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「映画の作り方が詩を書くことに似てきたし、
詩を書くことが映画を作ることに似ている部分がある、僕の場合」
『あるいは佐々木ユキ』福間健二監督インタビュー

2011年に詩集『青い家』で、萩原朔太郎賞と藤村記念歴程賞をダブル受賞した詩人・福間健二。同年、三本目の劇場公開作となる『わたしたちの夏』を発表した映画監督でもある。詩と映画、ふたつのフィールドを横断する彼の映画最新作『あるいは佐々木ユキ』が、6月1日(土)より、大阪十三の第七藝術劇場にて公開される。1949年生まれの人物の作品だとは思えない、みずみずしさと軽やかさを湛えた新作、さらに福間健二にとっての“表現”に焦点を当てたインタビューを行った。

──まず素朴な疑問として詩と映画、福間監督の中で通じている部分はあるのでしょうか?

 

「詩の場合、一行一行を普通にというかくっきりと出したい。ところが、それを組み合わせていくと不思議なものになることが自分で書いていても多いんです。映画にも実は似たところがあって、高級な撮り方をしたり、芸術的な雰囲気を盛り上げたりってことはあまりしたくなくて、身近にあるものをそのまま撮ってきちっと捕まえておく、それを組み上げると、普通とはちょっと違ってくるのかなとは思います」

 

──「普通に」というのは、「わかりやすい」という意味ですか?

 

「わかる/わからない、という受け止め方をもうひとつ超えてみたいなというところがあるんです。わかりやすい感動というのはやっぱり何かをなぞって生まれている気がするので、そうじゃない、新しく生まれてきているものに立ち会ってもらいたい」

 

──具体的なテーマやメッセージ、起承転結があるものを「わかりやすい」とするならば、福間監督のこれまでの映画や『あるいは佐々木ユキ』は、少し違うところにある作品かもしれません。

 

「わざとわかりづらい、わからない映画を作ろうとしている訳ではないんですが、『これはこうなってて、こうなんだ』と、既に分かっていることを敢えて表現にしなくてもいいんじゃないかな?という気持ちがひとつあります。『どうしてこうなってるのか』という問いに簡単に答えられるのなら、もう表現をする理由はないだろうと。簡単にはわからないことの大切さもあると思う一方で、表現の上ではくっきり、はっきりと。そんな感じなんです」

 

──映画の場合だとワンシーン、ワンショットは明確に、ということでしょうか?

 

「そうですね。一般的な想像を超えるような、実際にないものが出てくる訳ではないので、角度によって色んな見え方があるとは思いますけど、考えようとせず、映像と音に出会ってもらえれば。そうするとそんなに難しい映画ではないと自分では思っています」

 

──場面ごとの構図や色彩、音響だけでも楽しめますよね。あとショットといえば、文月悠光さん(詩人。詩集に『適切な世界の適切ならざる私』など)が登場する冒頭のショットをはじめ、福間監督作品の随所からはジャン=リュック・ゴダールなどヌーヴェル・ヴァーグの作家たちの影響が垣間見えます。

 

「ゴダールたちが言ったこと、やってきたことを考えると、まずは自分で作る前にシネマテークで映画を観て、それを語って批評を書く、その時にもう既に自分たちは映画を作っていたんだというところがありますよね。映画ファンであり、映画批評を書く、そういうことと作ることに全然距離がないっていうか。それから、もうひとつ彼の言ったことでよいのは『もし何かあって映画を作れなくなったら、別に小説を書いてもいいんだ』と。映画を映画という形式の中でやらないといけない訳じゃなくて、小説や批評、詩を書いても映画を作るのと同じことになる、そういう場所があるんだと唱えたのがヌーヴェル・ヴァーグだという認識もあります」

 

──手法だけでなく、映画へのスタンスも福間監督に近いですね。

 

「ただ、彼らの作品のある部分は“映画のための映画”。映画の神様みたいな存在に作家が仕えていて、その点を凄いと思う人もいるかもしれないけど、僕はそれはちょっと嫌というか。結局、表現のゴールとして映画の神様や詩の神様のために作るんじゃない、そうじゃないだろうと思うんです。映画や詩がどうなろうと関係ないという人もたくさんいますよね。自由って何だろうと考えた時に、現実のいろんな条件と離れたところで『自由だ』と言っても仕方がない気がするんですよ。この社会には現実があって、その中でどう自由に表現するのかということですよね」

 

──お話の流れで思ったのですが、『あるいは佐々木ユキ』のポスターやチラシのヴィジュアル、デザインも、パッと見ると映画のものには見えません。“映画に囚われない”何かその様な意図があったんでしょうか?

 

「これはどちらかというとプロデューサーのアイデアも大きいんだけど、今、映画のチラシも似たような作りが多いので違ったものを出したいと思ったのと、映画と直接繋がっているのではないけど、どこか映画から受け取っているものがあるんだってことを見せたかった。一枚のチラシで単に情報を伝えるのではなくて、チラシが一枚の絵としてひとつの作品になっている、そういう風に作ってもらおうと考えました」

 

──『あるいは佐々木ユキ』を観終えると、思った以上にチラシと作品の雰囲気が一致しました。ところで最近の映画の話題が出ましたが、他に今の映画に感じることはありますか?

 

「今、シネコンへ行って日本映画を何本か観ると、何か相当どぎつい感じを受けます。高校生の物語でも人間関係のしんどさやトラウマに苦しんだり、もしくは悪ノリ的にふざけたり。それを否定するんではないけど、自分が映画を撮る時にメインに置きたいのはそういうものではなく、“肯定できるもの”をできるだけ捉えたい。でも、あんまり簡単にこれがいいんだと言うんではなく、ちょっと回り道をしながら、そういうものを捕まえたいです」

 

──今のお話は『あるいは佐々木ユキ』の「生きていればいい」というセリフの温かみ、作品が持つやわらかいトーンに通じるのかなと思いました。

 

「やっぱり人の体温というか、温もりでこの世界って出来ているんですよね。構造や成り立ちを思考することもできるけど、まず人がいてこの世界がある。映画はカメラという機械を通してその世界を捉える訳ですけど、それでどんなに綺麗に撮っても出てこない何かがある、その何かを出したい。一方で、この世の中には怖いこともあるし嫌なこともある。空恐ろしいようなことがどこかでずっと進んでいるかもしれない。そこへの回路は表現の中で示しながら、でも『こういう感じで生きていくのがいいんじゃないか、人間はもう少しこんな風になってもいいんじゃないかな』っていうのも出したいんですよね」

 

──福間監督が、素直に「人」を撮ろうとしているのは過去の作品からも一貫して伝わります。その中でも常に女性を主人公、作品の中心に据えていますが、これには何か理由があって?

 

「映画に出会ったのが青春期だった、それが大きいですね。映画に憧れるのと、その中にいる女性に憧れることが同時に起こりました。それで“映画を撮る=女性を撮る”という発想が最初にあるんです。その上で自分にとって女性とは不思議な存在で、世界が謎に満ちているとしたら、まず女性というのが謎ですよね。今はだいぶ歳を取って『女性って実はこうだ』ってことも見えてはきた。でも少年の頃、女性に憧れながらも覚えた『どういうものなんだろう?』というある意味での不安。そこを入り口にして、または真ん中に置いて作品の世界を考えるのはずっと続けていますね」

 

──女性を中心に置くこと、さらに福間監督の映画の特徴として長さがほぼ90分なのも挙げられます。

 

「(劇場公開デビュー作の)『急にたどりついてしまう』(1995)が予算の都合上、90分を超えてはいけなくて、それで作ってみたら自分にはやりやすい感じがしたんです。振り返ると、僕が若い頃に観た日本映画のプログラム・ピクチャー(二本立て、三本立て上映が主流だった時代に量産された映画)や、ゴダールなんかもだいたいその長さ。本(福間監督の著作『完本石井輝男映画魂』)を作った石井輝男監督や“B級映画”みたいなものへの敬意もどこかにある。そういう考えで90分で三本撮って、今回は79分なんです。短くまとめようとすると、どんどん詰まっていくけど、『ここはじっくり観てもらうぞ』という部分はちゃんと時間を取りたいと思っていた。そこを編集の秦岳志さんが独特のいい感じに仕上げてくれて、巧くいったなと感じています」

 

──編集、それに撮影や音響、技術面でのセンスや工夫に加えて、ユキ役の小原早織さんの存在感も大きいですよね。彼女の表情を正面から収めたショットも強く印象に残りました。

 

「ひとつは眼。怖い眼っていうんじゃないけど“生きている眼”なんですよね。今、テレビや映画の若い女優さんたちのメイクの仕方がパターン化されているので、ノーメイクに近い状態であれだけの表情が自然に出るというのに、『うん、これを捕まえれば何かできるのではないかな』と思わされて『あるいは佐々木ユキ』を撮ったんです。それに勘がいいから説明しなくても色々やってくれる、だからとにかく撮影していきました。で、編集の前にポルトガルへ旅行で行ったんですよ。そこで人を引き付ける眼を持つジプシーの少年に出会ったんです。その時に『あ、この眼と小原早織の眼って同じだな』と感じて、帰国してから編集の時に、この“眼”を活かさなくちゃと思った。だから、撮った後でもう一度気づいた段階があったんですよ。

 

──衒いなく(?)これだけ女の子の顔を収めた映画もちょっと珍しい気がしました(笑)

 

「今の社会で、たとえばその人が可愛いからとか、どこか面白い、興味深い顔をしているからといって見つめていたら失礼で、決していいことではない。でも映画を撮っていると、人を見つめても怒られないですよね? これは映画を作っていて一番良かったと感じることかもしれない(笑)」

 

──映画監督の特権ですね(笑)。さて今日は主に“表現”についてお訊きしてきました。もちろん映画をご覧頂きたいですが、今、私たちが最も手軽に監督の表現に触れられるのがツイッターです(福間監督はほぼ毎日のペースで詩をツイート。10回の投稿でひとつの詩が出来上がる構成で、出来上がったものはtogetterで読むことが可能→http://togetter.com/id/acasaazul)。これはどんな理由で始められたんですか?

 

「詩の発表はツイッターを始めて一ヶ月くらいからなんですけどね。最初、ツイッターというのはその場その場のツールだと思っていた。だから即興の自分がどれだけのものを出せるのかと思って詩を書き始めたんです。それに対して読んでくれる人が楽しみ出してくれたんですよね。今はある程度準備したり、考えている時もあります。やっていて面白いのは10日というサイクルでタイトルを考えて、それを展開して1本ずつ作っていく、これはある意味で映画みたいな感じなんですよね。全体を10回でひとつのものとして構成していくというのは、映画を作るのにすごく似ているところがあって」

 

──言われてみると月に3本というペースはプログラム・ピクチャーの様にも受け取れます。

 

「そうなんですよね。これが終わったら次は何をやろうかと考えるのも楽しいし、月に3本映画発表できたらどれだけ楽しいか」

 

──さかのぼって、先ほどのヌーヴェル・ヴァーグの話題で上った「詩を書くのが映画を作るのと同じこと」ともリンクしますし、アウトプットは別でも表現者・福間健二の中で詩と映画が切れ目なく続いているのが今回のインタビューで確認できました。

 

「映画の中で詩を使っているから、特に詩と映画が繋がってるというよりは、映画の作り方が詩を書くことに似てきちゃったし、詩を書くことが映画を作ることに似ている部分があるんですよね、僕の場合は」

 

 

第七藝術劇場公開初日の6月1日(土)、2日(日)は共に上映(20:40~)前に福間監督の詩の朗読、上映後には舞台挨拶を予定している。これまでにも各地で上映前に詩の朗読を行ってきた監督。「ひとりの人間がやっているということで詩と映画が繋がるだろうし、観て下さる人の心の準備みたいになればと思います」とコメント。劇場の空間で、インタビューで語ってもらったふたつの表現がひとつになるその時を見届けてもらいたい。


(取材・文:ラジオ関西『シネマキネマ』)




(2013年5月28日更新)


Check
福間健二監督    (C)Toshio Hirayama

Movie Data


Introduction

詩人として活動し、映画監督として『岡山の娘』や『わたしたちの夏』などの作品を発表してきた福間健二監督の最新作。20歳の女の子の日常、夢、そして現実をドラマだけでなくインタビューやダンス、詩などを交えて描き出していく。『わたしたちの夏』に出演した小原早織が主演を務めるほか、福間監督作品を支えてきた俳優陣が再集結している。


(C)tough mama

『あるいは佐々木ユキ』

●6月1日(土)より、
第七藝術劇場にて公開

※鑑賞当日、受付にて詩集を提示すると
一般料金1,500円→1,300円の“詩集割引”あり!
※福間監督の詩集でなくても構いません。

【公式ブログ】
http://sasakiyuki.doorblog.jp/

【ぴあ映画生活サイト】
http://cinema.pia.co.jp/title/161118/

【第七藝術劇場】
http://www.nanagei.com/movie/data/700.html

【STORY】

東京の郊外で暮らす佐々木ユキは、中華料理店や花屋でバイトをしながら日々を過ごしているが、自分が本当に何を求めているのかわからず、自分に必要なものもわからずにいた。そんなある日、彼女がアパートに帰ると部屋に“もうひとりの佐々木ユキ“がおり……。

Event Data

舞台挨拶決定!

【日時】6/1(土),2(日)両日20:40の回
【会場】第七藝術劇場
【料金】通常料金

【登壇者(予定)】福間健二監督
上映前に詩の朗読、
上映後に舞台挨拶を予定。