2月にザ・フェニックスホールで
演奏生活60周年を記念するリサイタルを行う
左手のピアニスト、舘野泉インタビュー
(3/3)
「これを弾けたら心中してもいい」
■舘野さんはずいぶん若いうちにフィンランドへ向かわれましたね。何か思うところがあったんですか?
舘野:小さい頃からずっと本を読むのが好きで、今でも好きなんですけど、本を読んでいるといろんな世界が浮かびますよね。北欧に惹きつけられたのは中学生の頃です。最初はノルウェーの作家の児童文学か何かを読んで、それがすごくいいなと思ったんですね。それからだんだん北欧のいろんな作家の、フィンランドとかスウェーデンとか、あの頃はまだ北欧文学っていうのは日本では知られていなかったですよね。ただそういうものを読んで行って、他のところにはない文学だなと思ったんです。つまり文字を読んでいるんだけど、その中にある光が他のところと違うなと思った。そんな感じでした。それで慶應高校の時に海外にペンフレンドが欲しかったら学校が仲介をして探してくれるって言うので、学校を通して手紙を出したんですよ。スウェーデンとデンマークとフィンランド、ノルウェー。4カ国に出しました。そしたらフィンランドからだけ返事が来た。きっかけと言えばそれがきっかけです。
僕のおふくろっていうのは、仙台の出身なんですけど、3歳の頃に北海道の室蘭に移って18歳ぐらいまで過ごして。それは父親の仕事の関係でね、僕のおじいさんですね。おじいさんが医者だったんだけど室蘭へ移ってそこで生活して。だから彼女にすれば北海道の方が長いわけですよ。一番人間を作る大事な時ですよね。だから今も思うのは、僕はおふくろのことも好きだったし、それを通して感じられる北の雰囲気っていうのが好きだったんですね。それでいろいろと北欧のことも興味を持って。おふくろが70歳になった頃だったかな。聞いたことがあるんですよ。お母さんの若い頃は室蘭辺りは静かで良かっただろうねって。そしたら、いや私たちの頃は樺太の辺りに行くと海がとっても澄んでいて深くって、空も青くて、そして静かでとてもいいところだって聞いていたよって。その頃、同じように憧れがあったみたいですね。おふくろにも。
■舘野さんの音にあるのはその憧れみたいなものでしょうか。それが音の中にあって、きっと心に届くんだと思います。ただそれならなおのこと、体を壊されて、弾けるか弾けないか分からないという時期にどんな思いで過ごされていたのかを聴いておきたいと思います。
舘野:それがね、それが別に何とも思わなかったんですよ。ああ弾けなくなっちゃったんだっていう、そんな状態が2年間。そのあいだに右も動くようにリハビリでもすればよかったんでしょうけど、なんかそんな考えもなかったしね。で、周りの人は全部終わりだと思ってた。それで2年ぐらい経った頃、シカゴに留学していた息子(ヤンネ舘野/ヴァイオリニスト)がヘルシンキに帰ってきた時に、フランク・ブリッジ(1879-1941)って言うイギリスの作曲家の左手の小品の譜面を持って来てくれたんですよ。ブリッジは前から知ってたから、ああそうか、彼に左手の曲があるんだと思って、ひょいっと見たとたんに(左腕を素早く動かす)。もう本当に1秒2秒の間に、こうやって自分はやればいいんだって思ったんです。それでそのことがあった次の次の日に、間宮芳生さんにFAXを書いて「間宮さん、僕は2年間弾けないでいたけど、左手で演奏会しますから。東京と大阪と札幌と福岡、この4箇所で演奏会しますから、それで曲がないから曲を書いてください」って、FAX送ったんです。そしたら間宮さんから1日置いて、喜んで書きますって。これは僕からの舘野さんの復活へのお祝いだって、そう言ってくださって。それでそれが日本人の書いた初めての左手のための曲なんです。
■何か物事が全部自然に流れている感じなのが舘野さんらしいですね。すべて無理なく、それこそ憧れのおもむくままに。最後に新しいショーソンのCDのことを…舘野さんご自身もここに書いておられますね。「ショーソンは私の恋」と。これも時間を超えた憧れのように感じられます。

舘野:それは61年前に藝大の学生の頃に、演奏した音なんですよ。 ヴァイオリンを浦川宣也が弾いています。ヴィオラをN響へ行った白神が弾いていて、その白神と僕の弟(舘野英司/チェロ)と浦川が同級生だった。CDの解説には「これを弾けたらもう心中してもいい」みたいなことを書いてるんだけども、別に心中したい相手がいたわけでもないし(笑)。でもなんか気持ちとしてね。一生に1回と言うか、そんな演奏ですよね。一期一会というのかな。古い録音ですけど、たくさん聴いてもらえればうれしいと思っています。
■インタビュー:2021年1月12日 キョードー大阪にて。
(2021年1月22日更新)
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