメラもデジタルで仕上がりもすごくキレイなんだけど、体感する温度はとても低くて冷たい。フィルムの方が絶対にあたたかいし、コンピューターやCGも進化しているけど、僕はそれが本当に進化なのかなと疑問に思う。若い人たちは当然、原体験として古き良きものを知らないから、実はこんなにも深い音があるんだよと伝えたくて。“豊かさ”に関しても、アメリカの映画現場に行ったとき、スタッフはお互いをリスペクトしている様が見えるし、自分の仕事にプライドを持っている。例えば、衣装の女性スタッフが両手に山のような衣装を抱えて運んでいる。そこへ“手伝いましょうか?”なんて言おうもんなら、“これは私の仕事だから”って怒られちゃう。俳優同士も同じで、撮影の休憩時間に競馬新聞を読んだりゲームをやるような人は1人もいなかった。みんな自分の出番まで集中しているし、時間があれば俳優同士で自主トレしている人もいる。俳優も監督もカメラマンも、照明、録音、全ての人がユニオンに守られていて、一日の労働時間には上限があって、撮影中の食事はちゃんとあたたかいものが食べられる。それも全部契約書に書かれているし、作品がDVDになったりペイTVで放送されたら、ちゃんとロイヤリティも入ってくるんです。物理的、経済的な支えがあって、なおかつ映画に懸ける愛情がハンパじゃないんですよ。それを思ったとき、全部がそうとは言いませんが精神論だけで作ろうとしている日本映画は敵わないなと思ったんですよね。2年ぐらい前に新聞で見た記事によると、国が映画に算出する予算をフランスと韓国と日本で比較してみると、韓国とフランスは日本よりゼロが3つも4つも多いんですって」
――そんなに違うんですか!
「昔の韓国映画は、日本から約20年遅れていると言われていました。ですが、早くからカメラマンや監督をアメリカに送り込んでいたし、’96年には釜山国際映画祭も創設されました。僕がアメリカに行ったのは90年代初期でしたが、当時の現場で“何でお前たち日本人はアメリカに来ないの?”とよく言われました。それは上から目線で言っているのではなく、カメラマンも監督も俳優も、中国や香港、台湾など他のアジアの国からはたくさん来ているよと。今のような状況が続くと、日本はどんどん孤立しちゃうように感じることがあるんです。“クールジャパン”と言われるようなアニメやアイドルの文化はあるかもしれないけど、大人の成熟したものがなかなか出づらくなっているように思う。それと、最初にお話した『喝!』は’79年に出した曲なんですが、その頃は戦後に日本が復興して高度経済成長期を迎え、豊かになっていった時代なんですね。ですが、新聞を見れば年間1万人前後の自殺者が出ていた。それが今では3万人です。日本は経済大国と言われていますが、年間3万人もの人が自ら命を絶つ国が、本当に豊かな国なのか。日本を訪れた海外の人は、日本人はすごく優しくて街もキレイだと言いますが、現実はどうなのか。それだけの喪失感が、いろんな場面場面にあると僕は思うんですね」
――凌さんはご自身の歌やお芝居を通じて、音楽や映画が本来位置付けられるべきところまで力を取り戻す、そのための挑戦をしていると言えるでしょうか?
「ずっと“挑戦”ですね。映画も音楽も元々は欧米から入ってきた借り物の文化ですよね。だけど、オリジナルとして日本語で返したいじゃないですか? モンキービジネスと言われるのは癪だし、その本質を追って日本語でオリジナルを出していきたい。本物になりたいんですよ。もしかしたら自分が生きている間には出来ないかもしれない。でも、そこを目指したいんですよね。僕はこれからも本質に嘘はつきたくないし、ごまかしてまで売れたいとは思わない。それがいつか分かってもらえたらいいかなと思う。今はそれに対して焦りもないし、逆に今は自分自身が純粋に楽しみたいという感じですね」
僕はこれから先もライブだけは死守したいし
ライブをやっているときの会場の空気やその時間は
そこにいる人たちだけが体感できる唯一無二のもの
――今年の7月には60歳を迎えられます。歌も演技も目指すものに向かっていく生き方は変わりませんか?
「そうですね、気付いたら60歳です(笑)。僕は“表現者”という言い方をよくするんですが、歌うことやお芝居をすることだけが表現なのではなくて、生きている様全部が表現なんですよね。だから、石橋凌という人間がどう生きているか、そこまで人は見ていると思うし、そこを自分で曲げたくないしブレたくない。ブレるならとっくにブレてると思うんですね。自分が思う本質を狙うやり方はこの国では難しいことも分かっているし、そこに目くじら立てるよりも、より共感してくださる方を募っていけたらと思う。それに日本でダメだったら海外に出て行ってもいいと思っているんです。海外の映画のオーディションがあれば、いつでも行く準備をしています。音楽でも“ステージをやってください”と言われたらいつでも行きますし、実際にアジアではいくつかお話もいただいていて。まずはアジア、そして欧米にもどんどん行きたいと思ってるんです」
――まだまだ夢が膨らんでいるんですね。お話を聞いていると、自分もまだ夢を持って生きていいんだと思えます。
「もちろんですよ。日本って50代60代に差しかかると、何となく諦めの境地に向かいがちですよね。会社を辞める“定年”と諦めの“諦念”が一緒になってしまうような、自分を飲み込んで晩年を過ごすイメージがあるんですけど、それはよくないと思うんですよね。例えば海外って、若い頃は地味なモノクロの服を着ていたけど、歳を取ると明るい色の服を着る人が多かったり、第2、第3の人生で、自分が本当にやりたいことをいよいよやっていくという発想を持っていたりする。そういう生き方がいいんじゃないかなと思います」
――2月9日(火)心斎橋BIGCATでのライブが近付いてきました。池畑潤二さん(ds)や渡辺圭一さん(b)、藤井一彦(g)さん、伊東ミキオ(key)さん、梅津和時(sax)さんと、バンドのメンバーも凌さんと同じように日本のロックを築いてこられた方たちですね。
「今回のツアーもライブ盤と同じように、開演後ステージに1人1人メンバーが増えて、1つ1つ楽器が増えていくやり方にしようと思っています。人が1人増えれば音楽はこれだけ広がるんだとか、1つ楽器が増えるだけでこんなに楽しいんだよという音楽の幅、音のレンジの広がり方も体験してもらいたいんですね。曲は前回のツアーとはまた違う曲をやってみたいですね。僕は昔からワークソングもたくさん歌っていて、僕らのライブには仕事を終えて作業着のままでダンプカーとかで乗り付ける方もいたんですよ。もちろんビジネスマンの方もいるし、今は子供連れで来てくださる方も多いです。ライブでは今抱えているストレスとか溜まっているものを吐き出してもらおうと、皆さんに歌ってもらうんです。僕もそうなんですけど、歌えば、声を出せば、スッキリするんです。それでリセット出来て、また明日から頑張ろうという気持ちになれたら、僕が歌っている意味があるんですよね。僕はそれだけで十分幸せです」
――最後に改めて、記事をご覧になっている方々にメッセージをお願いします。
「今は“CDが売れない”という声をよく聞きますが、僕はこれから先もライブだけは死守したいし、ライブをやっているときの会場の空気やその時間は、そこにいる人たちだけが体感できる唯一無二のものですよね。同じメニューでも名古屋と大阪は違う結果になるかもしれないし、それがおもしろい。自分も楽しみたいし、お客さんにも楽しんでもらいたい。ストレスを吐き出す場でもいいし、ライブはステージの俺たちだけじゃなく、そこにいる人みんなで作るものなので、ぜひ素晴らしいものにしましょう。待っています!」
Text by 梶原有紀子
(2016年2月 5日更新)
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