ホーム > MONO 30周年特別企画『30Years & Beyond』 > 第6回「ROOKIE’S ②」立川 茜
立川茜(たつかわあかね)
1992年11月16日生まれ。広島県出身
2014年、広島アステールプラザのワークショップで演劇に出会い、活動を開始。これまでに舞台、日本劇団協議会『R.P.G』、映画『Lumieres d’ ete なつのひかり』に出演。MONO特別企画vol.6『怠惰なマネキン』、第45回公演『隣の芝生』出演を経て、2018年MONOに参加。
第6回「ROOKIE’S ②」 立川 茜
MONOの30年の道のりをメンバーや関係者の話から紐解く連載の第6回。
前回から、2018年に新しくメンバーに加わった4名のインタビューを連続してお届けしていますが、今回は劇団最年少の立川茜さんに話を聞きました。
――これはみなさんにお聞きしていく質問です。立川さんが演劇というキーワードに出会ったのはいつ頃ですか?
幼稚園の頃に、劇団四季によく連れて行ってもらっていました。それが最初だと思います。親が転勤族でその頃は九州に住んでいて、福岡に専用劇場があったんです。そこで『キャッツ』やディズニーのミュージカルなどを観てました。それがすごく楽しくて。だから小学校の低学年くらいまでは「私、劇団四季に入る!」みたいなことを無邪気に言ってました(笑)。そんなこともあってバレエを習ったり、ピアノを習ったりはしていたんですけど、段々、そんな思いからも離れていくことになって…。引越しが続いて習い事が続けられなかったり、思春期になって現実も知って、“大きな夢を言って何だか恥ずかしい”って思うようになってしまったんです。でも、一方では自分はあんなにミュージカルが好きだったのに、なんで距離をとってしまってるんだろうみたいな気持ちもあって。だから演劇部にも入らず、いつも横目で見てるっていう微妙な距離のまま、観る側にまわって、それが大学生の頃まで続いた感じです。でも観る側と言っても、ミュージカルばかりで小劇場は観たことがなかったですね。
――劇団四季のどんなところがお好きでしたか。
「圧倒的なパワーを浴びている感覚」は覚えていて、それを感じることができる劇場という空間が好きだったというのもあるかもしれません。大きな劇場ですが、舞台と客席の空気が一気に高揚していく様子を感じられる。そうやって劇場で“体験”できる感覚が楽しかったし、気持ち良かったのかもしれないですね。
――そんな立川さんが、舞台の“こちら側”に立つきっかけをお教え下さい。
2013年の夏から14年の夏にかけてフィンランドに1年間留学していたんですが、たくさん刺激を受ける中で、ふと帰国後のことを考えて。もう4年生だったので、「学生生活の最後に何をしよう」って。タイミング的に「やりたいことができるのは最後だな」という思いがあったので、「本当にやりたかったことはやったかな、やり残したことはないかな」って。卒業したら、就職してバリバリ働くぞ、と思っていたので「やりたかったことをやりきって、社会人になろう」って思ったんですよ。そう考えていると、自分の中で中途半端になっていること、避けてきていたものがあったと気付きました。やっぱり、ずっとお芝居のことが気になってたんですね。それでやるだけやって区切りを付けて、スッキリしたいなっていう思いで、地元でやってる演劇のワークショップを調べ始めたんです。
――選ばれたのは幼い頃から親しまれていたミュージカル系のワークショップ?
そうではないんです(笑)。単純に自分でも参加できそうっていう雰囲気のところを探して、それが広島アステールプラザの演劇学校でした。数ヵ月という期間で、初めての人でもOKのところ。プロの演出家さんから教えてもらえて、座学から実技までいろんなプログラムがあって、最後は発表会もあると知って選びました。発表会があることで、完結して自分で満足というか、納得ができるんじゃないかなっていう意味もあって選んだのかもしれません。
――どんなワークショップだったんですか?
「俳優コース」に所属したんですが、シアターゲーム(*編注:ゲーム感覚で演技に連結する効果を狙い、俳優としての技術を高める訓練)をするとか、セリフを読んでみようとか。後半からは台本を用意してもらって、発表会に向けての稽古をしました。お芝居に初めて触れるのも楽しくて仕方がなかったし、そこにいる人たちもみんないい人たちで。稽古はもちろんですけど、みんなで集まること自体楽しみになっちゃっていました。年齢とか仕事とかキャリアも関係なく、みんなでひとつの芝居を作ろうっていう空気も良くて。私がいた時は、17~18人くらいの人数でやってましたね。
――そこに土田さんが来られたんですよね。
土田さんは「演出家コース」の講師として来られていて、その「演出家コース」に「俳優コース」の人たちが出演者として参加することになったんです。そんな経緯で土田さんとは出会いました。最初のイメージは、ホント私の勝手なイメージで申し訳なかったのですが、「ザ・業界人」。よくメディアで誇張されて出てくるようなコテコテのテレビ業界のプロデューサーさんみたいだなって(笑)。みんなに気軽に挨拶されて、肩にカーディガンこそ巻いてなかったですけど、色の入ったメガネをされてましたし、そんな感じに見えちゃって(笑)。「演出家さんて、ホントにこんな感じなんだ」って。でも多分、初めての人が多かったから、みんなに気を遣って、テンションも上げ気味で話していただいていたので、そう思ってしまったのかもしれません(笑)。
――実際、土田さんの演出を受けられていかがでしたか。
ワークショップは、「演出家コース」の受講者の方が実際に出演者たちに演出をつけて、その稽古の様子を土田さんが見てくださるという形でした。その時にすごく印象に残っていることがあるんです。私がひとつのセリフを言った後に、落ちている花束に気が付いて、歩いて行って拾いあげるシーンがあったのですが、「動作の間(ま)が気持ち悪いな」「なんか違和感があるな」って思ったんです。単純な事なのに、なぜかすごく動きづらい。でもその違和感の正体も原因も自分では分からない。「何でここを歩かなきゃいけないんだろう」「この間はどうすればいんだろう」って、ずっとモヤモヤしてたときに、土田さんが休憩中に「あのシーン、気持ち悪かったでしょ。それはつながっていないからだよ」って声をかけてくださったんです。
「最初のセリフの時は、対象の花束に対して呼吸(重心)が上がったでしょ。そのままの状態で、花束に向かっていくんだよ。歩くモチベーションは花束になるわけで、それなら呼吸もそのままで、落とさずにつなげていけばいいんだよ」って。休憩後にやってみたら本当に違和感がなくなって。そういう発見がすごく楽しく思えたし、そんなことの連続がお芝居を作っていくんだというのを知りました。演出家さんってあまり何をしているか分からなかったけど、そういう風に見てるんだなぁと、身を持って実感しましたね。土田さんはやっぱりすごい方なんだと(笑)。
――それは大きな経験でしたね。その後は…。
その後、もう1年大学にいて、演劇学校にもまた通うことになって。その時は土田さんが「俳優コース」の講師で直接指導していただける機会に恵まれました。始めた頃は「これを最後に」と思っていたのが、二年目に入って「これはやめられないな」という気持ちになっていって、土田さんからも「続けたいなら、続ければいい」とか「広島もいいけど、東京とかもあるし」って言われて。でも、そう言ってもらったからと言って、「私、今すぐ東京行ってお芝居やります!」っていう風には踏み出せない(笑)。経験として、やっぱり就職活動をして働いてみたいという気持ちもあった時期でした。その頃にMONOの舞台を初めて観たんです。広島から大阪のABCホールに『裸に勾玉』(2016年)を観に行きました。今思うと、小劇場系のストレートプレイを劇場で観るのは初めてに近かった気がします。それまでの私は、演劇にハマり始めておきながら、まだよそ者気分というか、こっぱずかしい気持ちもあって…。でも『裸に勾玉』はすごく衝撃的で。改めて、やっぱり演劇ってカッコいい、MONOって本当にすごいし会話劇って面白いなって思いました。
結局就職して、2年近く東京にいたんですが、その間も土田さんには「何かお手伝いできることがあったら呼んでください」「ワークショップとかあったら行きたいです」と自分から言っていました。週末や、仕事の合間を縫って手伝いでもなんでもやるつもりでいました。MONOに出たいとか、入りたいというより、自分と演劇を繋いでいたかったんだと思います。土田さんにどこかすがっていたような気がしますね。演劇するなら土田さんとやりたいっていう気持ちももちろんありましたし。
――劇団員として参加されることになった経緯をお聞かせください。
それから少しだけですけど公演のお手伝いをするようになりました。ちょうどその頃高橋(明日香)さんや石丸(奈菜美)さん、あと阿久澤奈々さんという女優さんの三人が、土田さんの作品を上演する「歪」という演劇ユニットを組んでいて。「オタツ(立川)も次の企画とかあったら、やれたらいいね」って土田さんに言われてはいたんですけど、それが、自分がMONOに入るとか、あの5人の中に入って劇団員になるっていうこととは全然結びついていなかったですね。ただ「もしかすると、何かチャンスはあるかもしれないな」ぐらいは思っていて、そういう機会があったら絶対やりたいし、そうなれば会社も辞める気持ちでいました。そんな時『怠惰なマネキン』(MONO特別企画vol.6、2017年)に参加させていただくことになって、その稽古の終盤に、土田さんから一人ずつ話をしたいと言われました。「次の本公演(『隣の芝生も。』)もこの公演に出ている若手に出てほしいと思っているし、今後MONOのメンバーとしてやっていく前提で出てほしい」と。そこで初めて自分がメンバーになることを現実のこととして考えました。断る理由はもちろんないし、願ってもないことなんですけど、自分の役者としてのレベルがまだまだですし、「逆に土田さんはいいんですか?」って思いました。この公演の稽古の時、土田さんの作品を作る為の方法論を初めて知って、そこに自分は追いつくことに必死で、できる、できないというよりも、理解することで精一杯で、それを必死で追いかけ、追いつくという状況でしたから。
――そんな経緯で劇団員として参加され、最初の本公演が終わったわけですが、土田さんが作り上げるMONOの世界観の中で自分が果たす役割は何だと思いますか。
人は喧嘩もするし、ひどいことを言ったりもするし、世の中には揉めごとも含めていろんなことがあるんだけど、そこに必要なのは“許し”というキーワードで、土田さんの作品は、お客さんに対して「それでも共感しちゃうでしょ」っていうことを芝居にしているような気がします。ある役が劇中で酷い行動をとったり、ちょっとずれたことを言ったりしても「言っちゃうんだよね、人間って、バカだよね」って。それでなぜか愛せるというか、許せるみたいな。それがどの作品にも通底してあるような気がするし、作中のどの役柄、キャラクターにもそれがある気がしています。あと、今話していて思ったんですが、それって演劇学校のワークショップでの土田さんのみんなに対しての接し方にも通じるものがあったと思います。うまく人間関係が作れないとか、うまく喋れないとか、誰しもいろんな苦手なことや人と違う部分がある。そんな歪な部分を少しずつ持っている人たちが、演劇にどこか救いを求めて来てるっていうのを土田さんは分かっていて。歪を歪として、否定せずに受け止めた上で、じゃあ君はこうしてみたら?みたいなスタンスでみんなに接してくれていました。うまく言えないのですが、そんな感覚も土田さんの作品の世界観を形作っているんじゃないかなあっていうのをなんとなく思っています。
今まで出演させていただいた3作で、最初は妹とか後輩としてみんなに「そんなんじゃダメですよ。ちゃんとやりましょうよ」とお尻を叩くような役だったんですけど、今回の『はなにら』では、もうちょっと心情を吐露するようなところもあって。ちょっと生々しさは増えたような…。これから私が9人の中でどういう立ち位置になるのか、作品に対して何ができるのかっていうのが今の時点ではまだはっきり言えないんですけど、まずは土田さんが作られる世界観や、メンバーの兄さん、姉さん方にもちゃんと対峙できるようにしていきたいです。先輩たちが30年間積み上げてきたMONOの空気感や、あの5人さんの「阿吽の呼吸」は私も大好きだし、大事にしたい。それと同時に、何か新しい要素も加えられる存在になりたいなと思います。あと、私は演劇との出会い自体がまだまだ浅いから、もっと「演劇」と仲を深めたい。外のことも含めて、知識も経験も深めたいですね。その上で、MONOの芝居を支えられる自分でありたいし、自分の役割を見つけたいと思っています。MONOの中で私はこういうことができるという自覚を持てるようになりたいですね。
――最後の質問です。これもみなさんにお聞きしていきますが、なれるとしたらメンバー中の誰になってみたいですか?
奥村さんになりたいですね。弾けることができて、お客さんが安心して笑ったり、怒ったりできる。それによってさらに作品に張りが出てくるみたいな。華というか、ああいう存在感ってうらやましいなと思うんです。私は努力しても奥村さんのようには演じることができないし、無理にやったらすごくイタくなると思うんです(笑)。初めて観る人でも惹きつけられる。それは本当にうらやましいですね。なれるとしたら奥村さんになりたいです。
取材・文/安藤善隆
撮影/福家信哉
構成/黒石悦子