ホーム > インタビュー&レポート > アメリカとベトナムでの枯葉剤による 被害の実態の悲惨さを映し出す 『沈黙の春を生きて』坂田雅子監督インタビュー
60年代のベトナム戦争時、ゲリラの隠れ場所をなくすために米軍が散布した枯葉剤の影響で、今もなお後遺症に苦しむ人々の姿を見つめたドキュメンタリー『沈黙の春を生きて』が第七藝術劇場にて公開中、その後神戸アートビレッジセンター、京都シネマでも公開される。兵士としてベトナムへ行き、その後、癌で亡くなった夫の死の原因を枯葉剤ではないかと疑い、その事実を提示した映画『花はどこへいった』の坂田雅子監督が、再びその脅威と悲惨な現実に向き合っている。本作の公開にあたり、坂田雅子監督が来阪した。
ベトナム戦争直後のベトナムでの枯葉剤の被害については知っていたものの、この映画が映し出すベトナム戦争以後に生まれた、子ども、孫という第2世代、第3世代、果ては第4世代まで障害を持つ子どもが生まれているという現実、そしてアメリカのベトナム戦争の帰還兵の子どもやその孫にまで枯葉剤の被害が及んでいることには驚かされてしまう。まずは、『花はどこへいった』に引き続いて枯葉剤の影響を追った本作を作ろうと思ったきっかけとはー
監督:ベトナム戦争に行っていたアメリカ人の私の夫が、2003年の5月に急に病気になって2週間で亡くなったんです。その原因が枯葉剤じゃないかと疑ったことと、夫を失くしたというとても大きな喪失感から枯葉剤のことを調べて、ベトナムに行って作った映画が1作目の『花はどこへいった』でした。それで一応私の中では区切りがついて、何か違うことをしようと思ったんですが、日本で上映会や講演会をしていくうちに私ももっと学ぶことがあると感じたことと、最初にベトナムで取材したのが2004年だったので、取材をした子どもたちがそれからどうしているのかも気になってベトナムに行くうちに、まだまだ語らなければならないことがあると思って続編を考えるようになりました。それから、第1作目の時にもっとアメリカで観てほしいと思ってテレビ局などに話をしたんですが、あまりにも個人的な話だと言われたので、政治的、社会的に視野を広げたらもっとアメリカで観てもらえるようになるんじゃないかと思って色々考えはじめました。
そのようにして始まった映画制作だが、本作がベトナムの被害者ではなく、アメリカ人のベトナム帰還兵の子どもたちを軸にして描かれていることにも驚かされるのではないだろうか。その経緯についてはー
監督:枯葉剤の活動している方から、アメリカにも障害を持った第2世代の子どもたちがいることを聞いて、アメリカで5人の女性に取材させていただいたんです。そのことが、すごく大きな転機になりました。その中のひとりであるヘザーさんが「ベトナムに行ってみたい」とちらっとおっしゃったんです。私は、アメリカ人にとってベトナム戦争は決着がついていないことで、アメリカ人の中にはベトナムのことを敵対視している人も多いし、ベトナムのことは二の次だと考えているんじゃないかという先入観があったんです。だから、ヘザーさんがベトナムに行きたいと言ったことは意外でした。そこで、ヘザーさんにとってベトナムに行くことは大切なことだと思ったし、ヘザーさんがベトナムに行くことでアメリカの障害者とベトナムの障害者が繋がりを持てますし、映画もまとまると思ったんです。
しかし、お互いに障害を持つ被害者ではあるものの、敵として戦ったアメリカ人とベトナム人が面会するにあたって懸念されたことも多かったのではないだろうか。
監督:私も最初は心配でした。ヘザーさんもすごく心配していたので、途中で行かないと言い出すんじゃないかと思いました。でも、初めて枯葉剤被害者の会の方にお会いした時はすごく緊張していましたが、アメリカが加害者でベトナムが被害者という敵、味方という考え方をベトナムの方たちがある程度乗り越えていて、私たちは同じ被害者だと最初のミーティングで言ってくれたことで、彼女の心が軽くなったと思います。ベトナムの人たちも敵が来たという感覚ではなくて、戦争に加担したアメリカの兵士も、その子どもたちもみんな戦争の被害者であって、悪いのはアメリカという国で人々は悪くないと認識していたと思います。
たしかに、映画の中で障害を持つ子どもたちが暮らす学校を訪れたヘザーが、ベトナムの子どもたちと交流を深めていく様子は感動的でもあった。しかし、そんなヘザーやベトナムの子どもたちのように障害を抱える第2世代、第3世代への国家の補償は心もとないものがある。
監督:どちらの国でもこれは枯葉剤のせいだと科学的には証明できないんですが、ベトナムでは17種類ぐらいの病気が設定されていて、父親や母親が戦場に行っていたり、枯葉剤が散布された南ベトナムなどでは、自分自身あるいは親が散布された地域にいたことが証明できて、子どもに障害があれば枯葉剤の被害者だと認めてもらえるんです。アメリカで設定されている19の病気が保障されるのは、ベトナム戦争に行っていた帰還兵だけなんです。子どもの世代は二分脊椎症という病気だけが認められていて、他の病気は認められていません。ただ、母親がベトナム戦争に行っていれば、子どもにも17ぐらいの病気が保障されるんですが、すごく矛盾していますよね。
そんな矛盾を抱える補償制度しかないアメリカでも、「エージェントオレンジレガシー」という枯葉剤被害者の団体によって、ようやくベトナム帰還兵の子どもに対する補償を求める運動が始まるなど、少しずつではあるが前進している様子が伺える。
監督:「エージェントオレンジレガシー」ができたのも2、3年前ですし、第2世代の子どもたちはもうみんな40代ぐらいでようやく互いに探し当てて連絡を取り始めたぐらいなので、これはとても新しい動きなんです。みんな孤立していて、他にもそういう障害を持った人がいることを知らなかったんです。ある意味では、ベトナムの被害者の方が国に認められているし、額はすごく少ないですけど地域のサポートもありますね。それにベトナムは田舎のすみずみまで被害者を探して助けようという動きもありますし。でも、アメリカでも「エージェントオレンジレガシー」の活動が知られるようになってきて、メンバーが1年間でほぼ4倍の800人近くになったんです。
一方で、「今でもベトナムでは、食物連鎖を通じて枯葉剤を摂取してしまうので、第3世代、第4世代まで障害を持った子どもが生まれている」と辛いベトナムの現状を語る監督だが、『花はどこへいった』の上映館で集めた募金や監督自身が関わっている奨学金制度によって、ベトナムでもかすかな希望が生まれている。
監督:ベトナムで取材をしている時に、ベトナムの障害を持った子どものお姉さんが、医科大学に合格してお医者さんになると言っていたのを聞いたことが、すごく嬉しかったんです。というのも、1作目の『花はどこへいった』の時に集めた募金の一部をその家族に渡していたので、それが生活費や彼女の学費になったと思うと本当に嬉しかったです。その影響もあって「希望の種」という奨学金制度を始めました。ベトナムでは月に2500円あればひとりの学生が1ヶ月学校に通えるようになると聞いて、それぐらいだったら私たちでもできることだと思ったんです。そのお金がいくらか集まって30人の生徒を大学に通わせることができるようになったんです。すごく少ない額ですし、枯葉剤被害というすごく大きな問題からするとわずかなことですが、障害があって将来が何も見えない中で、明るい未来じゃなくても小さな点でも明るい光が見えれば、そこに向かっていけるんじゃないかと思ったんです。
この映画には障害を持つアメリカ、ベトナム両国の子どもたちの、時には悲惨な現実が映し出されている。しかし、監督が語ってくれたようにわずかではあるが希望の光も見えている。特に、「初対面なのに、インタビューを始めたら堰を切ったように皆さんが話してくださったことに圧倒されました。やっぱり皆さん今まで言いたいことは山ほどあっても、話す機会がなかったんです」と監督が語るように、アメリカのベトナム帰還兵の子どもである女性たちが明るくインタビューに答えている姿は印象的だった。ベトナムはもちろん、アメリカでも起こっている、枯葉剤のもたらした被害の実態の悲惨さを思い知らされる秀作ドキュメンタリーだ。
(2011年12月 7日更新)
さかた・まさこ●1948年、長野県生まれ。2003年、夫のグレッグ・デイビスの死をきっかけに、枯葉剤についての映画製作を決意し、ベトナムとアメリカで枯葉剤の被害者やその家族、ベトナム帰還兵、科学者などにインタビュー取材を行い、2007年に『花はどこへいった』を完成させる。毎日ドキュメンタリー賞、パリ国際環境映画祭特別賞などを受賞、日本をはじめとして世界各国で上映されている。2011年に「枯葉剤の傷痕を見つめて~アメリカ・ベトナム 次世代からの問いかけ」を制作、NHKのETV特集で放送され、ギャラクシー賞を受賞。本作『沈黙の春を生きて』が監督第2作目となる。
●第七藝術劇場にて上映中
●神戸アートビレッジセンターにて公開予定
●京都シネマにて公開予定
【公式サイト】
http://cine.co.jp/chinmoku_haru/
【ぴあ映画生活サイト】
http://cinema.pia.co.jp/title/157343/