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「ジョアン・ペドロ・ロドリゲスの映画を上映したい」という
思いから、海外との交渉、字幕作成などすべてを手掛けた
DotDash主宰・大寺眞輔インタビュー

 今春、東京・神奈川・大阪・京都で開催されたポルトガルの映画監督ジョアン・ペドロ・ロドリゲスの作品特集上映《ジョアン・ペドロ・ロドリゲス レトロスペクティヴ》。 その後、山口や仙台を経て、11月30日(土)より神戸アートビレッジセンターで開催される。配給・上映活動を行っているのは、映画評論家の大寺眞輔氏が立ち上げ、主幹をつとめるプロジェクト「DotDash」。海外との交渉、字幕作成などは自らの手で、上映のための資金はクラウドファンディングを通して集められた。

 正統な映画史の流れを汲みつつ、アクの強さを個性とするロドリゲス監督作品の魅力、個人レベルで映画を届けることについて、大寺氏に語ってもらった。

――大阪・京都でのレトロスペクティヴ開催時にはロドリゲス監督と、『追憶のマカオ』を一緒に作ったジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ監督との来阪会見も行われました(https://kansai.pia.co.jp/interview/cinema/2013-04/jprodrigues.html)。以降も上映は続いていますが、企画の発端はいつくらいでしたか?

「クラウドファンディングのための動画を撮ったのが去年の夏くらいだったので、それからだともう1年半近くですね。それ以前にも色々準備があったので、企画自体のスタートからだと、だいたい2年になります」

 

――あのメッセージ動画(https://readyfor.jp/projects/dotdashfilm)は、映画監督の冨永昌敬さんが制作したものでしたね。企画の発案からクラウドファンディングを行うまでは、どのような流れだったんでしょう?

「最初は本当に何もなく、ただ「ジョアン・ペドロ・ロドリゲスの映画を上映したい」という自分の思いしか無かったです。お金はないし仲間もいない状況でした。そこで、身近で形になるものからしていかなくてはいけないと考えて、仲間に関しては個人的な知り合いの若い世代に声をかけて一人ずつ口説きました。ただ、人は集まってもお金がない。じゃあ日本でも話題になり始めたクラウドファンディングを活用してみようと。正直、日本ではアメリカほど大きな金額は集められないこともわかってはいましたが、「まったくないよりはましだろう」と思ったし、クラウドファンディングを行うことで少なくとも注目が集まればいい、思いを同じくする人たちから期待されるのは嬉しいし、そこで協力も得られればいいなというところから始めました」

 

――メッセージ動画からは、ロドリゲス監督の作品を上映したいという思いだけでなく、大寺さん個人の現状への問題提起も受け取れます。

「自分とは関係のない、遠いところにある配給会社などの大きな組織、それが自分の関わりとは無関係に色んな映画、文化を選んで運んできてくれるのをただ待っているだけでは、もうダメなんじゃないか? そういう現在の状況に対する危機感みたいなものもありました」

 

――マイケル・チミノ監督作『天国の門』を配給されている樋口泰人さんを見ても(https://kansai.pia.co.jp/interview/cinema/2013-10/heavensgate.html)、映画の配給、上映の形態が変わりつつあることを感じます。「これを観てほしい、観せたい」という思いが出発点になるわけですが、大寺さんの場合はロドリゲス監督作品のどんなところに惹かれたんでしょうか?

「映画史の中で筋の正しい映画というか、「映画愛の強い人はこういう作品を撮りたくなるだろうな」と感じさせるし、はっきりと映画史の流れが見える。長らく映画が撮られてきた歴史の最先端にいて、今、撮るんだったら、こういう作品になるだろうと思わせてくれます。一方で、映画も100年以上作られてきたので、ちょっと疲れている部分もあります。それは何かというと、「すべて出尽くした感」というか、何をしても新しいものが生まれない、昔の映画に似てしまう。しかも、どうもポップで面白くて派手な映画を撮りづらい。昔の映画を知っているほどその記憶に押しつぶされる傾向がある。「これをしたら恥ずかしい」という風に、自分の撮りたいものよりも、してはいけないことが増えて、それが優先されてしまった結果、映画自体が衰弱した側面もあったんです」

 

――創作スタイルが一通り出尽くした後、その組み合わせを変えて見せる面白さも以前はありましたが、それももう手詰まり感がある。映画だけでなく、音楽などにいえることかもしれません。

「ところが、ジョアン・ペドロ・ロドリゲスの映画は、映画史の王道に乗ってその最先端にいる、“背筋のピンと伸びた”感覚と同時に、華やかで、「撮りたいものを撮って人を驚かせてやろう」という野心めいたもの、観ているこちら側がワクワクするような感覚、何かこの人は新しいとんでもないことを企んでいると感じさせるような感覚も持っている。古典的な権威や研究者的な映画の正当性にこだわる人であれば、こうしたどこか怪しいもの、まがい物っぽい魅力は胡散臭くて避けるべきものに見えるのかも知れませんが、私はそうは思わない。それは、現在を切り開く映画作家の魅力であり、色気だと思うのです。そこに惹かれましたね」

 

――では今回、神戸で上映される4作品それぞれの見どころをきかせて下さい。時系列に沿えば、『ファンタズマ』が最も古い作品です。

「ロドリゲス監督は映画学校で学んだあと、かなり長い間、現場で助監督などの様々なスタッフ経験を積みながら、自分で撮る準備をすすめていました。色んな映画を観たり、人と会って話したり。それを経て、いざ処女作を作ろうとしたとき、シナリオを書く前に半年間、リスボンの清掃業者について回って、取材しているんです」

 

――『ファンタズマ』は、リスボンでゴミ清掃員として働く青年の物語ですね?

「ええ。その物語を書くために密着して、彼らの生活を丹念に調べてからシナリオを書き始めました。現実に基づいて映画を撮ろうとしている、その態度ひとつを取っても、「この人はちゃんと現実に向き合って映画に取り組んで作ろうとしているな」と伝わります。また、『ファンタズマ』というタイトルはファンタジー、あるいは幽霊/ゴーストという意味も持っています。都市の現実を描いた作品であると共にそこから立ち上がるファンタジーを撮ろうとしている。ストイックかつエキセントリックな部分も非常に面白い。この作品を関西で上映するのは今回の神戸が初めてになるんです」

 

――ロドリゲス監督の長編としては最初の作品にあたります。処女長編ということで際立った点があるとすればどこでしょう?

「彼が映画ファンとして持っている一番コアでストイックな側面。そして、リスボンという都市で暮らす彼の本音や感情などのドロドロした部分も含めた、ジョアン・ペドロ・ロドリゲスの本質や人間性が垣間見える部分です。ある意味での恐ろしさも持った作品ですね」

 

――幽霊というモチーフは、『オデット』にも継承されていますね?

「そうですね、『オデット』にもその主題は入っています。メロドラマの名作を数多く残した巨匠ダクラス・サークにオマージュを捧げた部分もある。男女の恋愛を描いた物語ですが、男女がストレートにお互いを愛し合うのとは異なっています。元々ゲイのカップルであった男性が、パートナーを事故で失う。なぜか、その亡くなった男性を恋人だと思い込んでいる主人公の女性オデットは彼の子供を宿したと思う。つまり想像妊娠してお腹が膨らんでゆく、その不思議な現象が物語にスパイスを与えています。彼女とパートナーを亡くした男性との関係も複雑で、ねじれているのに、観ているとふたりにどんどん感情移入してしまう。ひねくれているのに、素朴に感動的でもある」

 

――「ねじれ」はロドリゲス監督作品の特徴のひとつですよね。

「そこがジョアン・ペドロ・ロドリゲスの不思議なところで、改めて考えると、物語は非常にねじくれた不思議な話なのに、観ている間はパワフルさに惹き付けられて、気がつけば泣いてしまっている。ハートに強く響く素晴らしい作品だと思います。『オデット』は私が初めて観たロドリゲスの作品なんですが、ラストでは号泣していました」

 

――大寺さんがご覧になった順は『オデット』が先でしたか。この作品は『ファンタズマ』から5年を置いて発表と、ちょっと間隔がありますが?

「なぜ5年も間が空いてしまったかというと、『ファンタズマ』を撮って彼はヘトヘトに疲れ果ててしまった。濃厚でパンチの効いた、エネルギーに満ちた作品を作ったあとに、一度リセットして自分の中を空っぽにして、再び映画に向かい合うには5年が必要だったそうです」

 

――なるほど。『ファンタズマ』から『オデット』には幽霊の主題を、そして『オデット』のメロドラマ性は、4年後の作品『男として死ぬ』が引き継がれているといえるでしょうか?

「メロドラマ的主題ではあるんですが、彼はこの作品をむしろ古典的悲劇として撮っていますね。主人公はリスボンで暮らすドラァグクイーンのトーニャ。つまり女装する男性。「彼女」の半生をずっと追いかけています。リスボンに住む彼女の抱える悩み、一緒に住む年下の恋人との関係、そして、どうしても複雑なものとなってしまった息子との関係。それらが緊密な構成の中、悲劇的なラストに向かって突き進んでいく。古典的な風格を備えた、ジョアン・ペドロ・ロドリゲスの作品の中でも最も大きさを感じさせられる作品です。クラシックな悲劇を見ているような圧倒的な“映画の存在感”に打ちのめされるものになっています。でも、そうした堂々とした古典的作品なのに、主人公は現代的風俗を感じさせるドラァグクイーン。そこもねじれているというんでしょうか、スパイスの効いた感じで、さらにこちらの「泣くものか!」というガードを下げさせられるような気がします」

 

――「ねじれ」から見ていくと、ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタとの共同監督・脚本作『追憶のマカオ』は現実と虚構のねじれを強調した作品ともいえますね。

「この作品は、実は最初はドキュメンタリーを撮るという名目でマカオから制作資金が出ました。ところが、彼らはそのお金でフィクションを撮っちゃった(笑)。今のポルトガルは財政的にとても厳しく、長編映画を作れるお金がなかなか集まらない。そこで苦肉の策として工夫を凝らした詐欺師的な作品ともいえますが、実際に観てみると、ドキュメンタリー的な前提を上手く生かしつつ、むしろフィルム・ノワール、昔のサスペンス映画や犯罪映画を観るような、ロマンチックな雰囲気とスケール感さえ感じさせられる見事な作品に仕上がっています。昔の映画の記憶と現在のマカオの風景がない混ぜになって、どちらがどちらと判別できない不思議な作りが面白い作品です」

 

――お話いただいた、作品ごとの特色を楽しんでほしいですね。大阪・京都の上映の際にも大寺さんにお話を伺いましたが、そのとき、ロドリゲス監督を「映画ファンはもちろん楽しめるけれど、そうではない人にもアピールできる、広い間口のある映画を作る監督だ」と語っておられた記憶があります。

「映画ファンとして見ると、やはり映画というのはこういう風に撮られるべきだという折り目の正しさのようなものを感じます。しかし同時に、たとえば『オデット』ならば突っ走る主人公にそれでも不思議に共感できるとか、『男として死ぬ』なら主人公の生き様に胸を打たれるといった、普通に見ていて普通に心に響く部分が多くある。観客の感情にダイレクトに働きかける力が強い監督といえます。また、映像にも華がある。五感を刺激されて、気がついたらいつの間にか映画に巻き込まれている感じがすると思います」

 

――そのような監督の映画が東京だけでなく、地方でも上映され、観客も観る機会を得られる。話は最初に遡りますが、大きくはない組織が海外作品を配給、上映活動を行っていくことの意義を改めておきかせ下さい。

「これは世界的な傾向でもありますが、ずっとフィルムというアナログなメディアに依拠してきた映画が、現在デジタルに変わりつつある。その中で、デジタル機器の導入ができないなどの理由によって、アジアの中でも独自の文化を誇ってきた日本のミニシアターという場所がどんどん消えつつある。今まで日本でたくさん上映されてきたアートフィルム、インディペンデント映画がなかなか上映されなくなっているのです。しかも、昔からの映画ファンや映画評論家が「こういう映画こそ観たい!」と思うような作品こそが観られなくなっている。今後、自分たちが見たいと思う映画がそれでも上映されていくためには、単に配給会社が買い付けるのを待つという受身の態度ではダメでしょう。個人でやる気のある人が自ら率先して動かないといけない。しかし、見方を変えれば、逆にデジタルになってそれが個人レベルで簡単にできるようになった時代でもあるということもできます。そうした時代をどう生きていくべきか。どういう時代にしていくべきなのか。それは、私たちひとりひとりに問われている問題だとも言えるのではないでしょうか」

 

――これから観ることが可能な映画の幅が狭くなりかねない、現実にもそうなりつつある状況ですが、反対に今だからこそできることもあるでしょうか?

「これはもう文化全般にいえることで、出版などもそうですし、不況の中、社会の変容の中で今まで通用してきた商売が通用しなくなってきた。様々な悪い状況が重なって、映画は今、非常に苦しい状況に立たされています。でも、そんな何もなくなってしまった状況だからこそ、今まで何かしたいと思って、でも何も出来ずにいた人たちが新しいことを始めるチャンスが巡ってきたとも言えます。デジタルは、その可能性をさらに広げてくれます。その気があって努力さえすれば、映画を海外から輸入して自分で字幕を付けてチラシやパンフレットまで作ることが出来るのです。私なんかは楽天的な人間だから、「何もないなら自分で作るしかない。いい時代がやってきたな」と感じる部分もありますね」

 

――大寺さんは今の苦しい時代も、いいタイミングだと考えて活動しておられるんですね。

「上映だけの問題ではないですよね。私は元々映画評論家ですけども、映画批評はずっと雑誌が担ってきたわけです。しかし、映画批評誌というもの自体も現在では存在が危うい。そうした状況の中で、紙の雑誌を新たに立ち上げるのは困難にしても、別の形は出来ないだろうか?今ではインターネットを使った様々な可能性も開けている筈です。実際、海外では様々な試みがある。しかし、色んなことが今の日本ではまだうまく形になっていません。ということは、逆にうまく形にしてやれば、そこに新しい可能性が生まれる筈なのです」

 

――モデルケースがあれば、それに続く人や発展もあるでしょうしね。レトロスペクティヴを踏まえた、今後の展望を最後にお話いただけますか?

「レトロスペクティヴを通して、色んな人と知り合いになりました。そして様々な人たちと会話し、議論し、意見を交わすことで、現状への問題意識やその打開を模索する気持ちが共通していることも分かりました。現在は確かに困難な時代です。しかし、だからこそ可能性に溢れた時代でもあるのではないか。そしてそれを実現へと向かわせるのは、私たちがこうした議論を交わしている、まさに今この場所からなのではないか。そこに熱い気持ちがある限り、そこには常に希望があるのではないか。そんな気がしています」

 

 

                 (取材・文 ラジオ関西『シネマキネマ』)




(2013年11月28日更新)


Check

Movie Data

『男として死ぬ』


『ファンタズマ』


『追憶のマカオ』

《ジョアン・ペドロ・ロドリゲス
 レトロスペクティヴ》

●11月30日(土)~12月6日(金) ※火曜休館
 神戸アートビレッジセンターにて開催

※上映時間は劇場HPをご確認ください。

【上映作品】
『ファンタズマ』(2000/90分)
『オデット』(2005/98分)
『男として死ぬ』(2009/133分)
『追憶のマカオ』(2009/82分)

《ジョアン・ペドロ・ロドリゲス
 レトロスペクティヴ》公式HP
http://dotdashfilm.com/?page_id=32

神戸アートビレッジセンターHP
http://kavccinema.jp/


Profile

ジョアン・ペドロ・ロドリゲス

João Pedro Rodrigues●映画監督。1966年ポルトガル、リスボン生まれ リスボン映画演劇学校で、「ノヴォ・シネマ」の映画監督アントニオ・レイス(『トラス・オス・モンテス』)などのもとで学んだ後、アルベルト・セイシャス・サントスやテレーザ・ヴィラヴェルデらのアシスタントとして映画界に入る。 2000年に撮られた処女長編『ファンタズマ』は、ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門でプレミア上映され、大きな話題を呼んだ。2005年の2作目『オデット』は、カンヌ国際映画祭に出品され特別賞を受賞したほか、世界の数多くの映画祭に出品。続く2009年の長編3作目『男として死ぬ』は、カンヌ国際映画祭「ある視点」部門でプレミア上映されたほか、トロント国際映画祭、ニューヨーク映画祭、サンフランシスコ国際映画祭など数多くの映画祭に出品され、この年のフランス「カイエ・デュ・シネマ」誌の年間ベストテンに選出された。2010年にはハーバードでアメリカでの初めてのレトロスペクティヴが開催された。2012年のリオ・デ・ジャネイロ国際映画祭では、マノエル・ド・オリヴェイラと並んでジョアン・ペドロ・ロドリゲス特集上映が行われた。最新作『追憶のマカオ』は、第65回ロカルノ国際映画祭のインターナショナル・コンペティション部門に正式出品され、トリノ映画祭ではドキュメンタリー部門でグランプリを獲得した。


 

大寺眞輔

おおでら・しんすけ●DotDash主宰。1965年生まれ。早稲田大学大学院修了。1990年前後から「キネマ旬報」「文學界」「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」など、さまざまな雑誌で映画批評を執筆。産経新聞や時事通信社などに書評を寄稿する。著書として、「現代映画講義」など。「黒沢清の映画術」では、インタビュアーを務める。「金曜たぶろっど!」「関根勤の映画の時間」などテレビにも出演。2004年から現在まで、横浜日仏学院でシネクラブを継続している。