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ホーム > インタビュー&レポート > 「俺たちはまだまだ挑戦出来るだろ? あの続きがここから始まる」 完全復活を遂げた森友嵐士の第2章『PEACE ROCK』! 声を失った15年間、T-BOLANの解散と現在、90年代を宿した新作 門外不出の秘話満載インタビュー&動画コメント


「俺たちはまだまだ挑戦出来るだろ? あの続きがここから始まる」
完全復活を遂げた森友嵐士の第2章『PEACE ROCK』!
声を失った15年間、T-BOLANの解散と現在、90年代を宿した新作
門外不出の秘話満載インタビュー&動画コメント

 15年もの間、満足に声が出ない日々を想像してみて欲しい。それが歌い手であったとき、その困難は音楽家としての息の根を止めるに十分な致死量でその身に降りかかったことだろう。『離したくはない』『じれったい愛』『Bye For Now』『すれ違いの純情』『マリア』etc…総売上枚数1700万枚という数え切れないヒット曲を世に生み出し、“90年代”を象徴するバンドとして一時代を築いたT-BOLANの森友嵐士(vo)は、’94年に原因不明の発声障害のため、突如歌えない状態に陥った。バンドの解散の引き金ともなったその苦境を、気の遠くなるような努力で乗り越えた稀代のボーカリストは、2枚のシングルとバラードアルバムをリリース後、’12~’14年には再びT-BOLANとしても活動。今年はあのゴールデンボンバー鬼龍院翔とのユニットmorioniも話題を呼んだ彼が、遂にT-BOLANのラストアルバム『LOOZ』(‘93)以来22年ぶりとなる、全曲書き下ろしのオリジナルアルバム『PEACE ROCK』を完成させた。アルバムに収録された『ファイティングマン』で、彼はこう呼びかける。“ファイティングマン/君はまだ闘える/ファイティングマン/君はまだ折れていない/仕舞い込んだ武器を引っ張り出せ/君はまだ敗者にもなってない/STILL STILL STILL ファイティングマン”。声を失い富士山麓に身を置いた15年間の内情、T-BOLAN解散と現在、そして、90年代=自分と向き合いアップデートした充実の新作について、門外不出の当時の裏話を含めて全てを語ってくれたインタビュー。我々が知る由もなかったあの頃と現在をつなぐストーリーは、不屈のロックボーカリストの時が確かに動き始めたことを物語っている――。

 
 
T-BOLANという自分が作り上げた過去の作品に対して
歌えない自分が悔しいわけだよね。過去の自分の歌に戻りたいと思ってたし
そこにたどり着けない自分をずっと責めてた
 
 
――『PEACE ROCK』のリリースに際し、“完全復活”と銘打たれていますね。
 
「本当は前作『オレのバラッド』(‘11)のタイミングでオリジナル・フルアルバムを作る予定でいたんだけど、製作していく中でアップテンポなものだったり、自分のヤンチャな部分が出てこなかったんだよね。声が出るようになって何とか立ち上がって…まだギリギリで立ってる感じ。でも、それでもスタートを切りたかった俺の気持ちがあって。その“繊細な森友”というところでのアルバムが前作で、だからこそ“バラッド”という括りの中で完結してしまった。あれから4年経って、そのときの自分もよく見えるし、震災もあっていろんなことにぶつかったり、考えさせられる部分もたくさんあって。やっとある程度の自分の気持ちが揃ったところで、制作に入ることが出来た作品ですね」
 
――そういった意味では、森友さんのキャリアが本当に新しく始まるような内容で。まぁ今日も、森友さんの取材があるとなったらね、やっぱり色めき立つわけですよ、周りの同世代は(笑)。
 
「アハハハハ!(笑) 22年ぶりの全曲書き下ろしのフルアルバムですから、本当に“再始動”ですよね。T-BOLANではないですけど、あの続きがここから始まると。前作を出した頃は俺の精神状態もすごく繊細で、やっぱり感謝に溢れてたんだよね。声が出なかったところからまた歌えるようになって、もう1回ステージに立てる場面をもらえたのは、すごい嬉しいことだったから。あと、この4~5年の間にいろんな音と出会って、仲間たちとまた音を出し合えたこともすごく大事だった。その中で1つ大きかったのが、T-BOLANの復活なんですよ。解散するときに出来なかったライブを、東京の渋谷公会堂と大阪のオリックス劇場(旧厚生年金会館)と、思い入れのある場所でやることが出来た。そこで精神的な部分でも、T-BOLANというバンドにそれぞれのメンバーが区切りをつけることが出来た。本当の意味で、それぞれが新しいスタートが切れたタイミングなのかなぁと」
 
――まぁバンドが解散したり活動休止したりするのって、“音楽性の違い”みたいなことが多いわけじゃないですか。
 
「でも、実は音楽性の違いってあんまりないのよ。だいたい仲が悪くなっちゃうの(笑)」
 
――アハハハハ!(笑) ただ、T-BOLANは本当に突発的に起きた原因不明の発声障害の影響で、バンドとしては全然辞めるつもりがなかったわけですよね。
 
「ないね。別にメンバー同士も仲良かったし(笑)」
 
――前作の制作時も、森友さんがまずT-BOLANのメンバーに声を掛けたというエピソードが、何だか“バンドマンだな”って思えて嬉しかったというか。いちボーカリストとしても、全くもってやっていけるのに。
 
「バンドしかやってこなかったんだよね(笑)。シンガー=バンドのフロントマンという感覚しか自分にはなかったし、ましてやT-BOLANが止まった一番大きな原因が俺で、その声が戻ったわけだから。但し、その時点ですでに解散から12年の時が流れてたから、“はいそうですか”っていうわけにはいかなかったんだよね。それぞれの気持ちはさておき、現実がやっぱり大きかった。物理的にすぐにみんなでは一緒に出来なくて、それでソロという道を選んで」
 
――それこそ15年も声が出ないなんて、絶望しかないわけじゃないですか。15年って、人に物事を諦めさせるには十分な時間で。
 
「鋭いところにくるねぇ。やっぱね、“10”っていう数字だよ。そもそも相当な数のドクターに診てもらって、もう “この先生でダメだったら日本に治せる人はいない”っていうところまできて、最後の最後に伺ったある大きな病院の先生に、“心因性発声障害”っていう病名を突きつけられて…。一番突き刺さったのが、“明日治るかもしれない。けど、10年後に治ってない可能性も十分ある。この病気は現時点で治療の方法がこれといってないんです”っていうことで。“10年!?  そんなバカなことがあるか! それだけの時間を掛けても治らない可能性があるなんて言うわけ?” って…もう意味が分からなかった。そこからは、自分で何か治療法を見付けるしかないっていろいろ始めるんだけど、まぁ進まない。正直、10年経ったとき、多分一歩も前に進んではいなかった。声が出ないのは精神的な部分が本当に大きいから、今その頃の写真を見ると、まぁ狂気の顔をしてるよ(苦笑)。かと言って、諦めるつもりにもならなかったけど、俺が治療のためにやっているこの作業は、本当にこのままでいいのかと流石に思ったよ」
 
――本当によく諦めなかったですね。
 
「そこで運命の悪戯があるわけよ。その頃に2人目の子供が産まれて、その子が男の子だったんだよ。そのとき、“ちょっと待てよ、こいつは俺の背中を見ていくわけだ”って思ったんだよ。俺も親父の背中を見てきたし、その背中を思い出しながら、“俺の背中は大丈夫か?”って。一番引っ掛かったのが、当時は社会と共存してなかったこと。自分と向き合ってばかりいて、社会に貢献してなかったこと。それじゃダメだと思ったんだよね。そこで富士の山の中にずっといたのに、山から降りて、仙人の髭も剃り(笑)、東京に行き始めたわけよ。そこからまた人に会うから何かが動き始めて、動き始めると考え方も変わる。それまではT-BOLANという自分が作り上げた過去の作品に対して、歌えない自分が悔しいわけだよね。過去の自分の歌に戻りたいと思ってたし、そこにたどり着けない自分をずっと責めてた。進んだ距離じゃなくて、足りない距離ばかりを見てるんだよ。でも、息子が産まれて行動が変わった瞬間に、考え方も変わって“ここを0にしよう”と思った。過去のT-BOLANの森友嵐士を捨てようって。だから、新しく向き合う歌も今までに歌ったことがない、レコーディングしたことがない歌がいい。そこで選んだのが、『上を向いて歩こう』('63)で。だから、うちの家族は、『上を向いて歩こう』を聴くとイタいんだよね。ちゃんと歌えない俺の苦しい姿と、ずっとリンクしてるから」
 
――そうやって毎日同じ曲を歌っていく中で、徐々に声が出るようになってきた?
 
「もう本当に一歩進んで二歩下がって、二歩進んで一歩下がってみたいな繰り返しなんだけど、今までに全くなかった、“あ、今日はちょっといいかも”っていう感覚が出始めて、これは方向として間違ってないなって。その頃から、成果が見えたものに関してポジティブ/ネガティブの区分がしやすくなってきて、進化のスピードがドンドン速くなった感じがする。そこからが全部の始まりだよね」
 
 
声って分からない。本当に分からない
 
 
――そう考えたら、森友さんは医者がさじを投げた病気を治したわけですよね。
 
「本当に不思議な話があって、声が出なくなってまだ間もない頃、まぁリリースは決まってるから活動は止まらないんだよね。最初の3年ぐらいは病名も分かってなかったし、“歌えないわけないだろ森友? 調子が悪いだけだろ?” って、みんなそう思いたかったんだよ。実はね、これは本当にどこでも話してないことなんだけど、『愛のために 愛の中で』(‘95)っていうシングルは、実は仮歌なんだよ。その後1年間レコーディング続けたけど、歌えなかったの」
 
――えぇ~! そうだったんですね…。
 
「週に4~5日はボーカル録りに入ったけど、歌えなかったんだよ。1年経った頃にプロデューサーから、“もう仮歌でいこう、ここまで頑張ったんだから。いい歌だし、メッセージとして出そう”って言われて…。結局、いろいろと試行錯誤していく中で何に頼ったかと言ったら、仲間たちのコーラスで。だから『愛のために 愛の中で』は、コーラスがすっごい厚いの(笑)。それにはそういう理由があったんだよね。でも、リリースはまだ止まらない。次のシングルの『Be Myself/Heart of Gold 1996』(‘96)も曲は出来てて、ちょうど歌が歌えなくなった頃に、BARで知り合った人に連れて行ってもらって、小ちゃい頃好きだった魚釣りを始めたわけよ。そしたらビギナーズラックで、45cmのイワナを釣っちゃったの(笑)。何かもう、めっちゃくちゃ嬉しくてね。その喜びのまま、次の日にレコーディングスタジオに入ってみたら…声が出たんだよね」
 
――マジですか!(笑)
 
「嘘みたいな本当の話で、これは治った!と思った。そのときの歌が『Be Myself/Heart of Gold 1996』の本チャンなんだけど、また次の日には声は元に戻ってて、本当に1DAYだけ。そういうミラクルもあるんだよ。声って分からない。本当に分からない」
 
――何でそもそも声が出なくなってしまったんでしょうね…当時はもう凄まじいスケジュールだったでしょうし、プレッシャーもあったでしょうし。
 
「あとは自分の生き方、性格もあるよね。どんどんストイックに自分を追い詰めてたし、ちょっと壊れていく自分が、鏡に映る自分がどこか尖ってて、それがカッコいいと思ってたんだよね。でも、そのバランスでギリギリ立ててるときはいいんだけど、どこかで心がポキッと折れちゃったんだよね、やっぱり」
 
――多くのロックスターが27歳で亡くなるのって、そういう部分もあるかもしれない。20代特有の美学というか。
 
「あの年齢だからそれが美学として成立して、全部がぶっ壊れて失ったとしても、後悔はないぐらいの錯覚を持てる、みたいなところはあったよね。今は思わないもん(笑)」
 
 
時代の流れに自分を合わせるんじゃなくて、自分が歩いた分だけ進めばいい
 
 
――そして、今回のアルバムのコンセプトは、“原点を目指す”という。
 
「そうですね。バック・トゥー・ザ・ベーシック。時間があまりにも流れてるので、シーンから聴こえてくる音も、見え方も全然違う。歌詞の世界だって、今はすごくパーソナルなものに寄ってきて、音楽が個人から発生するメッセージに良くも悪くも変わっていってるし。じゃあ、これだけ時間がぽっかりと空いてる俺は、ここからどう始めるんだ?って。影響を受けてみたかったし、今の時代とのマッチングにも挑戦してみたかった。新しいクリエイターたちといろいろトライもしたんだよ。でも、出来上がった音を自分たちなりに聴き比べて思ったことは、似合わないことはやるもんじゃないなって(笑)」
 
――アハハハハ!(笑)
 
「90年代のあの頃でさえ、他の音楽と比べてどうこうというよりは、自分の感覚でアレンジャーやメンバーと音を作ってたわけで。今の自分だったら、その感覚をもう一度信じてやれると思ったし、今の俺がピンとくるものに焦点を合わせて、そこを軸にして作り上げたらいいんじゃないかって。T-BOLANの最後のアルバム『LOOZ』(‘93)から22年、時代の流れに自分を合わせるんじゃなくて、自分が歩いた分だけ進めばいい。進化ってそういうことで、周りに引っ張られてなるもんじゃない。そういう意味でも、そこを思いっ切り信じて作り上げてみようと思って作ったのが、今回のアルバムで」
 
――いやぁ~今の言葉にはすごい勇気付けられますね。やっぱり周りを見渡しての焦りとか、なかなか変われない自分だったりって、何の仕事をしていても感じることでしょうし。メッセージしかり、本当にこのアルバムで鳴っているのは、“これぞ森友嵐士!”っていう音ですもんね。
 
「だから、22年ぶりの新譜なんだけど、懐かしい感じがしちゃってさ(笑)。90年代の音楽を作っていた森友嵐士ってヤツがちゃんとそこにいて、だけど22年経ったのも感じる。これが今の俺だよって。すごくナチュラルだと思うんだよね。ここからどこへ行くかはこれから先の話であって、その先を今見ても仕方ないというか。軸をもう1回取り戻さないと、歩き始められないから」
 
――1曲目の『どうなってんだいJESUS』のイントロが終わって、最初に歌声が聴こえてきたときは、“キター!”ってなりましたよ(笑)。
 



「アハハハハ!(笑) もうそれ、思う壺!(笑) そう言って欲しいところなんだよ。そこにもう1回立ち返らないと。俺が俺に帰る、俺が俺を始める感じ」
 
――ただ、一方で『真夜中の太陽』(M-2)みたいな新鮮なテイストもあって。
 
「この曲はみんなが新しいって言ってくれるんだけど、サビにガチッとしたキーワードがあって、すごくメロディアスで、俺にとってメロディや歌詞は、あの当時のいわゆる“カメリアダイヤモンドのCM”の体裁なんだよね(笑)。ガットギターとアコギをソースにしたスパニッシュ系な感じが、最初にイメージが浮かんで。実はそれが今着てる洋服にもつながったりするんだけど」
 
――自分の音楽性とライフスタイルもリンクして。
 
「休んでる間にホアキン・コルテスをある雑誌で見てなぜか惹かれて…それこそ『ぴあ』じゃなかったかな?(笑) 何をやる人かも分からずに、すぐにライブのチケットを買って(東京)国際フォーラムに観に行ったわけよ。そしたらスペインのフラメンコ・ダンサーだった(笑)。今度は大阪に行ったときにイギリスの前衛画家のフレッチャー・シブソープの個展を観に行って、“うわ、カッコいいなこのモノクロのデッサン! でも何か観たことあるぞ”って思ったら、そのモチーフがホアキンで。その絵は今、俺の家のリビングにあるんだけどさ(笑)」
 
――そうなんですね!
 
「そうやって少しずつスパニッシュの世界につながって、自分でも気付かない内に『真夜中の太陽』のデモにその要素が入ってきてたの。自分のメロディと歌詞の中に、知らず知らずに入った新しい味覚が、“あの味!”みたいな感じでブワッと浮かんでくるんだよ」
 
――ちなみに、『いつまでも変わらない愛をずっと』(M-4)の女性コーラスは…。
 
「これは宇徳敬子ちゃん」
 
――やっぱり! ですよね。
 
「正味狙って作ったの、この曲は完全に90年代リスペクトだから(笑)。T-BOLANの『刹那さを消せやしない』('93)っていうシングルで宇徳にコーラスを頼んで、あの甘酸っぱい感じが、くすぐったいんだけど心地よかったのね。この曲の歌入れまでしたときに、聴こえてきちゃったんだよ、あの宇徳のコーラスが。そこで速攻電話して、すぐにスタジオを押さえて」
 
――もうドンズバですよね。森友さんもそうですけど、宇徳さんも声で時代=90年代を思い出せる人というか。
 
「声っていうものはやっぱりすごく大きいんだよね。この声で自分というパーソナリティを表現して生きてきたから、やっぱり絶対に取り戻したかった」
 
――でも、それを失わせるのは神様もすごい試練を与えるなと思うし、ちゃんと取り返させたのもドラマだし、何なんでしょうね?
 
「それもきっとこれから分かると思うんだよね。これで何もなかったら怒るよ?(笑) でも、1つ不思議なことに、声が出なかったことでつながった縁で俺、比叡山とすごく親しいの」
 
――HPの『PEACE ROCK』の特設ページに、錚々たるコメント欄があるじゃないですか。ミュージシャンはもちろん女優もいる中に、なぜかお坊さんがいる、みたいな(笑)。
 
「俺は今、この1200年で初の比叡山の親善大使なんだよ(笑)。『天台宗祖師先徳鑽仰大法会』っていう大きな法要があって、そのイメージソングを天台宗総長から直々に依頼されたことがきっかけで。俺が声が出ない間に、富士の山の中で声を取り戻すために自然からいっぱい力をもらったことが、伝教大師の教えとつながってるんだって。今はそのお坊さんたちと1年に1回、『祈りの集い』っていうのを(総本堂)根本中堂でやってる。俺はいったい何になっていくんだろう?って(笑)。声が出なくなったことで出会った縁が育って、それがまた未来とつながって、自分でも想像出来ないような展開があるんだろうなぁって。それはもう素直に受け入れて、進もうと思ってる」
 
 
“しなければならない”ことじゃなくて
好きなことをもう1回、目の前に引っ張り出そうぜ
その閉じたドアを、もう1回開けようぜって
 
 
――あと、これは世代的なものかもしれないですけど、『ファイティングマン』(M-5)にはまぁ揺さぶられます。
 
「刺さりました? おめでとうございます(笑)」
 
――アハハハハ!(笑) この曲は詞先なんですよね。
 
「そうなんですよ。分かりやすい例えで言えば、みんな甲子園を目指していても、優勝するのはたった1チームで。その優勝したチームの中でも、全員がプロ野球選手になるのかって言ったらそうじゃない。だからと言って、プロ野球戦手になった人が人生を思い通りに出来た人で、なれなかった人は違うのかって言ったらそうじゃない。生き方はそれぞれなんだよね。挑戦はいつでも出来るし、人生を楽しむことは自分次第で。この歳になって高校時代の仲間たちと話してて、そのことに気付かされるというか。学生の頃に仲間たちと音楽をやってたときは、音楽が好きで、音楽をやってるときが一番カッコいい自分だった。その先じゃん、プロになりたいと思ったのは。プロになれなかったらって、何でお前の音楽への想いは0になってんだ?って。でもさ、そのたった一夜の飲みの席で、人生がまた変わるんだよ。そいつを年末に飲みに誘ったら、“忙しいから無理だ”って言うわけ。“バンド始めちゃってさ。今、最高に楽しいよ”だってさ。そこが始まると、他のことも全部充実していくんだよ。変わるんだよ。だからさ、やっぱり“今日を楽しめ、今日を遊べ”で。“しなければならない”ことじゃなくて、好きなことをもう1回、目の前に引っ張り出そうぜ、その閉じたドアを、もう1回開けようぜって。変わるぜ、まだ。俺たちはまだまだ挑戦出来るだろ?って、俺が同じ世代に、俺自身に歌う応援歌であり、世代を超えて、まだ挑戦することを目の前に持ってる全てのヤツに贈る応援歌。札幌で今回のアルバムのキャンペーンをしたときにね、“森友さん、私『ファイティングマン』にやられちゃいました! 来週からロスに留学することに決めました”みたいな。女の娘にも刺さったみたい(笑)」
 
――みんなこの曲を聴いたら、ドンドン行動するようになる(笑)。歌詞のさじ加減も絶妙なんですよね。まだ始まってない、まだ終わってない。焚き付けてくれるんだけど、大袈裟じゃないというか。
 
「届く作品にしたいのよ。俺はいちシンガーでもいい。いろんな仲間とコラボする中で、もっといい作品が生まれることの方が素晴らしいわけで。今はそういう気持ちだよね。結構楽しいよ」
 
――それこそT-BOLANの五味(g)さんの曲もあれば、今をときめくゴールデンボンバーの鬼龍院翔(vo)とのユニットmorioniの曲も(笑)。T-BOLANを聴いていた世代が、ミュージシャンになってますもんね。
 
「まぁこれも不思議な縁なんだよ。鬼龍院くんとはテレビ番組の『1番ソングSHOW』でたまたま一緒になって。そのちょっと前に別の番組で、現場にピアノがあったから弾き語りを突然やっちゃったんだけど、それでどうやら“森友は生ピアノがあるとサプライズで弾き語りやってくれる”みたいな話になってて(笑)。『1番ソングSHOW』のプロデューサーに、“彼(=鬼龍院)もすごく練習してるらしいんで、一緒に歌ってくれたら番組的にもすごく嬉しい”みたいに言われて、本当にサプライズで歌うことになったのが縁で、食事するようになって。初めてその番組で一緒に歌ったときも、“声がすごく合うなぁ”って思ったよ」
 
――森友さんは引き寄せるというか、しかもちょっとアクの強い人が集まってきますね(笑)。
 
「そうだねぇ!(笑) 言われてみると。みんな濃いわぁ(笑)。まぁそれがやっぱりロックというか、それこそまさに今回のタイトルで、『PEACE ROCK』」
 
――このタイトルは、森友さんがよく使う言葉だったらしいですね。
 
「気が付いたらずーっと刻印のように、ブログだとかフェイスブックだとか、自分のメッセージの最後に“PEACE ROCK 森友嵐士”って書いてて。震災のときもバッジを作って持って行ったりね。声を失って富士に住まいを移してから、太陽の陽射しだったり、新緑の緑だったり、夏に吹く風だったり、朝の鳥の鳴き声だったり…ちょっと似合わないかもしれないけど、“陽”のエネルギーにすごい力をもらったのね。復活したときに、こういう陽なエネルギーを出せるものって何だろう?って考えて。円陣を組んで“オーッ!”っていう感じのエネルギー…T-BOLANのライブのときもそうだったからね。それを俺なりに言葉にしたら、『PEACE ROCK』だったんだよね。俺の第2章は『PEACE ROCK』から始まる。もう一度ステージに立ちたいと思ってやってきて、やっと音楽活動をスタートする全てのピースが揃った。そういう自分が戻ってきたというか、準備が出来たのかなって」
 
――いやでも、本当によく諦めなかったですね。普通は諦めますよね。もしくは、もっと気持ちが病んでいきそうな可能性もあるのに。
 
「いろんなものが助けてくれたんじゃない? 自然もそうだし、富士のその場所もさ、アコースティックミニアルバム『夏の終わりにII ~Lookin' for the eighth color of the rainbow~‎』(‘94)のPVを撮るときに行った、河口湖の撮影スタジオがあまりにも環境がよくて、もう別世界で。次の日に休みをもらってまた行って、その日に見付けたログハウスを衝動買いしたんだよ」
 
――すごい! ロックスター感ありますね(笑)。
 
「そこでいっぱい曲を作ったよ。誰にも干渉されない、誰とも連絡がつかない、作業場所が欲しかったの。マネージャーでさえ車に乗って来なければ連絡がつかない(笑)」
 
――面倒くせぇ場所ですね(笑)。
 
「だって電話がつながらないんだから(笑)。テレビもないし、ただの木の家がそこにあるだけ。けどそれが最高でさ。そこと都内を行ったり来たりしてる内に、“ここにいると俺、元気になってる”って感じたわけだ。じゃあ俺は今、何で都内にいるんだろう?って。それは焦りでしかないわけよ。都内にいないと何か置いていかれるような気がするから戻りたくなるんだけど、都内にいる俺は声を取り戻すためにプラスの時間を過ごせてない。あるとき、もう家具も何もかも全部捨てて、富士に何から何まで拠点を移して、ここで歌と向き合おうと思った。そのログハウスの近くの公園には芝生のステージがあってね、目の前に富士山がドーン!と観えるそこで、いつも自分のライブをイメージして。他にも、唯一何でも話が出来る姉さんに出会えたり…そういう意味では、すごく失ってるけど、どこかで守られてるというかさ。今のこの復活もそうじゃん。こうやってキャンペーンを廻ると、当時T-BOLANを聴いててくれてたヤツらが、実権を握って現場にいるわけ。そうすると話が早いよね?(笑) こういう風に新しいスタートを応援してもらえるわけじゃない。俺は何だかすごく心強いよ。初めましての人が初めましてじゃないんだから」
 
――もう一方的に知ってますからね(笑)。それにしても、こんな波乱の人生の中で、それでも歌い続けているのは何なんでしょう?
 
「1つだけ分かってるのは、ただ“歌いたい”んだよね。それはもう小さい頃から。やっぱり自己証明というか、歌うことで自分を実感出来てるし、ステージに立つ喜びも知ってる。俺が歌で感動して、その歌でみんながまた感動して。この感動を超えるものが、俺の人生に他にある気がしないんだよね。俺が一番感動したいから、またステージで歌いたい。ただそれだけのことだよね、うん」
 
――そう考えたら、ツアーでもその気持ちの交換が確実に起きますね。
 
「もちろんですよ! まずはもうリハーサルでメンバーと感動し合ってるから。その感動とエネルギーを持って、全国ツアーに旅立つ。そこから返ってくるエネルギーを、また俺たちが受け入れる連鎖で。そこにまたすごい感動が生まれて、何だか涙が出てくるじゃないかみたいな瞬間に出会える。それが最高なんだよね。最近よく思うのは、願うことも願われることも、逆に言えば“何でこんなことが起きるんだよ”っていうことでさえ、絶対に何か意味はあるんだなって。今はマイナスめいてるかもしれないけど、それをちゃんと大事に受け止めたら、次の一歩になるんだよ」
 
 
Text by 奥“ボウイ”昌史



(2015年8月12日更新)


Check

Movie Comment

動画コメントもしっかり森友節!
森友嵐士からの熱いメッセージ

Release

90年代をリスペクト&アップデート
22年ぶりの全曲書き下ろしアルバム!

Album
『PEACE ROCK』
発売中 2778円(税別)
CROWN STONES
CRCP-40417

<収録曲>
01. どうなってんだい JESUS
02. 真夜中の太陽
03. LOVE SONG
04. いつまでも変わらない愛をずっと
05. ファイティングマン
06. Baby Baby
07. TRUE LOVE
08. 愛にKISSした
09. ROCK & SHOUT!
10. Let Me Rule
11. RUN BABY RUN
12. サヨナラは歩き出す

Profile

もりとも・あらし…’65年生まれ広島県出身。’91年、T-BOLANのボーカリストとしてシングル『悲しみが痛いよ』でメジャーデビュー。代表曲『離したくはない』『Bye For Now』『マリア』をはじめ、15枚のシングルと10枚のアルバムをリリースし、総売上枚数1700万枚を記録。’94年、原因不明の発声障害のため歌えない状態に陥る。’99年12月、自伝エッセイ『泥だらけのエピローグ』を出版。同年12月をもってT-BOLANは解散、音楽活動を休止。’01年10月より、ラジオ日本『森友嵐士のアラシを呼ぶぜ!』のパーソナリティを務める(現在も放送中)。’09年11月、ソロとして音楽活動を再開。’10年3月、1stシングル『抱きしめていたい/キズナ』をリリース。古山薫堂プロデュースによるサプライズドキュメンタリーPV『抱きしめていたい』が、カンヌ国際映画祭ショートフイルム部門に正式出展。’11年4月、ソロ第1弾アルバム『オレのバラッド』をリリース、クラシックホールでのボーカル、ピアノ、チェロの3人編成を中心としたライブ『男たちの宴』を開催。同年9月には2ndシングル『祈り/涙の壁』をリリース。’12年、比叡山延暦寺、京都高台寺、広島厳島神社、など神社仏閣での奉納ライブをスタート。天台宗祖師先徳鑽仰大法会イメージソング奉納、比叡山親善大使に任命される。墨象家としてもデビューし、ガレリア・プロバ代官山ギャラリー、ミュゼオアートギャラリーにて個展を開催。処女作『絆』がメトロポリタンオペラ歌劇場総裁へ贈呈される。同年6月、T-BOLANを再結成し、『BEING LEGEND Live Tour 2012』16都市18公演に参加。’13年、『男たちの宴』ツアー全国6公演を行う。’14年、『T-BOLAN THE MOVIE』が劇場公開。同年4月には、渋谷公会堂にてT-BOLAN『Back to the last live!!』を行う。’15年、ゴールデンボンバー鬼龍院翔とmorioni結成。2月にシングル『サヨナラは歩き出す/離したくはない』をリリース。2人の名前を伏せ謎のユニットとして発表したにも関わらず、有線でオンエアが始まった途端にリクエストが殺到し、チャートを急上昇。9位にランクイン。そして、7月8日には、T-BOLAN『LOOZ』から22年ぶりのオリジナルフルアルバムとなる『PEACE ROCK』をリリース。8月7日の福岡を皮切りに、7大都市を廻る全国ツアーがスタート。

森友嵐士 オフィシャルサイト
https://moritomo-arashi.jp/
 

Live

ソロはもちろんT-BOLANの楽曲も!
ツアー大阪公演が間もなく開催へ

 
『MORITOMO ARASHI
 CONCERT TOUR 2015 PEACE ROCK』

【名古屋公演】
チケット発売中 Pコード259-005
▼8月13日(木)19:00
Zepp Nagoya
全席指定6900円
サンデーフォークプロモーション■052(320)9100
※4歳以上~高校生までは、当日学生証持参で3000円返金あり。4歳以上有料。3歳以下は入場不可。

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Pick Up!!

【大阪公演】

チケット発売中 Pコード259-204
▼8月14日(金)19:00
Zepp Namba(OSAKA)
全席指定6900円
GREENS■06(6882)1224
※3歳以下は入場不可。4歳以上は有料。公演当日、高校生以下の方は学生証提示で3000円返金。

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【仙台公演】
チケット発売中 Pコード259-632
※インターネットでの販売はなし。
▼8月16日(日)17:00
仙台 darwin
全席指定6900円
キョードー東北■022(217)7788
※3歳以下は入場不可、4歳以上はチケット必要。4歳から高校生は当日会場にて3000円返金。要学生証。


【札幌公演】
チケット発売中 Pコード258-977
▼8月23日(日)17:00
Zepp Sapporo
全席指定6900円
WESS■011(614)9999
※3歳以下は入場不可。4歳以上はチケット必要。高校生以下は当日会場にて3000円返金。要学生証。

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【広島公演】
チケット発売中 Pコード259-323
▼8月29日(土)18:00
BLUE LIVE 広島
全席指定6900円
夢番地広島■082(249)3571
※4歳以上はチケット必要、3歳以下は入場不可。公演当日、4歳以上~高校生の方は学生証提示で3000円返金。

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Comment!!

ぴあ関西版WEB音楽担当
奥“ボウイ”昌史からのオススメ!

「自分のライター歴も結構長くなってきて、今やアーティストもスタッフも歳下が増えてきた今日この頃、自分がこの世界に入る前から活躍しているアーティストに会うと、何だか嬉しいんですよね。それは仕事として音楽に向き合う前の、純粋な聴き手の1人だった自分を思い出せるから。森友さんなんかはまさにそれで、言わば“あのT-BOLANが目の前にいる”状態なわけです(笑)。でも、そうやった瞬間を貰えるのは、そのアーティストが音楽を続けているからなんです。森友さんはバンドの絶頂期に突如として声を失いました。その神様の悪戯がなければ、まるで違う未来としての今があったことでしょう。今回のインタビューでは、そんなあの頃から現在までの話を、まるで知らなかった波乱でしかないエピソードと共にたっぷりと話してくれました。他の誰かだったらきっと音楽を諦めてると思います。ホントすげーわ。そして、ちゃんと僕らの背中を押してくれる。いや~ロックスターだった、今でも」