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クラシック音楽祭の記録映画『バッハの肖像』が
神戸ドキュメンタリー映画祭で関西初上映!
映画人・筒井武文ロングインタビュー

 10月18日(金)より神戸映画資料館を中心に開催される《第5回 神戸ドキュメンタリー映画祭》。貴重な作品が並ぶ特集上映の中でもとりわけ注目したいのが、関西初上映となる筒井武文監督作『バッハの肖像 ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2009より』(10)だ。毎年日本で行われているクラシック音楽祭の記録映画だが、ミシェル・コルボ、鈴木雅明、勅使川原三郎という3人の世界レベルの表現者に独自の視点から焦点を当て、記録の枠を超えた音楽映画、また身体表現をめぐる映画としても見ごたえ十分な作品へと仕上げている。監督業だけでなく、批評家としても確かな文章を執筆し続けてきた映画人・筒井武文がポテンシャルを存分に発揮した本作は、最新作『孤独な惑星』(11)の姉妹作でもあるという。バッハの音楽性に照応した緻密な構成、盛り込まれた遊び心など、作品について監督に話を訊いた。

──かねてより関西での上映を待っていた作品ですので、お訊きしたいことが沢山あります。まず制作までのいきさつを教えていただけますか?
「《ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン》が毎年記録を撮っているんですよ。映像制作会社へ依頼して、音楽祭の概要を紹介するPR的な10分くらいの映像を毎年作っています。2009年は開催5周年だったのかな、もう少し長いドキュメンタリーも同時に作りたいということで、(監督が教鞭をとっている)東京藝大へ依頼が来たんです。なぜか僕の本棚に小学館版のバッハ全集15巻があると知っている人がいて(笑)。「筒井に撮らせるのがいいんじゃないか?」という話になりました。やはり“バッハだから”ということが撮る理由として一番大きかったです」
 
──作品からも伝わりましたが、監督はそもそもバッハをお好きだったんですね。記録映画を作るにあたり、最初に立てたコンセプト、見通しはどのようなものでしたか?
「2009年の《ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン》は「バッハとヨーロッパ」をテーマに3日間、複数の会場で朝から夜まで419公演を行ったんです。その中からどれを映画に収めるかを担当者と相談して、まず25から30ほどの公演をリストアップしました。そのときに作品の主軸にしようと考えたのがミシェル・コルボさん。僕が昔から好きなフォーレの「レクイエム」の名盤の指揮者で、単独公演にも行っちゃいましたね(笑)。ですので、コルボがメインになるであろうと。それから、日本を代表する指揮者として鈴木雅明さんも出演しておられる。彼はコルボとはまったく違う角度からバッハに深く切り込んでいて、このふたりをぶつけて、さらに勅使川原三郎さんの舞踏を加えれば面白いもの…面白いというよりも、バッハの音楽について何か人に伝えられるものを作れるんじゃないか? そういった漠然としたイメージからスタートしました」
 
──大きなイベントだけに、撮影規模も比例したかと思います。筒井監督はどういうポジションにおられましたか? また、すべてで何時間くらい撮影されたんでしょう?
「この作品にはキャメラマンが11人くらいいて、ひとつの班が3人から5人の組。3班編成で撮影して、僕はその中をクルクル回る感じ(笑)。撮影したのは、150時間くらいかな? 」
 
──そこから映画にするのに「2時間以内で」というような時間の制約は?
「それは特になかったです。主催者サイドは、せいぜい1時間くらいの映画になるだろうと思っていたらしいんですよ。でも僕は絶対に2時間以上は必要だという確信がありました。最初に大雑把に編集したところで5時間半くらいでしたね」
 
──完成したものより3時間半も長かったんですね。
「撮ったものを見返すだけで数ヶ月かかりましたし、5時間半版は他の演奏家たち、リハーサルの様子も沢山入っていました。とりあえずベースになる5時間半版が出来たので、そこから3時間、2時間半、2時間15分、2時間7分と切っていきました」
 
──その段階を経て、完成した作品は120分。2時間ちょうどに仕上げられたのは何か理由があってのことでしょうか?
「内容としては2時間半、もしくは2時間15分バージョンもよかったんですが、2時間を越えない方がいいだろうという判断があったのと、もうひとつは、HDカムにデータを収めるので、2時間を越えてしまうと途中で掛け替えが必要になるんですよ。それをしたくなくて、1本のロールでいきたいという思いから2時間にしました」
 
──細かなこだわりのようですが、「映画人・筒井武文」らしいですね。
「さらに言えば、2時間半くらいまでまとめられたら、あとは編集で何とかできるだろうという経験上の勘ですよね。最終的に、必要最低限なものに絞り込んで2時間にしました」
 
──その完成した2時間版は、目を見張るほど編集のキレがよく圧倒されます。相当思い切って編集されたのでは? と想像しますが?
「特にリハーサルの場面などはもうバサバサ切っています。それは辛いところでしたね。「このシーンを使うためにはどこを切るか?」、映画的な意味だけじゃなく、音楽的な意味でも変なところでは切れないので、葛藤はすごくありました」
 
──音楽がカットイン/カットアウト、つまり突然インサートされ突然途切れるシーンもありますが、流れを損っていないと感じたんです。編集で切り刻まれたリズムの小気味良さと、連なりの心地良さとが共存しています。
「曲の途中で切って、オーバーラップで繋ぐなんて絶対やりたくないし。全体で統一感を持つバッハの曲の中の一部分を抜き出すので、そこは全体を裏切らない部分でないといけないし、全体性を裏切らない繋ぎも必要になってくる。それには腐心しました」
 
──全体性というと、筒井監督がインタビュアーになるシーンがふたつあります。高揚感がダイレクトに伝わりますし、映画に溶け込んでいますね。
「ええ、自分の声は一切使うまいと最初に決めていたんですが…(笑)。公演前のインタビューはすべて切ったんですけど、公演後のものは、もうあの臨場感を活かすしかないだろうと。恥ずかしいですけれども、それも必要だろうと考えて残しています、はい(笑)」
 
──インタビューには一体感が溢れていますね。勅使川原さんと鈴木さんが共に表現者としての考えを語っておられて、それに対する筒井監督の共感も見られます。
「うん、すごく共感していましたね。あの場面では」
 
──その勅使川原さんの舞踏とタチアナ・ヴァシリエヴァさんのチェロ独奏との共演シーンは見どころのひとつ。正面から勅使川原さんを追うワンショットで殆どが構成されていますが、リハーサルも撮影されていたんでしょうか?
「はい、撮っています。映画には使っていませんが、リハーサルですごく面白かったのは、勅使川原さんがチェロ組曲第1番から6番まで全部踊って、1番のこの楽章ではこの光、という具合にすべてその場でライティングを変えて彼女に見せているんですね。光の表現をどのように解釈しているかが僕にも見えて、そのリハーサルからどう撮るかアイデアを練っていきました」
 
──勅使川原さんの動きに呼応する光も印象に残ります。試写の際に取ったメモにも、「光」と書き込んでいました。
「『バッハの肖像』は『孤独な惑星』の翌年に撮影しましたが、そこでのフィクションの方法論が、ドキュメンタリーとして再現されていくという驚きがありました」
 
──以前、筒井監督に「『孤独な惑星』と『バッハの肖像』は姉妹作です」と伺ったので、観ながら共通項を探していました。是非詳しくきかせて下さい。
「『孤独な惑星』は、或る境界線があって、それを踏み越えるか踏み越えないかという物語でしたよね?」
 
──女性がいるマンションの部屋と、男性がいるベランダを遮るガラスが境界になっていましたね。
「ええ。それと同じようにダンスシーンの最初の方、チェロ組曲第2番だと周りは暗く、丸いスポットライトだけが当てられて、その中で影が動く。要は、勅使川原さんは光の中でしか動かず、チェリストの女性を囲む光とは分断されている。完全に“距離”を取った上での動きです」
 
──勅使川原さんだけ映っている間は、チェリストの存在は音でしか感じられない。それが追って変化しますよね。
「6番になると、光が柔らかく拡がっていくんですよ。すると勅使川原さんは、彼女を抱きしめんばかりにギリギリまで近づいていく。緊張感のある接近をするわけですね。だから、その接近まではチェリストをフレームに入れずに、勅使川原さんの動きの中でチェリストが出現するようにしているんです。勅使川原さんが、光による“境界線の表現”をなさっていたということですよね」
 
──境界線が『孤独な惑星』との共通点になっているということですね。大好きで何度も観ているんですが、そこには気づきませんでした。…今、少なからぬショックを受けています(笑)。
「他にも色々とあるんですけどね(笑)」
 
──不覚でした(笑)。僕が思ったのは、『孤独な惑星』はマンションの隣り合わせの部屋を舞台にした“シンメトリーの映画”。『バッハの肖像』は構成にシンメトリーを感じますし、鈴木雅明さんのインタビューシーンにも「小さなシンメトリー」という言葉があります。幾つものシンメトリーが織り込まれていると感じたのですが、その点はいかがでしょう?
「そうですね。やはりこれはバッハの映画だから構成もバッハ的にしたいという考えがありました。だから大きなシンメトリーと小さなシンメトリーを組み合わせて構成しています。というのは、コルボ、鈴木さん、そして真ん中に勅使川原さんのパートがあり、また鈴木さんからコルボで終わるという折り返しのある展開ですよね。折り返しに勅使川原さんがいる。そこで2曲使っていて、この映画の中心は、組曲2番から6番に移るときに挟まれる空の(=誰も居ない舞台上の)椅子なんですね。あのショットが本作の折り返し地点というイメージです」
 
──左斜めから撮られたチェリストの座っていた椅子ですね。あのショットは時間にすればごくわずかですが、インパクトがあります。
「あれを折り返し地点にして、その前後をシンメトリーにしています。あと細かいシンメトリーはヨハネ受難曲ですね。この曲も構成にシンメトリーの原則が使われていて、その中心が第22曲のコラールなんですよ。その前後に同じ曲がシンメトリーに並んでいるから、これは使いたかったですね」
 
──その配置を映画にも活かしておられたんですね。
「はい。構成に関してもう少しお話すると、コルボさんも鈴木さんもインタビュー、リハーサル、本番があります。ですが、コルボさんと鈴木さんでは並べ方が違うんです。コルボさんはリハーサル、本番、そのあとにインタビューという順。なぜそうしたかというと、リハーサルでコルボさんの音楽作り、彼が求めているものを見せて本番へ。そして最後にこの音楽を作ったのはどういう人なんだろう? と、経歴やバッハとの関わりを見せている。最初のコルボさんのパートでは“彼を通したバッハ”、コルボさん自身が中心になるように、インタビューは最後に持って来ています」
 
──なるほど。鈴木さんのパートもリハーサルで始まりますよね?
「その点は同じです。リハーサルでは特に弟のチェリスト、鈴木秀美さんとの掛け合いなどユーモラスな関係、そういうものを映していますが、次に本番ではなくインタビューになるんですね。これは彼がバッハの音楽をどう捉えているか、リハーサルで行ったことを今度は言葉で語ってもらう。鈴木さんによってバッハの音楽が読み解かれるわけです。その読み解かれた音楽を、最後に鈴木さんが指揮して作り上げてゆく。鈴木さんの場合は、ご本人ではなく、彼の解釈による新しいバッハ像を結論に据えています。コルボさんとの色分けのためにリハーサル、本番、インタビューの並びを変えているんです」
 
──しまった。…その意図に思いが至りませんでした。
「(笑)。それから今回は声楽曲が中心です。そこで「裏テーマにできる」と思ったのがキリストの生涯。バッハの曲を撮ることによって、キリストの生涯も描ける。これが本作の隠しテーマというか、むしろ大きなテーマと言ってもいいかもしれません。「ヨハネ受難曲」第22曲って、とても美しいけど怖い曲で、「キリストが捕まって閉じ込められた。そのことによって私たち人間は自由になった」ということを歌っている。これも、ある種の“境界線”を巡る主題と捉えることができますよね」
 
──要所に境界線のモチーフを散りばめた、緻密な構造になっているんですね。再見するときに注意したいポイントですが、そうした構成に基づく全体へ話を移すと、舞台上の人たちの身体の動きも目を惹きつけます。これは今回の神戸ドキュメンタリー映画祭のテーマである「身体表現」ともマッチしていますし、動き=アクションは映画本来が持つ魅力。身体表現と映画との関連をどのように考えておられますか?
「勅使川原さんのダンスは当然ですが、指揮者、演奏者の動作自体も素晴らしいですよね。基本的に映画の被写体として重要になるのはやっぱり人間。動物などの場合もあるんだけど、結局は身体を撮るので、その動きが映画の大きな力になります。それをどう捉えるかは、フィクションとドキュメンタリーを問わず大きな問題ですね。そのときのサイズ、光、どういう距離感で捉えるべきなのか? そういったことが映画にとってものすごく大きなことだと思います」
 
──本作は「音楽映画」でありつつ、今、お話いただいた“運動性”を強く感じる作品でもあります。
「コルボさんにしても鈴木さんにしても、すごく表情豊かで身体の傾きや角度、あれがもう“音楽”なんですよね」
 
──動きのリズムや流れが音楽的なものになっている?
「そうなっていますね。「ミサ曲ロ短調」でも、キリストが亡くなって悲しみから復活の音楽へ変わる瞬間の跳び上がるようなコルボさんの動きには、身体から嬉しさが溢れ出ています」
 
──随所に現れる“身体性”も本作の特色といえますね。
「さらにその間にある“関係性”も大きいですね。たとえば勅使川原さんとタチアナさん、指揮者と演奏家、もちろん聴衆との関係も。その中でひとりだけをクローズアップして抜き出す場合もありますが、そういう人間の関係性もできれば同時に捉えたいですよね」
 
──演奏シーンのカットバック/切り返しは、その関係性を意識されていると感じたのですが?
「この音楽映画を撮ろうとして、最初に思ったのは“アンチNHK”の映画を撮ろうということだったんですよ」
 
──アンチNHK?
「はい。NHKの音楽番組的な撮り方は絶対にしないということでしたね。NHKは現場で複数のキャメラを回して、そこで演出家がスイッチングして次々と切り替えていく。そのとき横には楽譜があって、そこで活躍する楽器を(画面に)抜いてゆく撮り方ですよね。そういう撮り方は絶対にするまいと思ったんです。本作でも必要なところはそのように撮ってはいますが、NHK的な撮り方を突き詰めると結局、事前の楽譜の読みによって撮られていく、つまりその現場で起こっていることを撮ろうとするキャメラではなくなってしまう。現場の空気に対するリアクションがあるかということですね。ヨハネやマタイでは6、7台が同時に回っている。その中からどの映像を使うか? どこでカットを割るか? というときに、指揮者と演奏者の関係性が見えているところはそれで繋ぐんですが、「他の演奏家はいらないよ」という感じで指揮者だけをすごく長く映していることもあります。ヨハネの終曲なんかそう」
 
──おっしゃる通り、『バッハの肖像』のカットの繋ぎからは、音楽番組のスイッチングと異なる感覚を抱きました。
「狙ったところは、少し常識外れなくらいに指揮者を狙ってはいるんですけどね(笑)。ただ最終的に“何を見せるか?”ということでしょうか。撮られた映像から伝わってくるもの、どこを使えば音楽的にも映画的な意味でもそれが充実するのか? これを考えるのは作る上ですごく大きかったですね」
 
──その中で、フルート奏者をはじめ、女性もしっかり押さえている。過去に、或る映画批評家の方が、筒井監督をこう称しておられます。「彼ほど女優の演出に心を砕いている映画作家も現在の日本を見渡しても少ないだろう」。本作でも痛感しました(笑)。
「ええっと…はい、そう思います(笑)。でもそれを僕のせいにされても…というのは、キャメラマンがもうそっちへ行っちゃってるんですよ(笑)」
 
──そうでしたか、一応、納得しました(笑)。キャメラといえば、キャメラワーク、ズームやパンの使い方にもひと癖ありますね。たとえブレていても、そのカットを使っていますが?
「NHKだと、ああいう乱暴なキャメラワークは絶対使わないんじゃないかな。他のキャメラに切り替えられると思います。僕も劇映画ではズームは絶対使わないし、パンも極力使わないんですが、ドキュメンタリーの場合は使わざるを得ない。何が起こっているか? 何が聴こえているか? その持続が大事だとすれば、キャメラワークは二の次になるというか。そこに傷があろうが、ピントがボケていようが、揺れていようが使います。特にミシェル・コルボのリハーサルシーンではキャメラが揺れているじゃないですか? 」
 
──作品の序盤ですね?
「ええ。リハーサルで、コルボさんが副指揮者に指揮棒を渡して客席の真ん中の方へ行ってしまいます。はじめは何故行くのか分からなかったんですけれども、ホールの音響を確かめているんですよね。その様子をキャメラマンが素早く三脚を外して追いかけて撮ってくれた。それが良かったんですが、実はあのリハーサルのあと、コルボさんに怒られたんですよ。間接的にですが「キャメラがうるさいから、もう少し控えてくれ」という感じで」
 
──リハーサルの時の表情からはナーバスさも窺えます。
「だからその翌日はあまり近寄らなかったんだけど、ただ最初にキャメラが正面に回り込んで撮ってくれていたんだよね。とても勇気の必要なアングルなんですが、あのアングルがあったことで『バッハの肖像』の全体像が見えた思いがしたんです。ズームも使われていますが、「ここはもう絶対に切れない」という判断でしたね」
 
──リハーサル撮影は、演奏シーンとは異なる大変さがあったんですね。
「コルボさんとはさらに色々とあってね。シーン許可を取らないといけないので、編集段階の映像をスイスのローザンヌへ送ったんですよ。「…怒られるんじゃないかな? 」とちょっとドキドキしていたんですが、ものすごく喜んでくれて、「とてもよく撮れている。いい出来だ、完成が楽しみだ」と反応を返してくれて、それでリハーサルを撮ったキャメラマン(御木茂則)も救われた、というような話もあったりします(笑)」
 
──いいエピソードですね。以前、たしか筒井監督が映画評で「画面に弾みがある」という表現を用いておられました。そうした撮影も作用してか、本作も“弾み”を感じるドキュメンタリーになっています。弾みのあるドキュメンタリーを作るためには、どんなことが求められるでしょう?
「こちらが何を捕まえるか? 何を発見するか? ということがない限り、いいドキュメンタリーは撮れないと思います。だから、つねに「果たして撮れているんだろうか? 」と撮影が終わっても心配ですけどね」
 
──『孤独な惑星』は筒井監督にとって「自由な映画」だと公開時のインタビューで伺いました。本作も完成度の高いドキュメンタリーである一方、“自由さ”を感じさせてくれます。
「ドキュメンタリーでいてフィクション、演出もあるでしょう? 音楽祭のディレクター、ルネ・マルタンさんに紹介役として出演していただいていますが、色々なイタズラをしています。たとえば鈴木雅明さんの紹介では、読めないはずの鈴木さんの日本語の著作を読んでいるふりをしてもらったりね(笑)」
 
──ゴダールを彷彿とさせるあのショット(笑)!
「それからホールの渡り廊下を歩いている場面。「ジャック・タチみたいに歩いて下さい」と注文を出したらね、「分かった」と。さすがフランス文化人」
 
──うーん、おふたり共に遊び心がありますね。
「ジャック・タチというと、『孤独な惑星』のミッキー・カーチスさんの最後の出番では、ミッキーさんがジャック・タチの真似をしているんですよ。だからどちらも「ジャック・タチのように歩いてもらっている映画」でもありますね(笑)」
 
──そんな共通点まで!
「あと、カットしちゃったんだけど、最後にマタイ受難曲を聴きに行くのにルネ・マルタンさんがエスカレーターに乗っているのをキャメラが追いかけていると、後ろを振り返って腕時計を押さえて「悪いけど、これからマタイが始まるんで!」と言ってスーっとフレームアウトするカットも撮っていたんですよ。さすがにこれはやり過ぎだと思って編集でカットしたんですが(笑)」
 
──いや、そのカットが入ったバージョンをぜひ観てみたいです(笑)。
「その代わりに、マタイの演奏が終わって、舞台裏にコルボさんが来てマルタンさんと抱擁するショットが撮れたんですね。だから紹介役として、ある意味でフィクションの役柄を果たしていたマルタンさんが、一番最後にはドキュメンタリー側の人物になってしまっているわけじゃないですか? そういうことが僕にはすごく面白く感じるんです」
 
──語り部役の逸脱、ドキュメンタリーとフィクションの垣根を越境するシーンともいえますよね?
「それほど大層なことでもないんですが、そういう境界線を揺らすのが面白くて、僕はついついやってしまうんですよね(笑)」
 
──それもまた『孤独な惑星』と通じています。
「共通点はまだあって、これは仕上げの段階、色調整のときなんだけど、コルボさんは暖色系に転がして、鈴木さんはちょっと冷たいブルー系に転がしている。太陽と月。『孤独な惑星』で隣り合わせのふたりの部屋を、赤くしたのと青くしたのと似たようなこともしました」
 
──そこにもシンメトリーがあったんですね。『孤独な惑星』はエキストラが一切映り込んでいなかったり、ちょっと非現実的で「この地球ではない、宇宙にある別の世界の物語」と見ることもできる。宇宙という点で、本作も120分のひとつの小宇宙を創り出しているように思えます。
「そうなっているとしたら嬉しいですね。バッハ自体が巨大な宇宙なので、断片を構成してその宇宙を少しでも感じられるものになれば本望ですね。こんなに嬉しいことはないです」
 
──本作と『孤独な惑星』が姉妹作であることを思い知らされます。『バッハの肖像』の前後、どちらでも構わないので、ご覧になっていない方に『孤独な惑星』を観ていただきたいですね。
「もっと共通点を挙げれば、会場の東京国際フォーラムはガラス張りの建物じゃないですか? インタビューはガラス張りのところで行っていて、撮っていると段々と日が暮れてきて、最後は夜になるんですよね(笑)」
 
──時間の経過が外の明るさで分かります。『孤独な惑星』もまた「昼と夜の映画」でした。
「本当は人によって場所を変えてインタビューを、と考えていたんですが、そんなことをしている時間もなくて、「もう皆さんここで」という流れで撮ってしまいました。でも逆にそれがよかったりするんですね。映画って不思議なことに」
 
──鈴木さんへのインタビューシーンでの監督の言葉に倣えば、「本当に素晴らしい」(笑)。
「それでね、これはインタビューではカットしていますが、鈴木雅明さんはヨハネ受難曲だけでなく、主催者からカンタータも、と依頼を受けて、「何を選んでもいい」ということだったので、第78番と第30番を指揮しています。バッハは200曲以上のカンタータを書いているけども、そのすべての中で鈴木さんが一番お好きなのはこの2曲なんだそうです。本当に好きな曲を素晴らしく奏でた、それを撮れたという悦びもあるんです」
 
──今の言葉からも文字で表現し切れないほど、監督の悦びが伝わります。
「スタッフの中で僕が一番はしゃいでいたと思います。幸せでした(笑)。それと、『バッハの肖像』というタイトルの意味も言わせていただいていいですか?」
 
──大事なことを訊き逃していました。お願いします。
「紙を針でつついて描いた、展覧会のバッハの肖像画のショットもヨハネからマタイへの転換部分で少し入れているんですが、それは一応の言い訳で…昔、小学校の音楽室の一番端っこに貼られていたバッハの肖像って厳めしい、でも面白くもあった。そういう記憶が一方にありつつ、この映画は色んな演奏家が作ったバッハの“音の肖像”でもある。…そこまで説明してしまうと説明し過ぎになってしまうんだけど、でもそういう思いを込めています」
 
──厳めしさ、いわばストイックさ。それに対する面白さ、つまり自由さの両面を見られるのは、やはり筒井監督作品らしいとつくづく感じます。女性ヴァイオリニストが映るエンドロールでもそう思いましたよ。
「はい、あそこにも遊びがあって、彼女はクラマジランさんという冒頭のインタビューに出てくる方ですね。最初に出演した人がラストにも出てくるのもちょっとしたシンメトリーということで。彼女のヴァイオリンも素晴らしい」
 
──クレジットを見ると演奏しているのは、イザイの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番」ですね?
「あの曲はバッハじゃなく、バッハの曲を引用して作った作品なんですね。そこにふたつの意味を込めています。ひとつはコルボさんと鈴木さんがいて、さらに若い世代の女性ヴァイオリニストに延々とバッハの音楽が受け継がれていること。もうひとつ、バッハの音楽に影響を受けて発展させた時代の曲だという意味とを掛けて最後に持って来ました。あえてバッハの曲で締めずに、バッハが未来へ繋がっているんだというイメージでラストに使っています」
 
──その凝った演出は、もしかすると映画史に重ねることも可能かもしれませんね。ラストがバッハではないという“外し方”にセンスを感じますし、繰り返しになりますが、そこで女性を美しく撮っているのは、筒井監督の真骨頂ではないかと(笑)。
「いや…それは素晴らしいヴァイオリニストがたまたま女性だった、ということだけなんですよ(笑)。でもこの映画でいろんなことが繋がって、勅使川原さんはタチアナさんと共演したように、そのあとクラマジランさんとも舞台でコラボレーションを行っているし、たしか勅使川原さんと鈴木さんもコラボレーションなさったんじゃないかな?」
 
──監督だけでなく、出演者の方にも幸せな出会いがあったということですね。
「うん。だから本作に映っているものの一部が、次の段階へ色んな発展を遂げていて面白いですよね。その点でもこのような機会に恵まれて本当に幸せです。映画仲間と本作を観たあとに話すと、僕が20代の頃、彼らにコルボさんの話を熱狂的にしていたらしいんだけど、全然覚えていないんですよ」
 
──そうなんですか?じゃあ運命的な巡り合わせでもあった訳ですね?
「うん。フォーレの「レクイエム」を聴いていたのも中学生の頃ですからね」
 
──そんなに昔からのコルボファンでしたか。
「音楽はジャンルに関わらず、映画より好きかもしれない(笑)」
 
──筒井監督に映画以上にお好きなものがあるとすれば、それはもう衝撃です。
「でもね、よく冗談で言うんですよ。「僕、映画好きじゃないから」って。皆は「嘘でしょう?」と言いますが、そこで「僕は映画を好きじゃないんだ。フィルムを好きなんだ」と言い返すんです」
 
──それは「優れた映画」というような意味合い、すなわち「概念としてのフィルム」ですか?
「いや、「物質的なフィルム」の方です。困ったものですね、このご時勢に。はい(笑)」
 
──(笑)! しかし『バッハの肖像』はデジタル素材ながらも、「フィルム」と呼びたくなる映画的な強度、力を持った作品であることはたしかです。
「映像と音がある映画の中でいかに音を解放できたか? ということだとも思っていますね」
 
 
 約1時間、ほがらかな笑いの絶えない取材であった。その筒井武文監督が10月27日(日)に神戸映画資料館を訪れ、午後3時45分から越後谷卓司氏(愛知県文化情報センター主任学芸員)、濱口竜介監督と座談会を行う。映画への鋭いまなざしと共に、温かな人柄にも是非触れてもらいたい。『バッハの肖像』の上映は25日(金)、27日(日)、いずれも午後1時30分より。上映はこの2回のみなので、お見逃しのないよう。
                 
 
 (取材・文 ラジオ関西『シネマキネマ』)
 



(2013年10月18日更新)


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Movie Data




《第5回
 神戸ドキュメンタリー映画祭》

●10月18日(金)、オープニング公演とパーティ
 [要予約]ArtTheater dB 神戸
●10月19日(土)、ホームムービーの日 in 神戸
 [無料]神戸市立地域人材支援センター
●10月20日(日)~22日(火)、
 25日(金)~27日(日)特集上映
 神戸映画資料館

【公式サイト】
http://kobe-eiga.net/kdff/

※特集上映ラインナップ
http://www.kobe-eiga.net/kdff/2013/12/2013_2.php


 

筒井武文 監督 プロフィール

つつい・たけふみ●1957年三重県生まれ。東京造形大学在学中より映画を撮り始める。フリーの助監督、フィルム編集者を経て、自主制作映画『ゆめこの大冒険』(1986)を完成させ劇場公開。『オーバードライヴ』(2004)など映画制作と並行して、東京藝術大学大学院映像研究科、映画美学校などで後進の育成につとめるほか、映画批評を執筆。現在、「キネマ旬報」のレビューコーナーを担当している。最新監督作は、映画美学校第10期高等科生とのコラボレーション作品『孤独な惑星』(2011)。