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土田英生
MONO代表・劇作家・演出家・俳優
1967年愛知県大府市まれ。1989年に「B級プラクティス」(現MONO)結成。1990年以降、全作品の作・演出を担当。1999年『その鉄塔に男たちはいるという』で第6回OMS戯曲賞大賞受賞。2001年『崩れた石垣、のぼる鮭たち』で第56回芸術祭賞優秀賞を受賞。劇作と平行してテレビドラマ・映画脚本の執筆も多数。2017年には小説『プログラム』を上梓。
〈MONO特別企画 vol.7〉
MONO「涙目コント」
一般発売日:6月14日(金)
Pコード:494-791
▼8月9日(金) 19:30
▼8月10日(土) 15:00/19:30
▼8月11日(日) 13:00/18:00
▼8月12日 (月・休)15:00
THEATRE E9 KYOTO
一般-3300円
U-25-2000円(25歳以下、要身分証明書)
【脚本・演出】土田英生
【出演】奥村泰彦/金替康博/土田英生/石丸奈菜美/高橋明日香/立川茜/渡辺啓太
※整理番号付。※未就学児童は入場不可。公演当日、U-25は要身分証明書。
第9回「MONO」土田英生
MONOの30年の道のりをメンバーや関係者の話から紐解く連載の第9回。
前回まで4回にわたって新メンバー4名のインタビューを
お届けしてきましたが、土田さんのMONO「歴史篇」に戻ります。
劇団が浮上するきっかけとなった公演から「MONOクラシックス」誕生秘話、
メンバーが固定される頃まで(第4回掲載)を経て、
今回はOMS戯曲賞を受賞、事実上の東京初進出された頃の話をお届けします。
――前回のお話は、「今につながっているのは完全にこの公演」とおっしゃる『Holy Night』(1995年12月2・3日 扇町ミュージアムスクエア)を経て、『約三十の嘘』(1996年7月5~7日 扇町ミュージアムスクエア)『-初恋』(1997年5月16・17日 ウイングス京都 5月30日、6月1日 AI・HALL)を上演され、次々とアイデアが浮かんできたこの時期にはさらに『赤い薬』(1997年9月26~28日 扇町ミュージアムスクエア)、『きゅうりの花』(1998年5月3・4日 利賀山房 6月4~7日 扇町ミュージアムスクエア)を発表、DVDで「MONOクラシック」として発売されている一連の作品の幕開けとされた頃までをお聞きしました。今回は『その鉄塔に男たちはいるという』(1998年12月10~13日 AI・HALL)からよろしくお願いします。まずこの公演を男5人だけでやろうと思ったきっかけはなんだったのでしょうか。
『きゅうりの花』で金替くんが入団し、水沼、奥村、尾方、土田、女優の西野、増田を含めた7人体制になりました。誰も呼んでない “MONOクラシック”時代の幕開けだったんですけど(笑)、少し趣向を変えたことをしたいと考えました。で、’95年に男性だけで上演した『路上生活者』がなんとなくおもしろかったことを思い出して、男性がだらだらしゃべっている芝居を作ってみようと思ったのがきっかけでした。
女優二人も快諾してくれたのを覚えています。この頃はスラスラ書けていたという話をしましたが、夏に『きゅうりの花』をやって、冬に『その鉄塔に男たちはいるという』と、短い間隔で新作公演をしているというのは、やっぱり “ノッていた”時期だったんだろうなとは思いますね。その時は苦労しているはずなんですけど実際に評判も良かった。この頃の作品は今も他劇団でよく上演してもらっていますし。
――戦意高揚のために戦場に送り込まれた慰問部隊の4人が逃げ出し、森の中の鉄塔に隠れているところに、ひとりの脱走兵がやってきて…というストーリー。それまでの土田さんと比べると、その設定も含め、作品性が異なるような気がします。
僕は決して社会派でもなんでもないんですけど、ちょうど、テポドンが日本海に落ちたりする事件があって…(*編注:1998年8月31日、北朝鮮がテポドン=弾道ミサイルを発射。津軽海峡から日本列島を超え飛翔。第1段が日本海、第2段が太平洋に落下)。あれからも何度も同じようなことは起こりましたけど、それに対して「いざとなったら戦争だ」というような意見が初めて出てきた頃でした。僕としてはそんな世間の声が急に怖くなったんです。だからそのことを書いてみようと思ったのがきっかけでした。あとは、これは今もそうなんですけど、僕はコメディとコメディじゃないところの境界線みたいなところを目指しているんですが、この時期はお客さんが求めているものが、明らかに“笑い”に偏っていた。今から考えると『きゅうりの花』なんて、全然笑える話じゃないんです。ギャグなどはほとんどないしっとりした作品なんです。でもめちゃくちゃウケた記憶があるんですよね。確かに『約三十の嘘』なんかはコメディ色も強かったとは思うんですけど、そうじゃない作品でもお客さんは笑う。最初から笑いだけを期待されている状態で…。そんな状態が気持ち悪かったんですよね。そういう時期だからこそ、逆にハードな設定の舞台をやっても大丈夫なんじゃないかっていうような気持ちがあったような気がします。
第23回公演『その鉄塔に男たちはいるという』 1998年12月10~13日 AI・HALL
――この作品は、OMS戯曲賞の大賞を受賞されましたね。
賞をいただいた頃と今の気持ちはだいぶ違いますから、そのまま振り返ることは難しいんですけど、とにかくこの頃の僕は、戯曲賞に対するコンプレックスが強かったんです。それは理由がはっきりしていて、京都で共に芝居を作ってきて、いろいろ教えてもらい、切磋琢磨してきた松田正隆さんと鈴江俊郎さんが何十年ぶりかに東京以外の劇作家で岸田國士戯曲賞を受賞(第40回、1996年度)、しかもそれが同時受賞だった。だから一躍京都にスポットが当たった時期でした。その前にマキノノゾミさんたちが全国で活躍し始めていましたけど、そういうことも合わせて京都っていう土地に演劇界の視線がすごく集まった時期に、「自分は何ものでもない」っていう卑屈さがすごく強かった。だからそんな時期にOMS戯曲賞をいただいたこと自体はすごくうれしかったのですが、それより、もう賞のことを気にせずにやっていけることにホッとしたっていうのはありましたね。その後は岸田國士戯曲賞でも同じような経験をしていますけど(笑)。ただ、とにかく自分とは無縁だと思っていた“賞”というものの呪縛から逃れられた、いいきっかけだったかなと思います。
――次の作品は『燕のいる駅』(1999年7月23~25日 近鉄アート館)です。燕が巣を作る景色の中にある「日本村四番」駅が舞台。ある日、駅に電車が来なくなる。空には大きなパンダの形をした雲が浮かんでいる中、地域の多くの住人は逃げ出し、取り残された駅員と乗客は不安の中…。世界の終わりの予兆が、不気味に徐々に大きくなる雲の姿と共に描かれる作品でした。
今は全国に広がっていますけど、劇作家が役者と出会って試演会をするCTTという、京都で始まった企画があります(*編注:1995年設立。Contemporary Teater Training。演劇やダンスなど舞台芸術の人材育成を目指して舞台作品の試演会を開催する企画)。試演会から本公演に繋げていくための場を杉山準さんが発起人になって作られたんですが、試演会だけではなく「特別企画」として、少しCTTがお金も出して、プロデュース公演もやろうという企画が立ち上がって。その第一回は鈴江さんがやられていると思いますが、その第二弾をやってくれと言われて、それでオーディションをして13人くらいの登場人物でやったのが『燕のいる駅』の最初のバージョンです。(1997年 アトリエ劇研)。その時のバージョンはのちに東京グローブ座と大阪厚生年金会館で嵐の相葉(雅紀)くん主演で公演されました(2005年9~10月 演出:宮田慶子)。その作品をMONOメンバー用に7人に書き直してやれないかなと思ってやったのがこの作品です。(*編注:その後、本作はさらにバージョンを変え、土田英生セレクションVol.2として、酒井美紀、中島ひろ子、千葉雅子らが出演し2012年5~6月 三鷹市芸術文化センター、サンケイホールブリーゼほかで上演)
第24回公演『燕のいる駅』 1999年7月23~25日 近鉄アート館
――CTT特別企画で公演されたものとの違いはどういう部分だったのでしょうか。
最初のバージョンは戦争前夜のことを中心に書いたもので、ラストが「戦争が始まりました」となって終わる。その中心部分を大幅に変えて、設定を世界最後の日にしました。燕が巣を作る古い駅舎で、天気のいい日にのんびりした会話が進んでいくのですが、その背後ではとてつもない恐怖が進んでいくという作品になりました。この頃は関西だけで公演をしていたんですが、とにかくチケットが売れて満員の状態でした。『きゅうりの花』が扇町(ミュージアムスクエア)でパンパンの状態、『その鉄塔に男たちはいるという』もAI・HALLでわりと入って、『燕のいる駅』は近鉄アート館でした。エンタテインメント系では、遊気舎などはやっていましたけど、ストレートプレイで(近鉄)アート館でやっている関西の劇団は少なかったと思います。そんなことも含めていい思い出しか残っていないですね。だから劇団を取り巻く環境としては順風満帆だったと思います。客演を呼ばずに劇団メンバー7人で公演する体制も当たり前になり、自然体でいるのに調子がいいという(笑)。これ、まだ本格的に東京公演をする前ですね。
――そうですね。次の公演が事実上の東京初進出となる『-初恋』(1999年10月15・16日 アトリエ劇研、10月19~21日 東京芸術劇場小ホール1、11月18~21日 AI・HALL)です。これは東京国際舞台芸術フェスティバル リージョナル・シアターシリーズへの参加でした。話は少し戻ってしまうのですが、東京進出について、まず『路上生活者』(1995年2月18・19日 駒場アゴラ劇場)で東京に行かれたきっかけをお話しいただけますか?
アゴラに行った頃はとにかく焦ってたんです(笑)。(惑星)ピスタチオとか、同世代の劇団は東京でも売れてましたから。“早く東京公演しないと”という気持ちになってたんですね。’93年に名古屋公演をした時と同じです(連載第3回、『さよなら、ニッポン』の項参照)。劇団で、そのあたりのことをきっちりとした戦略を練りながらはやっていませんでしたから。だから初めての東京進出、アゴラ劇場での公演もそういう感じだったんです。焦って「東京公演を一度やらなければ」というだけだったから、赤字だけ作ってしまって…。だからしばらくは東京公演のことは考えませんでした。
第25回公演『-初恋』 1999年10月15・16日 アトリエ劇研、10月19~21日 東京芸術劇場小ホール1、11月18~21日 AI・HALL
『-初恋』を東京に持っていったのは、関西で公演をした時に「評価してもらった」という思いがあったからでしょうね。お客さんにも関係者のみなさんにも評判がよかった。だからフェスティバルに参加できるならそれを持っていこうと。でも、この時の客席のことは忘れられません。客席は満席なのに開演してアタマの1時間くらいはクスりともしなかったですから。出来は悪くないのに(笑)。リージョナル・シアターシリーズという名の通り、地方に活動拠点を置く劇団が東京で公演する企画で、参加していたのは、弘前劇場、太陽族、桃園会、ジャブジャブサーキットなど。その中で僕らがトップバッターだったんですけど、今と違ってインターネットが発達してませんから一般のお客さんには私たちの情報はあまり届いていない。けど、一部の関係者には地方の劇団の評判は聞こえてたんです。だから、「話題になってるらしいけど、一体どれ程のレベルだろう」という感じで、お客さんが僕たちを値踏みしてたんだと思います。だから、後半になって徐々に緊張がほぐれてからは、笑ってもらえました(笑)。この公演が終わったあとに、いろいろ仕事の話もいただくようになったり、そのあとの劇団の状況も考えると、東京でも注目してもらえた大きなキッカケだったと思います。
取材・文/安藤善隆
構成/黒石悦子