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プロフィール

高橋明日香
1988年10月27日生まれ。兵庫県出身。
幼少期からダンス、バレエ、声楽などを学ぶ。現在は舞台を中心に活動。近年の出演作に「私のホストちゃん」(作・演出村上大樹)チーズtheater『川辺月子のために』(作・演出・戸田彬弘)など。MONO特別企画vol.5『空と私のあいだ』の出演をきっかけに、MONO『のぞき穴、哀愁』『ぶた草の庭』『裸に勾玉』『ハテノウタ』『怠惰なマネキン』『隣の芝生も。』などに出演し、2018年MONOに参加。

第7回「ROOKIE’S ③高橋明日香」

MONOの30年の道のりをメンバーや関係者の話から紐解く連載の第7回。
前々回から、2018年に新しくメンバーに加わった
4名のみなさんのインタビューをお届けしていますが、
今回は、小さな頃から演劇に親しんできた高橋明日香さんに話を聞きました。

 

――これはメンバーのみなさんにお聞きしていく質問です。高橋さんが演劇というキーワードに出会ったのはいつ頃ですか?

母親が宝塚歌劇のファンなんです。小さい頃から兵庫県宝塚市に住んでいたこともあって、自分では覚えていないんですけど、3歳の頃から宝塚歌劇に連れて行ってもらっていたそうです(笑)。そうやってずっと小さい頃から演劇には接していたので、物心ついたときにはすでに演劇と出会っていました。私を撮ってくれている昔のホームビデオも、私が宝塚歌劇のショーを観ながら踊っている映像ばかり(笑)。普通のテレビ番組より宝塚歌劇が流れている家に育ちました。音楽も宝塚歌劇の音楽しか聴いたことがなくて、みんなが聴いているようなJポップの曲は知らなかったです。友達とカラオケに行っても知らない曲ばかりなので、歌えなくて困りましたね。あとはその頃、宝塚歌劇を卒業した方がやっている演技やダンス、バレエ、声楽の指導をしてもらえるスタジオに入っていて、そこで子供ミュージカルやバレエの公演にも出ていました。だから3歳の時に初舞台も踏んでるんです(笑)。

――となると、家族一丸で、宝塚音楽学校を目指されたのでしょうか。

いえ、そうではないんです。両親は「この子は容姿が…」と、宝塚に入れようとは思わなかったみたいです(笑)。私自身も、そんな小さい頃から華やかな世界を目の当たりにしていたので、手足が長くて、可憐な人しか入れないというのは分かっていました(笑)。だから試験も受けなかったし、宝塚は好きだったけど入りたいとは思わなかったですね。私、宝塚北高校演劇科出身なんですけど、同級生に聞いたら、小さい頃から宝塚に親しんでいる人や、親が宝塚を好きな人は、やっぱりみんな受験してるんです。でも私は違いました。

――では、宝塚歌劇以外の演劇に出会ったのはいつ頃ですか?

子供ミュージカルでご一緒した、元宝塚歌劇団の壮一帆さんのファンクラブのお手伝いの方が、劇団「ランニングシアターダッシュ」の方だったんです。だから小学校6年生の時に、ランニングシアターダッシュの舞台を伊丹のAI・HALLで観たのが最初だと思います。野球を題材にした舞台で、それがすごく面白くて。宝塚歌劇以外にも面白いものがあるんだって(笑)。それからランニングシアターダッシュの舞台に通うようになりました。解散された後は、劇団員だった岡部(尚子)さんが中心となって「空晴」を結成されたので、そちらに通うようになりました。だから、その頃は宝塚と空晴を観ていましたね。

――その流れもあって、宝塚北高校の演劇科を志望されたのですか?

高校は、親から勧められたんです(笑)。「バレエとか歌とかを教えてくれる高校があるみたいよ。そこ受けたら?」と言われて「じゃあ面白そうだし、そうする」って。自分では調べてなくて。そういう性格なんですね、私(笑)。入学してからは、歌や踊りを“学ぶ”ようになりました。クラスの男女比はだいたい女子が40人中38人くらい。ミュージカルを作って、幼稚園や地域の特別支援学校に公演に行ったりしていました。高校の先生の中に、(兵庫県立)ピッコロ劇団の代表をされていた秋浜(悟史)先生がいらっしゃって、秋浜先生から教えていただいた劇表現やエチュードの方法論は本当に貴重な体験だったと思います。私が高校2年生になる時に亡くなられてしまったんですが…。高校時代は毎日どっぷり演劇に浸かっているような生活でしたが、私の中ではクラスのみんなと部活動をしているような感覚でした。卒業公演に向けて、休み時間もなくずっとやっていましたね。

――その頃は、どんな演劇を観られていましたか?

その当時は蜷川幸雄さんの芝居にハマっていて、藤原竜也さんを追いかけていました(笑)。蜷川さんの芝居は衝撃的で、それを友達と観に行くのが一番楽しかったです。『身毒丸』とか『天保十二年のシェイクスピア』とか観に行きました。あと宝塚も、劇団四季も観ていましたし、すごい数の舞台を観ていた時期ですね。劇団☆新感線のファンクラブにも入っていました(笑)。演じるのも好きだったのですが、観るのが大好きな演劇少女で、いろんな演劇を観ることに幸せを感じていました。親もいろんな舞台を観てほしいと思っていたみたいで、お金を払ってもらいながら、いろんないい作品を観させてもらいました(笑)。

――MONOとはまったく違う系統ですね。

そうですね(笑)。空晴は観ていたんですが、その系統のお芝居で初めてみたのは永井愛さんの作品でした。高校生のときに近畿大学の舞台芸術科の卒業公演を観て「わ、スゴい!」って思って、そこから「この大学に入りたい!」って今度は自分で思うようになっていました。母親はミュージカルとかが好きなので大阪芸大にいくのかなと思っていたみたいですけど(笑)。近畿大学に進学して、竹内(銃一郎)さんや水沼(健)さんのもとで学ぶことになって、ミュージカルよりも小劇場で作るアートな世界のほうが楽しくなっていきました。大学では竹内さんが主宰している「DRY BONES」という劇団にも入っていました。

――MONOと出会うのはいつ頃ですか。

初めてMONOの公演を観たのは大学3年の時です。“水沼先生”と卒業制作をすることになり、『赤い薬』の再演(2010年)のチラシが黒板に貼られていたのを見て、観に行きました。すごく面白くて。その頃はスクエアとかも観ていたので「わぁ、スクエアみたい!」って思ったのを覚えています(笑)。MONOって面白いな、土田さんてあんな作品を書くんだな、と思ったのがMONOの作品との出会いですね。

大学の授業では、水沼さんみたいな先生は初めてでした(笑)。高校では演劇科の先生から「姿勢をよくしなさい」とか「大きな声でしっかり言いなさい」というような指導を受けてきたので、水沼さん独特の、芝居に対して指導をするというよりも、“導いてくれる”ようなやり方にどんどん惹きつけられていくようになりましたね。大学で一緒に作品を作らせていただいたときも「そういう感じだったら、こういう風にやってみたらどうかな」って、否定をせずにどんどんアイデアに乗っかってきてくれる。演劇の面白さが広がっていくような気がしました。

で、そろそろ卒業というときに、深津(篤史)さんにも出会って、『オダサク、わが友』(2011年、作・北村想、演出・深津篤史)に出ることになりました。でも卒業を控えているのにまったく就職活動をしていなくて。親は就職してほしかったみたいで、私もいずれは就職するけど「今は『オダサク~』に出ることが決まっているから、終わってから考えるわ」って言ってました(笑)。公演が終わってから、“演劇を続けたい”という思いだけで、東京の劇団のオーディションを受けに行きました。でもそこで、こんなに本気で演劇をやろうとしている人がいるんだってその多さに衝撃を受けて「そりゃ私、受からんわな」と。で、私の演劇人生もここで終わるのかなと思っていたときに、友達からMONOの特別企画『空と私のあいだ』(2011年)のオーディションがあることを聞いて受けに行きました。それが土田さんとの出会いです。

――土田さんの演出はいかがでしたか?

自分の芝居がすごく下手なんだって思い知らされました。大学でもやってきたし、今までいっぱい演劇も観てきたし、自分はできると勝手に思い込んでいたところがあったと思うんです。でも土田さんの演出を受けて、そんな私の鼻がへし折られて「ああ、本当に下手なんだ、なんにもできてない」っていうことに気付かされました。最初はそれで落ち込んだんですけど、土田さんの演出が面白すぎて、稽古自体はずっと楽しかったです。おちょけて笑わせてくれるし、エンタテインメントを見ているかのような感じで演出してくれて、いつの間にか作品ができているのはすごいなと思いました。その時、MONOの舞台に特有の“力の抜け具合”というのがどういうものなのかを教えていただいたような気がします。

その後に観たMONOの『うぶな雲は空で迷う』(2013年)は私の人生を変えた作品でした。実はその頃2年だけ就職していて、ヨガのインストラクターをしながら、土田さんと年に1回だけkittというユニットで一緒にやらせていただいていました(*編注:高坂勝之、岩田奈々、高橋、土田によるユニット。第1回公演『梢をタコと読むなよ』2012年11月AI・HALL)。そのときに土田さんから「kittを東京でもやりたい。だから役者に専念するかどうかを考えてほしい」って言われて…。『うぶな雲は空で迷う』はそれを言われた後くらいに観たので、いろんなシーンと自分の思いが重なって、「今、演劇をやらない人生を選んだら、このまま年を重ねていったときに後悔するだろうな」と思ったんです。ヨガは何歳になってもできるけど、「演劇はずっとやり続けないとだめだ」って。そして観終わった後、土田さんに「会社辞めて東京行きます」と伝えました。(*編注:kitt第2回公演『ウィンカーを、美ヶ原へ』は2013年に下北沢・駅前劇場で上演された)東京に出た時、土田さんは「東京でいい劇団を紹介するね」っていくつか紹介してくださって観に行ったのですが、やっぱり私にとっては土田さんの作品が一番で、「土田さんの作品より面白いと思ったところがなかったです」と言ったら、『のぞき穴、哀愁』(2014年)に出させていただくことになりました(笑)。


――高橋さんは演劇に対して「楽しい」という感覚をずっとお持ちですね。MONOのメンバーになる話を受けたときはどう思われましたか?

MONOの公演に客演させていただいている時期が長かったので、劇団員になるというのがピンときませんでした。私がMONO以前に観てきた演劇は“前に前に”くるような感覚のものが多かったので、『赤い薬』を観たときに、力の抜けた表現で、アンサンブルとして成立している劇をやっているMONOに惹かれたんだと思います。それは、私自身がどちらかと言えば、前に出るというよりは、みんなで楽しくなにかを作るのが好きだったということがあったからかもしれません。だから「MONOっていいな」ってずっと思っていました。でも何年も一緒にやっていると、MONOのお兄さんたちのすごさも分かるし、5人のアンサンブルの完成度の高さも分かる。そこに異物が入るっていうのは、いちファンとしても嫌だったんですね。5人で最後までやってほしいという気持ちもあったし、土田さんにそういう話があるって最初に言われたときは、「私は反対です。入りたくないです」って。「今までみたいにkittや歪(編注:土田英生による俳優育成講座の受講生だった女優3人、阿久澤菜々、石丸奈菜美、高橋によるユニット)とか、そういう形でやっていったらいいじゃないですか。私たちを入れる必要ないじゃないですか」と伝えました。でも土田さんはそんなことも含めてひとつにしたい。もうMONOのお兄さんたちは年に1回しかMONOをやらないというスタンスになってきているから、「もっとMONOとして1年の中で何回もやりたい」と言われて、納得したんです。土田さんがやりたいことを具現化するんだったら、kittでもなく歪でもなくMONOとしてやるべきで、私もその中にいたいと思いました。

――そんな経緯で劇団員として参加され、最初の本公演が終わったわけですが、土田さんが作り上げるMONOの世界観の中で、自分が果たす役割は何だと思いますか?

土田さんの作品は女性が強いじゃないですか。で、男性がかわいらしくて、弱いみたいな…。そんなときに私みたいな人間が50歳のおじさんたちに怒ったり、ある意味、活を入れるみたいな部分があって、それが劇のポテンシャルを引き出すことにつながればいいなって思っています。あと「MONOの中で各人を家族に例えると」っていう企画をやった時、私は、全員から「おばあちゃん」と言われたんです(笑)。MONOにいる時は力が抜けているから、確かにそれぐらいぼーっとしてると思うんですね。「ああ、みんな楽しくやってるな」っていう感覚でいられることで、自分も結構幸せな気持ちになれる。だから、若手の一員としてMONOに参加させていただくことになったんですけど、みんなを見守るのも役割なのかなと思います。

――最後の質問です。これもみなさんにお聞きしていきますが、なれるとしたらメンバー中の誰になってみたいですか?

憧れ=尾方さんですね。尾方さんは、土田さんが言ったことをすべてこなすんですよ。ただ器用なだけじゃなくて、それが演出を越えた部分での演技につながっているんだと思います。私は、今はどうしても土田さんからアイデアをいただいて、それをよりよくしていこうとするしかできないのですが、そこを越えていく尾方さんってすごいなと思います。あと尾方さんはいつも稽古場に、その舞台の演技に対するネタを持ってきて、土田さんを“笑かす”こともできる。それを見ている土田さんが本当に楽しそうで。私もああいう風に土田さんを笑かしたいなって思います。


取材・文/安藤善隆
撮影/福家信哉
構成/黒石悦子