ホーム > インタビュー&レポート > 「自分の中で最強最高と思えるミュージシャンがサポートしてくれるので、今が1番幸せかもしれない 」 45th Anniversary 石橋凌ライブツアー“KEEP IN TOUCH! 2024”開催中! 石橋凌インタビュー
問題提起が唯一できるのが
ロックミュージックだと信じてきた
――デビュー45周年おめでとうございます。まずは現在の心境からきかせてください。
「正直言いますと、もうこの世界の底辺を這いずりまわってきたというか...(苦笑)。個人的には高校時代から始めたアマチュアバンド時代を入れると50年以上になるんですよ。音楽に携わってきて半世紀。幼少の頃から映画と音楽で育ったんです。音楽に関しては、どちらかというと欧米の音楽を聴いて育ったんです。例えば、ボブ・ディランとか、ジョン・レノンのレコードを聴いたり、歌詞を読んで非常に共感しましたし、いろんなことを教えられたんですよね。それで、プロになったら彼らみたいな世界を歌っていきたいと思ったわけです。1枚のアルバムの中に男女のラブソングがあり、友達や家族の歌、仕事の歌、世の中で起きてる出来事、戦争の歌といったあらゆる歌を1枚のアルバムに共存させる。それをプロとしてデビューしたら日本語で歌っていきたいという夢があったんです」
――石橋さんは1978年に伝説的ロックバンドA.R.B.のボーカルとしてデビューされました。
「はい、その最初のアルバムのレコーディングするとき、当時の事務所の上の方から"歌詞には社会的なこと、政治的なことをいっさい入れるな"と言われたんです。私は耳疑いました。え、なんで?って...。それをやるために今までアマチュア時代から夢を持ってやってきたから。じゃあ、何を歌えばいいんですか?ってきいたら、ラブソングなんですよね。多分、男女のラブソングを指してると思うんですよ。自分は反戦歌もずっと歌ってきたんですが、業界の人とか事務所の人から、"そんな絵空ごとみたいなことを歌っても日本じゃ受けないし、売れない"って言われたんですよね。やっぱラブソングを歌えと。自分としては反戦歌は究極のラブソングだと思ってんですけどね。その当時、1980年代初期から世界のどっかでは紛争だとか戦火が上がってたんですよね。そして、現在ではロシアとウクライナ、イスラエル、イラン...と次々に戦火が上がっています。そんな時にまだ俺に対して、"そんな絵空事みたいなことを歌ってもウケないよ"っていう人がいるのかなと。そういう人がいたら会ってみたいですよね。もう決して絵空事じゃないでしょ?」
――そうですよね。
「自分としては家族のことを歌った歌も何曲もあります。アルバム『オーライラ』では『ファンキー、バァバ』(M-5)というおふくろのことを歌った歌もありますし、昔から『Daddy's shoes』という早く亡くなった親父のことを歌った歌もありますし、ラブソングもあります。仕事の歌もあります。で、そういった歌をアルバムで同居させて出してきたんですが、これがなかなか茶の間に入っていけないんですよ。そのジレンマですね。それとの戦いなんですよ、さっき言った"底辺を這いずりまわってきた"というのは...。やっていくうちに、テレビとかラジオというのはスポンサーで成り立ってるから(政治や戦争のことを歌うのは)だめなんだということはわかってきました。でも、欧米のミュージシャンはそれがあっても発言したり、歌で表現してるんですよね。ボブ・ディランもジョン・レノンも社会で今こういうことが起きてる、戦争も起きてる、自分はこう思うけど、君たちどう思う?っていう問いかけをしてきました。決して押し付けだとか啓蒙じゃないんですね」
――歌を通して問題提起をしてますね。
「はい、問題提起なんですよ。それが唯一できるのはロックミュージックだと小さい頃からずっと信じてきてたもんですから。それが日本で受け入れられない状況っていうのがもう不可思議でしょうがない。やっぱり日本は成熟してない社会だと思うんですよね。特に、若い人たちはほとんどが政治離れじゃないですか。無関心になるように政治がそう仕向けてるように感じるんです。昔の学生運動のように暴力で訴えることはよくないと思います。でも、かつては若者も主婦も政治に対して怒ってる人たちがいっぱいいたんですよ。ところが今はあんまり怒ってる人いないじゃないですか?」
――心の中では怒ってますけどね。だいだい我慢してますね...。
「そう、誰も(怒りを)出さないじゃないですか。だから、それを表現するのが、喜怒哀楽を表現するのが自分らの仕事だと思ってるんです。ミュージシャンだとか、俳優や小説家や画家もそうですよね。自分は高校時代からそういうこと歌ってきてますから、今さら変えるつもりはない。だから残念ながら這いずりまわるしかなかったんです。ただ、俳優としてテレビや映画で代表作に呼んでもらえるので、顔だとか名前は確かに一般的には知られたかもしれません。でも、自分が本当にやりたいことはなかなか認めてもらえないんですよ」
――日本のロックバンドを語る上で、A.R.B.というバンドは欠かすことができない存在なので、石橋さんがそれほど悔しい思いを抱いてこられたとは知りませんでした。とはいえ、長きに渡る音楽人生で歌にしてきた芯の部分はずっと変わらないんですね。
「それは変わりませんね。ただ、サウンドはソロになってかなり多様化したと思います。例えばジャズやラテン、アイリッシュサウンドを入れたりしてますので。何を思って歌うかっていうことに関しては、アマチュア時代から変わってないんです。さきほど言いましたように欧米のミュージシャンから学び、ちゃんと本質に沿って物作りをしてきたっていう自負はあるんです。日本でウケるものを作らなきゃっていうのはないんですよ」
――高校時代から現在まで、ブレずにずっとオリジナル曲を作り続けられるのはすごいエネルギーですよね。石橋さんにとって一番力になっているのはどんなことですか?
「よく言う世の中のヒット曲っていうのは1曲もないんだけど、いまだに歌えてるのは、各地ツアーでまわると、昔の曲だとか新しい曲を歌ってくださる人がまだいらっしゃるんですよね。それがすごく力になります。それは さっきも言いましたように自分がいろんなテーマの曲を歌ってるからなのかなと思うんですね。例えば、仕事のことだとか、友達の歌だとか。各地のライブにいらっしゃる方は学生さんもいるし、ビジネスマンもいるし、主婦もいらっしゃるんですよね。その人たちの生活の各場面で共感してもらえてるから歌ってもらえてるのかなと思うんですよ。だから、ヒット曲がないのに歌えてること自体がすごく幸せです」
音楽をやめて田舎に帰ろうとしていたとき
引っ張り上げてくれた松田優作との出会い
――コアな支持層っていうのはがっちり捕まれてますよね。
「そうですね。ただ、バンド(A.R.B.)を再結成して、抜けた経緯っていうのは本当のファンには伝わってないと思うんですね。なぜかというと、前の事務所との約束で(その理由は)言わなかったんですよ。1978年にA.R.B.というバンドでデビューできたんですが、社会的なこと、政治的なことを歌うなって言われてたのに歌ったもんですから最初の事務所をクビになったわけです。会社の方向性と違うということで。その後は中古のワンボックスカーを買って、日本全国のライブハウスを回りました。そうすると、各地に自分たちを支持してくれる方がいたんですよね。活動を続けていると、だんだんライブハウスからホールに移行して、移動も新幹線、飛行機を使えるようになって武道館まで到達できたんです。ところが、さっき言いましたように茶の間に入っていけない。その時はもう27になってました。それまでいくつも壁を乗り越えてやってきてたんですが、(茶の間に入っていくという)その壁が分厚くて高かったんです。で、もうここまでだなと思って音楽をぜんぶやめて、久留米の田舎に帰ろうと思ってた時に出会ったのが松田優作さんだったんですよ。1987年頃ですかね。もう本当に直感的に相談できる人はこの人しかいない!と思ったんです」
――どのようなお話をされたんですか?
「もう本当にぶしつけでしたけど、ある宴会で優作さんの前に行って、実は今悩んでます。相談に乗ってもらえませんかと打ち明けました。すると、"じゃあうちに来なさい"と言ってくださいましたので、お伺いしてアマチュア時代からの経緯を話しました。そしたら、"わかった。お前たちがやってきたことは間違ってないと思うよ"と。"ただ、日本という国は残念ながら欧米のようにプロデュース機関っていうのが確立されてないから、セルフプロデュースで行くしかないんだよ"と。どうやって活動すればいいのか、ものすごく具体的な話をしてくれたんです。自分たちが土に種を撒いて芽が出たら、それを育てていくためにどうすればいいか。"それを手を抜かず、ちゃんと大事にやっていくしかないんだよ。それをやり続けていたら絶対にどこかで見てる人がいるから。その人が近づいてきた時に弾けろ!"っておっしゃったんです。その時、ものすごく気が楽になったんですよね。それから 半年後にまたご自宅に呼ばれまして。優作さんが監督・主演の『ア・ホーマンス』という映画の台本があって、これをやれと言われたんです」
――それは役者としてですね。
「そうです。自分は映画は好きですけど、俳優経験もそんなにないんでと言ったら、"どうせお前は芝居できないんだからするな。ただ、お前がミューシャンで培ってきたフィーリングだとか感性だとか生理みたいなのを俺が現場で拾うから心配するな"っておっしゃったんです。その時に、バンドを茶の間に売るためのいわゆる宣伝としてでもいいですか?って、僕も殴られるのを覚悟で聞いたんですよね。そしたら、優作さんは3、4秒間があって、ニコっと笑って、"それでいいよ"ということで参加したわけですよ」
――石橋さんにとって映画の世界を経験したこともとても大きかったのですね。
「その時に2つの発見があったんですね。1つは、映画の現場で俺は何も間違ってなかったと。2つ目が、音楽の世界もいろんなスタッフがいて動けるわけですけど、映画の現場を見た時、もっと多くの人がこだわりを持って物づくりをしてるんだなと。そこがまた感動だったんです。撮影が終わった時に優作さんに、田舎に帰らずに気持ちを新たにバンドを立て直して歌えるような気持ちになりました。ありがとうございましたと伝えました。それから数年後、自分はもう34歳でしたけど、突然の訃報(松田優作の死)でした。それも映画『ブラックレイン』で大成功された直後に。自分と一緒の仕事は1本だけだったんですけど、よく2人で食事したり、飲んだりしたんです。話は映画、音楽の話、社会的なこと多岐に渡りました。で、最後に必ず言ってたのは、"なんで合作映画で日本人の役を日本人ができないんだ"と。"それには3つあると思うよ。1つは、SAG-AFTRA(全米映画俳優組合)に日本人が入れてない。だから、チャイニーズアメリカンやコリアンアメリカンの人たちが日本人の役をやる。2つ目に、俺たちはオリンピック選手のようなアスリートじゃないから言葉の問題がある。3つ目が露骨には見えないかもしんないけど、やはり偏見だとか差別と戦うしかないね"ということをいつもおっしゃってたわけです。そういうことがあって、自分としてはいろんなことを考えたんです。一旦音楽を全部やめて田舎に帰ろうとした自分をこう引っ張り上げてくださった方で、映画のアクティングの基礎も教えてくださった。それで、ハリウッド映画ではなんで日本人が日本人の役できないんだということもずっと自分の中で残ってたんです。そうやっていろんな角度から考えてる中で、ちょっとスペシャルなことが起きたんですね。言葉で言うのはなかなか難しいんですが...」
――石橋さんの運命を示唆するような、啓示みたいなことですか?
「そうですそうです。もう34でしたから。いろんな選択肢を考えました。で、結果的に、そのスペシャルな出来事で、音楽を一切封印して、俳優としては優作さんが考えてたことを目指そうと決めたんです。それは優作さんになろうとか、優作さんの真似をしようとかじゃなくて、自分の方法論でなんとか優作さんの遺志をつないでいけないかなと思ったんですよ。それからはもう一切音楽に接しないようにして、人のライブにも行かなくなりました。そして、どんなに忙しくても1日3本、国内外の映画を見ようと決めたんです。さらにアクティングの本を独学で勉強し直しました。そして、1年半後にアメリカとの合作に出演する話が来たんです。そのシリーズ2作品で気に入ってくれたアメリカのプロデューサーからショーン・ペンの2本目の監督作品を準備をしてる、"アジア人の役を今探してるんだけど、お前どう?"って言われて。ショーン・ペンの最初の監督作『インディアン・ランナー』は大好きだったから、ぜひやりたいと、オーディション受けたら、受かったんですよ。その次にもう1本の日米合作の作品に出演して計4本やったら、SAGに入れたんです。それが実現するまで5年かかりました」
――早いですよね、5年で実現されたというのは。
「はい。それで自分の中ではひとつの達成感があって、優作さんが目指したことを1つ実現できたので、そこからまた2年間(音楽の)リハビリをやったんです。俳優に専念していた5年間は全く歌ってなかったんで...」
――そして、A.R.B.が再結成されることに?
「そうですね。その時はメンバーが変わりましたが、旧スタッフ、旧メンバーもいたんで、いわゆる同窓会的な復活はしたくない。やっぱり今の時代に見合う音楽じゃないと恥ずかしいから、それはしたくないよと。これからも俳優業を続けていくし、海外の作品もどんどんやっていきたいんで、(バンドは)遊びだとか同窓会的なのは僕はやらないですよっていうことで始めたんですけど、実際は何も変わっていかないんですよ。その頃、日本でもブランキー・ジェット・シティやミッシェル・ガン・エレファントとか、すごくかっこよくて実力があるバンドが出てきてたので、はっきり言って恥ずかしいと思ったんです。昔のまんまだと。でもそれがなかなか改善されないんで、申し訳ないけど自分は抜けますと言って(再結成したA.R.B.)を抜けたんです。そのとき、事務所との約束で(脱退する理由を)言わないでくれって言われたので、理由を言いませんでした。もう本当に、黙して語らず。多分その時のことがあるので、昔のファンの人たちは多分ずっと溜飲が下がらずという気持ちだと思うんですよね」
――石橋さんがなぜA.R.B.をやめたのかという疑問が残ったままだと?
「そうですそうです。でも自分の中では全部筋は通してきたつもりなんですよ」
ミュージシャンというのは
素の自分をさらけだしていく仕事
そこで自分自身を解放させる
――そういう経緯を経て、2011年から正式にソロ活動がスタートされました。今のツアーやレコーディングに参加しているバンドメンバーはどのように固めていったんですか?
「本格的にソロをやる前からでしたけど、伊東(ミキオ)くんとピアノと歌だけでいくつかステージに立ったことがあるんです。それから、だんだんいろんな人が集まってきて、ギターはTHE GROOVERSの藤井(一彦)くん、最近のドラマはウルフルズのサンコンJr.、ベースが元HEATWAVEの渡辺(圭一)くんです。あと、バイオリンの太田(惠資)さんもいろんな人とコラボやってる人で、サックスは元RCサクセションの梅津(和時)さんです。本当に自分の中では最強最高と思えるミュージシャンがサポートしてくれるので、もしかしたら今1番幸せかもしれないね」
――強力な布陣でライブがすごく楽しみですよね!
「ですよね。レコーディングもそうですけど、やっぱりライブも、自分が描いてる音を皆さんが出してくれるんで。本当に楽ですね」
――現在の音楽コンセプトは"ネオレトロミュージック"と表明していますね。
「アマチュア時代からずっとバンドをやりたかったんですけど、自分にとっての理想郷と思ってたバンドはもういいかなと思うんですね。やっぱりいろんなことがありましたし。それよりも今は純粋に音楽をやりたいと思うんです。自分が幼少の頃から聴いてきたいろんな音楽を。それで、ソロを始める時に自分の音楽のジャンルを"ネオレトロミュージック"という名前で歌ったんです。それは文字通り、どこか古くて懐かしいんだけど、今の時代に見合った音楽を目指していこうということでつけました」
――ちなみに、石橋さんにとって俳優経験というのはシンガーとして活かされていると思いますか。
「どこかでは相互関係があるのかなと思うんですけど。ただ、職業的にはもう全く違う仕事だなと思います。言葉は悪いですけど、俳優業っていうのは嘘をつく仕事だと思うんですよね。誰かに化けること。ご存じのように(自分の役は)8割方悪党か危ない男じゃないですか(苦笑)。で、自分の場合は演じるときに、なんでこの人物は悪の道に行ったんだっていうことを掘り下げるんですよね。例えば家庭不和だとか、そういうことがあって、結果そういう悪の道に入ったのかなと...」
――そうなんですね、石橋さんが登場すると画面が締まります!
「お客さんが映画なりドラマを見て感動してくれたら、それはいい嘘かなと思うんです。俳優は誰かに化けて表現するわけですよね。片やミーシャンっていうのは全く嘘をつかない、素の自分をさらけ出していく仕事だと思うんですよ。自分自身を本当にさらけ出す、解放させるっていう。だから、全く違う仕事を2つやってるんですね。それはなぜかといえば、自分は元々映画と音楽を学校のように観て聴いて育ちましたから。それを生業としてできてることは本当に幸せだと思います」
――音楽においては、素の自分をさらけだすということですが、曲間のMCでお話しされてることは石橋さん自身が感じていることや信念を話すように心がけているんですか?
「そうですね。全部自分に起きたことをMCの中に入れるんですよ。そうすると皆さん笑うんですよね。多分本当のことだから皆さん笑うと思うんです。自分にとって悲劇なのに、お客さんにとってはたぶん喜劇なんだろうなと(笑)」
――そんな素の石橋さんをライブで感じ取れるのはファンの皆さんにとって嬉しいことですよね。
「それはライブが1番顕著じゃないですか。全部さらけ出すわけですから、そこで嘘ついて、かっこつけたり、作り話をやっても本当にウケませんね」
アルバム『オーライラ』は自分の最高傑作
ツアーではリアレンジして新旧織り混ぜた曲を
――今回のツアーは45周年ということで、セットリストも特別なものになりますか?
「はい。2年前に出した『オーライラ』というアルバムが自分の人生の中では最高傑作だと思ってるんです。その中の新曲と自分が書いたバンド時代(A.R.B.)からのものを今のメンバーでリアレンジして、新旧織り混ぜながら今回もやるつもりです。それと、2年前のツアーの時はまだコロナ禍でお客さんもマスク着用で発声禁止だったんですよね。でも今回からはノーマスクで発声OKなんですよ。ですから、自分のライブの真骨頂っていうのは、ステージからの一方通行じゃなくて、お客さんの声とか歌声を返してもらってキャッチボールしながら作り上げていくっていうのが醍醐味だと思ってるんで、それがやっとできます」
――カバー曲などは披露されますか?
「カバー曲は最初の下北沢CLUB251ではやります。ちなみに、4月10日にブルーレイとDVDで出した『KEEP IN TOUCH!』(*2022年のツアーの最終日、東京日本橋三井ホールの映像)の中に収録している『YOKOHAMA HONKY TONK BLUES』は優作さんがよく歌ってらっしゃった曲で。その日本橋三井ホールでやった最終日の11月6日が優作さんの命日だったんですよ。ですから、MCで今日は優作さんの命日なんで、よく歌ってらっしゃった曲歌いますと1曲カバー曲をやりました」
――大阪は5月10日のなんばHatchですね。大阪のライブはどのような印象ですか?
「大阪は昔のバンド時代から非常に熱く支持してくれたところですし、前回のライブの時もマスク着用で発声禁止でしたが、ステージに登場したら、"凌ちゃん、待ってたでー!"って声がかかったんで。"はい、おおきに。ありがとう。せやけど、今日は発声禁止や"って言ったら、"わかっとる。わかっとるがな"って返ってきて、あんたわかってないよって...(笑)」
――(笑)。大阪らしい楽しいやりとりですね。今回はさらに盛り上がりそうです。
「前回はまだ声が出せない状況だったので、リベンジですよね(笑)。本当に久しぶりに歌う曲があるので、それを楽しみにしててもらいたいですね」
――最後に、石橋さんからファンに向けてメッセージがあればお願いします!
「自分を卑下したり、謙遜で言ってるんじゃなくて、本当に実感として底辺をはいずりまわってきたと実感してます。家族のことだとか、仕事のこと友達のことを歌うこと、その延長線上に反戦歌を入れて何が悪いんだと...。そこを繋げるのが自分らの仕事じゃないのかなと。学校の先生からいろいろ言われるよりも、そういう身近な音楽とか映画とかで知った方がいいと思うんですよ。エンターテインメントを入り口にして、よく聴くと何を訴えてるのか知るじゃないですか」
――そういう音楽を聴いて、大人も若い人も一緒に楽しめるライブがあればいいですよね。
「そうですね。ですから、自分の場合は昔のファンの人が結婚されて、子供さん、お孫さんまで3世代でライブにいらっしゃるんですよね。その人たちがライブで一緒に歌ってくれる。それはものすごい幸せですし。自分にとってはほんとに力になります。だから、自慢じゃないけど、1曲もヒット曲がないのに、そういう人たちがいるので、まだ歌えると思うんですよね。だから、僕はもうブレるつもりはない、やり続けるしかないと思うんですよ」
――家族や友達、仕事のことを歌う延長線上にある反戦歌をお茶の間に届けるという石橋さんの信念をリスペクトして受け継いでるミュージシャンはいらっしゃいますよね。
「はい。少なくとも一緒にやってくれてる(今のバンド)メンバーの人たちはけっこう共感してくれてるかなと思いますよ。で、僕自身も彼らの活動を見てても、それぞれ戦ってる人だなと思いますしね」
――ロックをルーツとするアーティストの芽は枯れてないと思います。
「自分の世代でそれができなければ、後続の人たちがそれをやってもらえれば。他の若い人たちが継いでくれたらそれでいいと思うんですよね。自分は力ある限りそれをやっていくつもりです」
Text by エイミー野中
(2024年5月 9日更新)
いしばし りょう…1956年7月20日生まれ/福岡県久留米市出身。1977年に結成された伝説的ロックバンドA.R.B.(エーアールビー)の元VOCALとして1978年にシングル『野良犬』でデビュー。1990年、松田優作の意思を継ぐべく、役者としての活動に専念する意思を固めた石橋凌の強い意志により活動停止。1990年、代々木体育館での活動休止ライブでは2万人動員。1998年、新メンバーにより復活(ユニコーンEBIがBASSとして加入)。1998年、アルバム『REAL LIFE』リリース。セールス10万枚を超える。1999年1月24日武道館にて1万人動員。2006年3月、ファンへ最後のメッセージ「一生歌っていきます。魂こがして」と残し石橋凌はA.R.B.を脱退、それによってA.R.B.は解散。A.R.B.の強い信念を持った音楽は後に氷室京介、福山雅治、ユニコーン、奥田民生、EBI(復活時BASSとして加入)、JUN SKY WALKER(S)、THE HIGH-LOWS 甲本ヒロト・真島昌利など数多くのミュージシャンに影響を与えた。役者としても、映画やドラマに数多く出演。三池崇史監督や北野武監督作品などの国内作品にとどまらずハリウッド作品にも出演している。SAG-AFTRA(全米映画俳優組合)の正式メンバーでもある。シンガーと俳優2つの顔を持つ石橋凌は、2011年から一人の表現者としてソロアーティストとしての音楽活動を再開。ソロ活動によるオリジナルアルバムは、2011年発売の『表現者』、2017年発売の『may Burn!』に続いて、2022年08月31日に3枚目となるアルバム『オーライラ』をリリース。2024年、デビュー45周年のアニバーサリーツアー『KEEP IN TOUCH! 2024』を開催。秋以降公開予定の映画『雪子 a.k.a.』に山下リオ演じる主人公・吉村雪子の父親・吉村和彦役で出演。
石橋凌 オフィシャルサイト
https://ryoishibashi.com/
チケット発売中 Pコード:260-722
▼5月10日(金) 19:00
なんばHatch
全席指定-9000円(ドリンク代別途要)
[共演]藤井一彦(g)/伊東ミキオ(key)/渡辺圭一(b)/サンコンJr.(ds)/太田惠資(vl)/梅津和時(sax)
※未就学児童は入場不可、小学生以上はチケット必要。
※ツアーメンバーは予告なく変更になる場合もございますので予めご了承ください。
※販売期間中はインターネット販売のみ。1人4枚まで。チケットの発券は5/3(金)朝10:00以降となります。
[問]サウンドクリエーター■06-6357-4400
【愛知公演】
▼5月18日(土) ボトムライン
【高知公演】
▼5月31日(金) 高知県立県民文化ホール グリーンホール
【福岡公演】
▼6月2日(日) 久留米シティプラザ 久留米座
【東京公演】
▼6月14日(金) 日本橋三井ホール
【金沢公演】
▼6月30日(日) 北國新聞赤羽ホール