ホーム > インタビュー&レポート > カンヌやヴェネチア、名立たる映画祭を唸らせた 名匠イ・チャンドン監督最新作『ポエトリー アグネスの詩』 イ・チャンドン監督会見レポート
『オアシス』でヴェネチア国際映画祭監督賞に輝き、『シークレット・サンシャイン』では主演のチョン・ドヨンに主演女優賞をもたらしたイ・チャンドン監督の最新作『ポエトリー アグネスの詩』が3月3日(土)よりテアトル梅田、3月31日(土)よりシネ・リーブル神戸、5月5日(土・祝)より京都シネマにて公開される。地元の文化センターで詩を学びながら孫と暮らす老女ミジャが、認知症や周囲の人間関係など、厳しい現実に立ち向かいながら生きることの尊さを見出していく姿を描く。日常の中にある哲学的な主題やドラマを繊細なタッチで描き、カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞した力作だ。本作の公開に先立ち、イ・チャンドン監督が来阪し、会見を行った。
ミジャは、釜山で働く娘の代わりに孫息子のジョンウクを育てていた。ある日彼女は、詩作教室の案内を見て受講を決め、詩を作り始める。また同じ頃、ジョンウクの友人の父親から連絡が入り、孫が同級生の少女の自殺に関わっていたことを知るのだが…という物語が綴られる本作。監督は、韓国中を震撼させた女子中学生集団性暴行事件に衝撃によって、本作のアイデアが思い浮かんだそうだがー。
監督:初めてあの事件を知った時に、なぜか私の心の中に残って、この事件を映画で語りたいと思ったんです。しかし、どのように映画で表現するのか、その表現方法を探すのは非常に難しいことでした。例えば、被害者の側に立って悔しい、悲しい気持ちを表すのか、刑事や記者のように第三者の立場に立って真実を暴く方法なのか、どちらでも表現することはできましたし、そういう風に作れば大衆に訴える力も大きく、わかりやすいとは思ったんですが、それは違うと思ったんです。一体どのような方法で表現すればいいのか考えていた時に、たまたま京都のホテルに泊まっていて、テレビを見ていたら、美しい映像と音楽が流れていたんです。その時に私の頭の中に“詩”というタイトルが浮かび上がったんです。そして同時に、主人公の女性が60代のおばあさんで、生まれて初めて詩を書くことに向き合うという場面が思い浮かびました。詩を書くということは美しさを追求することです。一方で、この事件は残忍でむごたらしいことです。だから、詩を書くことと残虐な事件という両極端なことを一緒に語ることで、美しさと残忍さを対比できると思ったんです。
そのように、日本の美しい自然と音楽の番組から“詩”というイメージが思い浮かんだと語る監督だが、本作は詩を書こうとするミジャを映し出すことで、ミジャの見る風景や人々を映し出している。それはまるで“詩”そのものを映像化しているような感覚を私たちに与える。
監督:私は、映画を通じて詩を語ったわけですが、それは文字の世界を映画の中で描くのはそれなりに意味のあることではないかと思っていたからです。映画の中に詩のイメージを書き留めたミジャのメモが出てくるのですが、そのメモを映像化したという感覚です。この映画は、詩や小説のように文字で表現された、目に見えない美しさを探す試みをしました。ですから、詩を含めて映画や芸術が同じように本質を共有しているのではないかと思っていますし、目に見えない美しさや人生の意味を探す行為を映画で表そうと思って作りました。
「目に見えない美しさや人生の意味を探す行為を映画で表すこと」とは、「詩を書くこと」だと監督は考えているようだ。では、監督がミジャに詩を書かせた意図とはー
監督:最初ミジャは、詩を書こうと一生懸命努力をしていました。それは、花や鳥のさえずりなど、目に見える美しさを書く努力でした。でも、それだけでは詩にならないということを悟っていくわけです。自分は一生懸命美しいものを探そうとしているのに、生きていく中では汚いものや醜いもの、苦しいことや悲しいことが起こる。しかし、それらが通りすぎた後に美しいものが見つかるということを彼女は少しずつ苦しみながらわかっていくんです。ですから、結果的には亡くなった少女の苦痛、他人の苦痛を自分の苦痛として受け入れて、1篇の詩を完成させたんです。死んだ少女の代わりに、彼女が残すことができなかった言葉や心を詩として表したんです。
ミジャが最後に残した詩はとても感動的で、まさに死んでしまった少女の代わりに、彼女の言葉や思いを代弁したかのよう。そして、その詩を書いたのは、もちろん脚本も手がけている監督だ。監督は小説も書くそうだがー
監督:私は思春期の頃に幼稚な詩を何篇か書いたことはありました。それ以降は書いたことはなかったんですが、最近は何篇か書いたりしています。この映画のミジャの詩も私が書いたんですが、詩を書くということはつくづく大変なことだと感じました。結局、純粋でなければ詩を書くことはできないんです。私の心の中は、汚れているということを痛感させられました(笑)。ただ、この映画の中でミジャが少女の代わりに詩を書いたように、私自身もミジャの代わりに詩を書けるように努力しました。
少女の気持ちになって詩を書くほど心優しく、目に見えない美しさや人生の意味を探すミジャを見事に体現したのが、1960年代後半から70年代半ばにかけて、韓国で絶大な人気を誇ったユン・ジョンヒだ。監督は、ほとんど顔見知り程度だったそうだが…。
監督:ユン・ジョンヒさんは、1960年代にデビューされて、1970年代にかけて非常に多くの韓国の映画に出演された伝説的な女優さんです。ですから、私が小さい頃から雲の上の方でした。ピアニストの方と結婚された後フランスに行かれて、結婚された後はほとんど映画に出演されていませんでした。私も個人的には全く存じ上げない女優さんで、どこかの映画祭で2、3度会ったかどうかぐらいの方でした。この映画の物語が私の頭の中に思い浮かんだ時に、本能的にユン・ジョンヒさんとミジャの内面が近いと思ったんです。
監督の思いは決まったものの、映画に出演するのも16年ぶりとなるユン・ジョンヒ。彼女は出演を快諾してくれたのだろうか。
監督:シナリオを書く前にユン・ジョンヒさんにお会いして、出演をお願いしましたところ、全く迷いもなく即答のようなかたちでお引き受けしてくださいました。しかし、撮影は楽ではなかったと思います。と言うのは、ユン・ジョンヒさんが活躍されていた時代は後から録音する形式だったので、監督が横で話しながら演技をつけるということが可能な時代だったんです。しかし、今は演技の方法も録音の仕方も違いますし、私自身もできるだけ演技をしないようにお願いしておりましたので、撮影はユン・ジョンヒさんにとっては非常に大変だったのではないかと思います。けれども、非常によく役柄を理解して臨んでくださいました。
「できるだけ演技をしないようにお願いした」と語る監督。たしかに本作は台詞も少なく、演技も決してオーバーではなく自然体だ。「できるだけ演技をしないように」という監督の意図はどこにあるのだろうか。
監督:私は、基本的に俳優たちには演技はしないように注文しています。それは、演技とは俳優が感情を表現するのではなくて、俳優がその人物を引き受けてその人物の感情を感じ取ることができればそれでいいのではないかと思っているからです。むしろ、感情を表現してはいけないと思っているんです。ですから、ユン・ジョンヒさんはミジャであることを受け止めて、ミジャの感情を感じるだけで十分だったんです。特別に何か感情を表現してほしいとは思っていませんでした。
何か特別に感情を表現することのない自然な演技に加えて本作の透明感を際立たせているのが、オープニングに登場する川が流れる映像や川のせせらぎ、そして随所に現れる自然の風景だ。その川の流れにも監督の込めた思いが。
監督:今回の映画も川から始まるのですが、川の流れは非常に平和に見えますし、美しく見えると思うんです。でも、この映画ではオープニングの後すぐに(川に身投げした)少女の姿が映し出されます。ですから、日常によくある平和で美しい風景のすぐそばに、苦痛は存在しているということを表したかったんです。その苦痛を“死”で表しました。それとともに、川の流れは決して絶えることなく流れていきます。そんな川の流れを生命の源として捉えてほしいとも思いました。
劇中、そんな川の流れや自然の風景とともにあるのは、常に川のせせらぎであったり、風の音であり、街中でも車の音や人の話し声で、音楽は全く使われていない。その理由とは?
監督:元々、私は映画の中で音楽を使うことを好んでいません。最初から最後までずっと音楽が流れているのは絶えられないんです。それは何故かというと、音楽は作られた感情を強要する、押し付ける性質があるように感じるからです。今回の映画については、見えない美しさを見て探すような映画だと思っていますので、音楽で作られた美しさや感情を強要することは合わないし、今回の映画のコンセプトには反することだと考えて、騒音や人の声、自動車の音、風の音、水の音、それらの音の中に観る人が音楽を感じてほしいと思いました。
ここまで監督が語ってくれたように、本作は静かに孫と暮らしていたミジャが詩を書くことを思い立ち、美しい風景を目にする一方で、孫の起こした悲惨な事件を知り、厳しい現実を受け止める姿を静かに見つめていくことで、美しさと残酷な現実がすぐそばにあることを私たちに伝えている。そんな残酷な事件を起こした若者は、何か特別なことがきっかけで事件を起こしたとは思えないほど。そこに監督が一番この映画で伝えたかったことがある。
監督:私はこの映画で、ミジャの孫にあたるウギだけでなく、ウギの友だちにしても、何か説明できる因果関係があって事故を起こしたとは決め付けたくなかったんです。例えば、ウギが両親もおらず、お祖母さんに育てられているから、家庭に何か問題があるからああいう事件を起こしたんだというような視点で映画を観てもらいたくなかったですし、特別な子たちが事件を起こしたのではなく、普通の子どもで、普遍的な事件だったと考えたいと思っていました。だから、映画の観客にも決して特別ではなく、平凡で何を考えているのかよくわからない青少年だという風に捉えてほしいんです。次の世代の子供たちがどのような子に育っていくのか私も非常に心配です。しかし、一方で愛する気持ちもある、それがすなわちミジャの心情でもあるのです。ミジャはもうすぐこの世を去っていく人です。この世を去っていくミジャが次の世代の人を怪物だと思うだろうか、希望だと思うだろうか、そのような気持ちを、すなわち私の考えをこの映画に込めたかったんです。
(2012年3月 2日更新)
1954年生まれ。1993年に友人のパク・クァンス監督作『あの島に行きたい』に脚本家兼助監督として参加したことをきっかけに映画界へ進出。1997年に『グリーンフィッシュ』を製作し、監督デビューを果たす。1999年には、監督・脚本を手がけた2作目で、ソル・ギョングが主演を務めた『ペパーミント・キャンディー』を発表、翌年にはカンヌ国際映画祭〈監督週間〉に招待されるなど、高い評価を得る。続く『オアシス』(2002)でヴェネチア国際映画祭にて監督賞を受賞。2007年に5年ぶりとなる『シークレット・サンシャイン』でカンヌ国際映画祭にて、チョン・ドヨンに主演女優賞をもたらした。本作『ポエトリー アグネスの詩』でもカンヌ国際映画祭にて脚本賞を受賞。
●3月3日(土)より、テアトル梅田にて公開
●3月31日(土)より、シネ・リーブル神戸にて公開
●5月5日(土・祝)より、京都シネマにて公開
【公式サイト】
http://poetry-shi.jp/
【ぴあ映画生活サイト】
http://cinema.pia.co.jp/title/157035/