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プロフィール

土田英生(写真右)●1967年愛知県生まれ。MONO代表、劇作家、演出家、俳優。1989年に「B級プラクティス」(現MONO)結成。1990年以降全作品の作・演出を担当する。1999年『その鉄塔に男たちはいるという』で第6回OMS戯曲賞大賞を受賞。2001年『崩れた石垣、のぼる鮭たち』で第56回芸術祭賞優秀賞を受賞。2003年文化庁の新進芸術家留学制度で一年間ロンドンに留学。劇作と並行してテレビドラマ・映画脚本の執筆も多数。その代表作に『崖っぷちホテル!』、『斉藤さん』シリーズ(共に日本テレビ系)など。2020年、自身が監督を務める映画『それぞれ、たまゆら』公開。またTBS系テレビドラマ『半沢直樹」に出演するなど俳優としても注目されている。

松田正隆(写真左)●1962年、長崎県生まれ。劇作家、演出家、マレビトの会代表。1996年『海と日傘』で岸田國士戯曲賞、1997年『月の岬』で読売演劇大賞作品賞、1999年『夏の砂の上』で読売文学賞を受賞。2003年「マレビトの会」を結成。主な作品にフェスティバル・トーキョー2018参加作品『福島を上演する』など。2012年より立教大学現代心理学部映像身体学科教授を務める。2021年1月、ロームシアター京都開館5周年記念事業〈レパートリーの創造〉『シーサイドタウン』を上演。

STAGE

MONO『アユタヤ』
チケット発売中 Pコード:504-342
●2021年2月17日(水)~21日(日)
(水)(木)(金)19:00 (土)14:00/19:00 (日)14:00
ABCホール
一般-4000円(指定)
U-25-2000円(指定、25歳以下、要身分証明書)
ペアチケット-7200円(2名分、座席指定引換券)
【脚本・演出】土田英生
【出演】水沼健/奥村泰彦/尾方宣久/金替康博/土田英生/石丸奈菜美/他
※未就学児は入場不可。
※大阪公演のペアチケットは公演当日会場にて座席指定券と引き換え。

チケット情報はこちら

第28回特別編「松田正隆さんを迎えて」
土田英生×松田正隆 対談(前編)

MONOの30年の道のりをメンバーや関係者の話から紐解く連載の第28回。
今回は特別編として、マレビトの会代表・松田正隆さんを迎えての対談前編をお送りします。
松田さんはロームシアター京都の企画で『シーサイドタウン』、土田さんは第48回公演『アユタヤ』の公演を控えた某日。
MONOの稽古が行われている京都芸術センターでお二人に語っていただきました。

 

――土田さんは松田さんに初めてお会いした時のことを覚えていらっしゃいますか?

土田:入学してすぐの頃、背の高い男の人がピーコートにタータンチェックのパンツ、ローファーというトラッドファッションで学内を歩いているのを見たんです。その時、隣にいた劇団の先輩から「あれが松田正隆や」と教えられました。松田さんは4年生で「新演劇研究会」に所属。当時、僕たちの劇団(立命芸術劇場)が学内で一番勢いがあったからか、先輩たちは松田さんたちのことを「あいつらはきちんと演劇をしていない」などと揶揄してました(笑)。

――その時は二人が話してはいないんですよね。

松田:喋ってないですね。

土田:僕も高校の時からトラッドが好きで、ピーコートやダッフルコートを着ていたから、勝手に松田さんに対して好感は持っていました(笑)。あと「新演劇研究会」のリーダー的存在だっていうのは意識していましたね。でも、芝居の好みは違いましたね。

――松田さんは、どんな芝居をされていたんですか。

土田:僕らの方がちょっとポップというか大衆性があった気がします。「新演劇研究会」はアングラの匂いが強かった。

松田:(笑)

――松田さんは土田さんの最初の印象はいかがですか?

松田:土田さんはスターでしたよ。芝居もうまかったし、華がありましたから。土田さんが言うように、僕らはアングラ系の芝居をやっていると見られていましたね。上級生が抜けて、僕は4年か5年生。その主流メンバーの中に唐十郎さんが好きな人たちがいたり。結局、僕は7年生まで立命館にいたんですよ。

土田:僕は4年生になってすぐ大学を辞めて東京にいきましたけど、帰って来ても松田さんはまだ学生でした。あの人ずっと学生やってるなって(笑)。

――初めて喋った時のことは覚えていますか?

土田:松田さんによれば、松田さんが小屋入りしている時に僕がやって来て、鼻で笑って帰って行ったらしいんですけど……。

松田:鼻で笑ったっていうか、公演名を少しバカにした感じで読んだんだよ。「『秋街角公園物語』ですか」みたいな感じで。それだけ言って、照明器具とか積んだリヤカーを引いて帰って行ったのを覚えていますね。

――土田さんが「立命芸術劇場」で主役を演じた鴻上尚史さんの『デジャ・ブ』のラストシーンで、俯いた顔をあげたら一番前の席に松田さんが座っておられたと仰っていました(※連載第1回「結成前夜」)。

土田:今は考えられないでしょうけど、その頃は学校の劇場内でタバコが吸えたんです。実は僕らの時はもう禁止にはなってましたけど、まだその名残はあって。だから松田さんはタバコを吸ってたんです。それでラストシーンで顔を上げたら、普通にタバコを吸いながら観ている松田さんがいたんです。

松田:煙を吹きかけた?(笑)

土田:吹きかけたというより、普通に煙がもわ~っと、いい感じのスモークになっていました。「あの松田正隆さんだ!」と思ったのを覚えています。

――「あの松田さんだ」と思ったのはなぜですか?

土田:松田さんの佇まいに品があったんですよ。

松田:そうかなぁ。

――土田さんが「B級プラクティス」を結成された1989年、松田さんは『蝶のような私の郷愁』を書かれました。

松田:女優の内田淳子さんが劇団にいて、彼女が卒業する時のために書いたのがこの作品です。卒業生は内田さんしか居なかった。

土田:当時「新演劇研究会」には「キネマ淳子」と「プリシラ花子」という2大女優がいたんです。でも「プリシラ花子」は辞めたので、「キネマ淳子」しか残っていなかったんですよね。

――土田さんの作品を最初に見られたのはいつですか。

土田:B級プラクティスでの第3回公演『狂い咲きシネマ』ですよ。

松田:観たかな?

土田:はい。その後しばらくしてから、松田さんから飲まないかと誘われたんです。ちゃんと喋ったのはその時が始めてで。松田さんから最初に聞かれたのが「土田くん、夕日って沈んでると思う?」という質問だった。面食らったのを覚えてます。けど、松田さんは真剣に言うんです。「地球が回るから、夕日は沈んでいくように見えるだけだけど、僕はあれほんとに沈んでるんじゃないかと思うんだよ。だとしたら、「沈む」先に何があるか見たいんだっよね」って……。

――松田さんが話すところを全部土田さんが喋っちゃってますね。

土田:今日一人で対談できますよ(笑)。

松田:それで思い出したんだけど、土田さんにラジオのゲストで呼ばれた時に、僕が喋るところを彼が全部喋っちゃって。妻に「あなた出てなかったでしょ」って言われましたね。気配は感じたけどって。確かに「うーん」しか言ってなかった。

土田:生放送だったんです。ラジオだからまずいと思って話しちゃいましたね(笑)。話を戻すと、最初に会った時、水沼くんもいたかもしれない。うちの何人かと、松田さんところのメンバーと何人かで飲んで。それからですよ、仲良くなったのは。

松田:『狂い咲きシネマ』はワイルドな芝居だったよね。ワイルドというか野蛮な、いや野蛮じゃなく、悪く言えば雑な芝居だった。いろいろと混乱してる感じがしましたね。

土田:混乱どころか、何にも考えてなくて、踊ったり、歌ったり……。

――松田さんはその翌年1990年に時空劇場を結成されました。土田さんはどういう印象でしたか。

土田:その頃、京都では西部講堂がアングラ系の劇団のメッカでね。僕はそこに集っていた人たちが苦手で。会うと説教とかされるから嫌だったんです。でも、時空劇場の旗揚げ公演を観にいったらその人たちがいるんです。終演後、松田さんが親しげに彼らと喋っているのを見て、ちょっと嫉妬したというか。友達に裏の顔があるのを知ったような気分でしたね。

松田:土田さんとは演劇のことをよく喋っていましたね。演劇でどうやって生活するのかってことをいち早く考えていた人だなぁと。そこには刺激を受けました。演劇ってやっぱり生活とつながってますから。

――1992年、時空劇場は第5回公演で『紙屋悦子の青春』を上演されます。「長崎三部作」と呼ばれる最初の作品ですが、この作品は扇町ミュージアムスクエアが企画したアクトトライアルに招聘されます。土田さんはこの連載でもその時のことを話されていました。(※連載第3回「創世期と今までとの決別」

土田:演劇祭で10劇団くらい参加していて、大阪の劇団は観客動員が多かった。下から二つがMONOと時空劇場。時空劇場が431人、MONOが430人だったんです。

――扇町ミュージアムスクエアは東京の劇団も公演するイメージだったので、当時の自分たちには少し敷居が高かったとも語られています。

松田:京都の劇団が大阪で公演するという意味では、土田さんたちが先鞭をつけてくれたと思います。大阪だけじゃなくて「演劇界の地図」みたいなものを土田さんは知ってたんじゃないかなと。東京でも公演されていましたし。もちろん東京でどんな演劇をやってるかっていうのはイメージではわかるんだけど、僕たちはきちんと身体的に経験をしたわけじゃなかったので。「僕たちも大阪でやんなきゃなあ」とは思っていたのですが、どうしたらいいか分からなかった。そんな時にアクトトライアルがありました。

――『紙屋悦子の青春』を観て、「自分たちもなんとかしないと」って土田さんは思うわけですけど。

土田:僕たちがやっていたのは、これまで観ていた演劇をなぞるだけだったというか。「新たな表現」を生み出すなんていう意識はなく、仲間内で「その場が面白けりゃいい」という感じで作品を作ってました。松田さんがさっき言ったように、当時の僕は「いつまでに大阪で公演をして、その次は東京に行く」というような、演劇界での出世みたいなことに執心していて、自分が本当は何をやりたいのか真剣に考えていなかった。だから『紙屋悦子の青春』を見た時に「あ」と思った。いつの間にか、松田さんは自分のやりたい表現に取り組んでいたんだと思い知りました。そう言えば松田さんからは売れたいとか、そういう話を聞いたこともなかったですから。

松田:うーん……。

土田:松田さんの長崎三部作は、 “小津映画のようだ”などと言われましたけど、跳んだり跳ねたりする芝居ばかりの中で、あれほど淡々とした世界を舞台にする劇団は関西にはなかったんです。この人は純粋に「こういうことをやりたい」という想いを持ってやっている。そのことに単純に衝撃を受けて、「自分は何をしていたんだろう?」と。ものを作っていく人間として「これはまずいな」と思いました。自分も考えなければ、これからはやっていけないと思い知らされました。

松田:でも演劇って「処世術」っていう面は大切なんです。僕らは「表現」と「演劇集団の運営」の関係をしっかり考えていなかっただけです。だから、そこにあんまり意識がいかなかったし、それが全面に出てくる集団じゃなかっただけだと思います。

 

取材・文/安藤善隆
構成/黒石悦子