ホーム > MONO 30周年特別企画『30Years & Beyond』 > 第22回『2002~2003年とチェーホフについて』土田英生

 
 

プロフィール

土田英生
MONO代表・劇作家・演出家・俳優
1967年愛知県大府市まれ。1989年に「B級プラクティス」(現MONO)結成。1990年以降、全作品の作・演出を担当。1999年『その鉄塔に男たちはいるという』で第6回OMS戯曲賞大賞受賞。2001年『崩れた石垣、のぼる鮭たち』で第56回芸術祭賞優秀賞を受賞。劇作と平行してテレビドラマ・映画脚本の執筆も多数。2017年には小説『プログラム』を上梓。2020年7月、初監督作品『それぞれ、たまゆら』が公開。ドラマ『半沢直樹』(TBS系・日曜21時~)に出演。

作品情報

映画『それぞれ、たまゆら』
監督・脚本:土田英生
原案:小説『プログラム』(河出書房新社)

京都・出町座 公開終了
東京・ユーロスペース 上映予定
愛知・名古屋シネマテーク  上映予定

第23回『ロンドン留学で得た大きなもの』土田英生

MONOの30年の道のりをメンバーや関係者の話から紐解く連載の第23回。
土田さんのMONO「歴史篇」は回を重ねるごとに、その話は多彩になっていきます。
今回は、MONOにとって、また土田さんにとってひとつの転機になった
2003年、ロンドン留学前後の話をお聞きしました。

 

――前回は土田さんのチェーホフ論をお聞きしたところまででした。今回は『京都11区』(2003年)のお話からお伺いできればと思います。

これは前回お話したものも読んでいただくといいかもしれませんが、この頃、すごく忙しい時期だったんですね。「忙しさ極まれり」の時期でした。映画版の『約三十の嘘』(2004年公開)の脚本も書いていましたし、単純にメンタルの調子も悪くて、制作の垣脇さんにツアー先で病院を探してもらったりもしました。そんなこともあって、あまり公演のことは覚えていないんですよね。

――京都にある架空の町を舞台にした作品でしたね。目立って取り柄のないこの町の唯一の観光資源である、欧風建築様式の寺院が国の施作で解体されることが決まって…。そのことを契機に起こる人間模様が描かれた作品でした。

DVDを見直してみると、舞台では、ちょっとしたギャグとか言ってるんです(笑)。こざかしく笑いも取ってるんですけど、「よくそんな余裕があったな」と思うくらい辛かったですね。何にも楽しくなくて、耐えていたという記憶しかないです。これがあった、あれがあったという記憶も薄いんですよね。自分をコントロールすることで精一杯で、この頃は周りを顧みる余裕がありませんでした。劇団を続ける自信も失っていた時期でした。

第31回公演『京都11区』 2003年8月16日 京都府立文化芸術会館、8月21日~25日 AI・HALL、8月29日~9月1日 紀伊國屋サザンシアタ-、9月3日 長久手町文化の家 風のホール、9月6・7日 北九州芸術劇場 小劇場、9月10日 大分県立総合文化センター 音の泉ホール

 

――劇団が重荷になっていた?

その時は気づかなかったんですけど、「平等でありたい」という自分の考えに縛られていたんだと思います。その頃はメディアに“MONO主宰”って書かれるのもいやで、「せめて代表でお願いできませんか」と言っていました。だから自分だけが圧倒的に忙しくなっていたにも関わらず、「みんな一緒なんだ」というルールの中でなんとかやろうとしていました。今にして思うと無理がありすぎてにっちもさっちもいかなくなっていたんだと思います。

――でも、それは土田さんご自身が作られたルールですよね。

そうですね。東京では高い店で焼肉食べながらテレビ脚本の打ち合わせをして、宿泊も高級ホテル。京都の小劇場の私から見れば、いわゆる「東京の芸能界」のもてなしを受けている感じでした。それに本当に忙しくて週に何度も東京と往復しなければいけない。物理的に京都での稽古に間に合わなかったりするんですけど、稽古に遅刻したらジュースを買いに行くという遊びみたいな劇団ルールがあったりして。笑っていてもなんか苦しいんですよ。東京で浮き立っている自分と京都では横並びだと言っている自分。「この先には輝かしい未来があるんだ」という錯覚の中で、その二つの現実が一つの世界だとは思えなくて。それで、劇団のメンバーに勝手に苛立ったりもして……。

――その状態には無理がありますよね。

両方に嘘をついているわけです。東京では東京に馴染んでいる自分、京都に戻ってくると(東京でそんなことをしていると自慢もできないので)何もなかったような顔をして、みんなに会う自分。これを繰り返していました。この分離した状態が体調悪化の原因だったんです。病院の先生には「劇団辞めたらいいじゃないですか」と簡単に言われました(笑)。「なんでそんなに劇団にこだわるんですか」って。『京都11区』の時はそんな状態で、本当に苦しかったですね。

――『京都11区』は8月に京都で幕を開けて、9月に大分でツアーが終わります。その後、文化庁の新進芸術家留学制度で一年間ロンドンに留学されます。ロンドンに出発されたのはそのあとすぐですか?

そうですね。留学は前から決まっていたことなので、それなりの準備はしていました。でも、病院の先生には反対されましたね。「こんな状態で外国に行くなんて、無理ですよ。やめてください」と。でも僕は、今この環境から逃れることができさえすれば「なんとかなる」と思っていました。

――ロンドンはどうでしたか。

まず「一緒だ」と思ったんですよ。イギリスの演劇も、日本の演劇も、作り方とかを含めて。もちろん小さな違いはありましたけど、似たようなことをやっていて。向こうで戯曲を書く講座にオブザーバーとして参加したりしましたけど、やっていることは一緒でした。「まずキャラクター立てましょう」とか。プロットはこうで、シノプシスはこうで。「自然な会話を書きなさい」とか。いろんなミーティングに出たり、語学学校に行ったりもしましたけど、人間関係も一緒です。やっぱり嫌われる人は日本と一緒でした。西洋の人って先生の話を聞く時でも足を組んで座って、それが「偉そうだ」とか言いますけど、足組んでいても、しっかり聞いてる人は聞いてるし、前のめりでもムカつく人はムカつくし(笑)。最近、日本人礼賛のテレビ番組とかも多いですけど鼻白みますよね。ロンドンでも消しゴム落として、拾ってあげたら「ありがとう」って言いますし、言わない人は嫌われますし(笑)。そのあたりも含め世界中「一緒だ」と思いましたね。

――体調はいかがでしたか。

すぐに回復しました。イギリスから見たら東京の芸能界も京都の小劇場も同じなんだってことに気づきました。東京でも京都でも、正直に話して自然体でいればよかったんだと思えました。劇団の仕込みなども、脚本が忙しくても無理して出てたんですけど、「ちょっと忙しくて今回仕込み無理やけど、ごめんね」と言えれば、あんなに苦しむことはなかった。「平等な関係」をイメージして勝手に苦しんでた。日本を離れたことで、そういったことがすべて「相対化」された感じでした。これしかないと思っていた世界が「そんなにこだわるものじゃないんだ」と思えるようになった。ロンドンの1年は、そう考えられるようになったことが一番大きかったような気がしますね。本当にあの時間がなかったら、何かをあきらめていたと思いますね。テレビなのか、劇団なのか。あるいは全部なのか。あの留学があったから、今があるような気がします。あれから少し、生き方が上手になりました。

――自分の中に新しい「何か」が入った感じですか。

そう。視点がね。俯瞰する目ができたというか。いつも悩むと「ロンドンから見たら東京も京都も一緒やしな」って思えるようになりました。僕がそのあとも、しょっちゅうロンドンに行っていたのは全部、その気持ちを取り戻すため。みんなには、「ロンドンマニアなんだ」って言ってましたけど(笑)。これはロンドンとかパリとか場所、土地は関係ない。僕を救ってくれたのがロンドン。ロンドンに行くと気持ちが楽になる気がするんです。だから定期的に行ってました。

――ロンドンから帰国されたのが1年後の2004年9月でした。

その頃には、体調はすっかり回復していました。それと、これは留学する前から決まっていたことですけど、劇団の女優二人、西野千雅子と増田記子が抜けて、MONOは男性5人になりました。ロンドンではメンバーとはメールでやりとりをしていて、そこには劇団に対する不満なんかも含め今まで言えなかったことも書いたりしていましたね。それにメンバーから返信もあったりして……。だから帰ってくる時は元気な状態で、しばらくこの5人で頑張って行こうかなって思って帰国しました。次の公演も決まってましたからね。

 

取材・文/安藤善隆
構成/黒石悦子