ホーム > インタビュー&レポート > 「今の自分があるのは間違いなく父親のおかげ」(緒形) 『サクラサク』緒形直人&藤竜也インタビュー
――『サクラサク』は誰もが自分に当てはめて観ることができるし、その中で自身の中にある問題点と向き合える物語だと思いました。緒形さん、藤さんは本作についてどのように考えましたか。
緒形直人(以下、緒形):伝えたいこと、やりたいことがあっても、ひとりでは実現できないことは多いですよね。だけど、家族全員の思いが重なったとき、滞っていた物事が奇跡のように動き出す。そういうことはきっと起こりうる。登場人物のそんな思いのひとつひとつが丁寧に描かれていて、いろんな感情がわきあがってきました。
藤竜也(以下、藤):役者としては「しめた」と思いました。「今、自分がやりたかったのはこれなんだよ」という感覚でしたね。僕が演じた俊太郎が患う認知症は、多くの場合は僕の世代の役者が表現する問題。しかし、やるとなればとても難しそうなお話。でもその難しさが「これまた、いいな」と感じたんです。老人は刺激を求めるんですよ(笑)。僕を刺激してくれる作品で、嬉しかったです。
――僕からしたら、「藤さんほどのキャリアをして、難しいと感じることなんて、果たしてあるのか」と思ってしまいます(笑)。
藤:僕のことをえらく買ってくれていますね(笑)。でもやはり現実として、自分の周囲にも認知症の方はたくさんいます。そういう問題を実際抱えていたり、もしくはケアサービスなどの現場で働いている人たちがこの映画を観たとき、「何だ、たかが役者はあのくらいの表現しかできないんだ」と思われたくなかったんです。つまり、自分のプライドをかけました。観ている人に「藤竜也はもしかして本当に認知症ではないのか」と信じこませるくらい、しっかりやりたかった。役者の欲ですね。
――緒形さんが演じた俊介は、どんどん大切なことを忘れてしまう父親を、何とか支えようとするけど、なかなかうまくいかない。その姿がとても痛かった。
緒形:父親の粗相(そそう)を見たときや、今まで向き合っていなかった家族と久しぶりに会話をするときなど、心の動き、揺れを丁寧に演じる必要がありました。何度も何度も台本を読み返して、監督に撮っていただきました。
――認知症を発症する俊太郎、そんな父親のためにもがく俊介、そして俊介の息子・大介(矢野聖人)。それぞれが父親の気持ちをしっかりくみ取っていく。つまり「男の映画」としての印象もあります。僕自身にもどこか当てはまるし、父と息子の関係性に共感し、男が観て泣けるんじゃないかと。
藤:なるほど。女性もきっと、俊介の妻・昭子(南果歩)のことを考えるだろうし、若い世代は息子、娘(美山加恋)の目線になりそうだし。上の世代は特に、大介が俊太郎のためにやってくれることに対して、「ありがとう」という感謝の気持ちになります。
――「男の映画」という意味はもうひとつありまして、それは俊介像について語るべきものが多い部分なんです。彼は、すべての男性のどうしようもなさ、欠点を持っている。そこがチャーミングでもあるのですが。そして、女性にとっては許せないような出来事も犯している。俊介はいろんな償いの気持ちを抱えています。そんな彼に対してどのような同情を抱けるか、それがひとつのポイントではないでしょうか。
緒形:職場では部下に慕われ、仕事をきっちりこなす。ある種、しっかりした人間だけど、家のことはすべて妻にお任せ状態。しかも、それで大丈夫だと思っている。不器用ではありますよね。もちろん僕にも思い当たるところはありますが、でもそれ以上に自分の父親(緒形拳さん)がまさに俊介のような人間だったんです。だから、僕もずいぶん寂しい経験をしました。だからこそ、自分は「もっと家族に目を配ってあげよう」と思っています。僕自身は、どちらかというと大介に近いかもしれません。
藤:僕は、映画の撮影に出かけて、そのまま家に帰らずに旅に出ちゃったりしていたので、俊介の気持ちはよく理解できます。今はその修復を一生懸命やっているところです(笑)。一時はどうなることかと思いましたから。不良青年、不良中年からようやく改心して、不良老年にはなっていないはず(笑)。
――そうなんですね(笑)。でも今のおふたりのお話を聞いて、年齢を重ねることについても、考えることがいろいろできると思いました。十代よりも二十代の方が、幅広い物の見方ができるし、三十代は物腰の柔らかさや人の受け入れ方に変化が生まれる。僕自身がそうなんです。世界観が広がって、いろんな物事を柔軟に受け入れることができるようになってきた。これまでは歳を重ねることって、自分にとっては絶望に近かったんで。でもそういう自分の変化を実感して、年を重ねることへの興味を持てるようになった。『サクラサク』は、確かに歳を重ねる怖さもありますが、しかしいろんなものを受け入れる力の強さを描いていると思うんです。
緒形:確かに年齢を重ねると、人間としての器がどんどん広がってきたようには思えます。器を広げるためにたくさんの失敗や喜びを経験する。上の世代の方々を見ていると、器の大きさを確実に感じます。今できることをひとつひとつ、一生懸命やっていくと、器は大きくなっていくのではないでしょうか。「自分の命の最期の時期をを知ったとき、人はすべてを許すことができる」という文を何かで読んだことがありますが、そういう境地は確かに存在すると思います。
藤:田辺さん(筆者)は今、三十代ですか? これから四十代、五十代となっていくし、六十代はえらく遠いものと思えるでしょ? でも、当然のようにそのときがくるんです。でもね、たとえ七十代になっても“あしたのジョー”なんですよ。僕も、“あしたのジョー”です。つまり、人間は意外とネチっこさが強いということ。そういう意味では、若くても年老いても変わらない部分は、変わらない。僕は、あなたよりも歳が上だけど、何も変わらない。同じ映画の仕事をしていて、評論家、俳優という、その立場がただ違うだけ。何事も、若い頃から同じことの繰り返しみたいなもの、でも、先ほど緒形さんがおっしゃったように、器は広くなっていきます。特に、若い人のことはすぐに認めちゃう。なぜなら、かなわないと思っているからです。力では当然負ける、蹴飛ばされると簡単にひっくりかえる。そういう自分の弱さをちゃんと認めること。自分のことがいつまでも強いと思っているから、突っ張ってしまう。そうではなく、みんなの中に自分がいる、つまり“ワン・オブ・ゼム”であることを意識していれば、傲慢にはならないはずです。
――自分の弱さをちゃんと認める、というのは大切ですよね。そして、人の弱さもしっかり理解すること。力では、いつか息子は父親を超えるじゃないですか。で、はじめて父親の弱さをしってしまったとき、どう接して良いかわからなくなる。それこそ単純に、父親と腕相撲をして勝ってしまったとき。そのときの「やってしまった…」という感情。この映画も、父親の弱さに気づく瞬間が描かれています。
藤:きっとそういうときに、父のことを本当の意味で理解できると思うんです。僕は小さい頃から父がいなかったから、父親の影響を受けてこなかった。だから、父親についてわからないこともあるけど、しかし世代交代というのは必ずある。そのとき、父親の哀しみを感じることができるのではないでしょうか。人の弱さを理解できる、それが人間の良いところですよね。
緒形:僕にとっても父親はいつまでも大きな存在。『サクラサク』も、俊介にとって俊太郎はいつまでも強い存在だったはず。しかし、はじめて弱い顔を見る。息子としては父親の弱さは見たくない。もう一度、強い顔を見たい。その思いもあって、家族を連れて、父親の記憶をたどる旅に出る。僕の父親は細かいことを一切言ってこなかったのですが、そこが尊敬できるところでもありました。ここぞというときだけ、何か一言話しかけてくれて、そしてプイッと向こうに行っちゃう。僕はきっと、細かいことを言いだしたらキリがないくらいの子どもだったはず。それでも、今振り返ればそんな父親の接し方はすごく大きいものでした。だから、今の自分があるのは間違いなく父親のおかげです。
(取材・文:田辺ユウキ)
(撮影:森 好弘)
(2014年4月 7日更新)
●梅田ブルク7ほかにて上映中
出演:緒形直人/南果歩/矢野聖人/
美山加恋/藤竜也/ほか
原作:さだまさし「サクラサク」
(「解夏」幻冬舎文庫収録)
主題歌:さだまさし「残春」(ユーキャン)
監督:田中光敏
脚本:小松江里子
音楽:大谷幸
【公式サイト】
http://sakurasaku-movie.jp/
【ぴあ映画生活サイト】
http://cinema.pia.co.jp/title/163937/
『サクラサク』田中光敏監督インタビュー
https://kansai.pia.co.jp/interview/cinema/2014-03/sakurasaku-tanaka.html