“表現者・石橋凌”が音楽に託して伝えたいものとは
デビュー40周年記念ツアーに込めた想いについて語る
石橋凌インタビュー&動画コメント
いくつもの伝説を残してきたバンド、ARBで1978年にデビューし、昨年音楽活動40周年の佳節を迎えた石橋凌。俳優として国内外を問わず活躍し映画やドラマ、CMに数多く出演。その一方でミュージシャンとしてもARB解散後は本格的にソロ活動を開始。作品リリース、そして精力的なライブ活動を行う中、昨年秋には梅津和時(sax)はじめ屈指のプレイヤーとタッグを組んだユニット、JAZZY SOULとしてアナログ盤『粋る』をリリース。こちらでは、自身の曲をジャズアレンジで、スタンダードナンバーとともに聴かせている。3月16日(土)からは『Debut 40th Anniversary Tour「淋しい街から」』がスタートし、大阪公演は3月24日(日)なんばHatchにて開催。ARB時代の名曲であり、その後もたびたび歌われてきた『淋しい街から』(アナログ盤『粋る』にも収録)に込めた石橋凌の想いとは。さらに、古き良き時代の音楽にあった匂いや質の確かさを持った、今の時代に見合う音楽=ネオ・レトロ・ミュージックという音楽スタイルを掲げる石橋凌が、「40年間の音楽人生の中で間違いなく最高傑作」と語るオリジナル最新アルバム『may Burn!』(2017年)に託したものとは。アルバム制作時のエピソードも交え、ツアーに臨む意気込みを語ってもらった。
「淋しい街から」を書いた当時と今では、全然違った気持ちで歌える
――3月16日(土)の東京日本橋三井ホールを皮切りにスタートするデビュー40周年のアニバーサリーツアーのタイトルは、『淋しい街から』。ARBの1stアルバム(1979年発売『A.R.B.』)に同名曲が収録されていることもあり懐かしく感じるファンの方もいると思いますが、石橋さんにとってもこの曲は特別な思い入れがありますか?
「そうですね。僕は久留米出身で、小さい頃からおふくろに久留米は商人の街だと教わってきました。確かに世界的に有名なタイヤ製造会社やゴム加工品メーカーの本社や工場のある街なんだけど、自分にとっては“商人の街”というのはあまり良い語感じゃなくて。それよりも画家の青木繁や坂本繁二郎、音楽でいうと、『上を向いて歩こう』の作曲者である中村八大さんも久留米出身で、そういう素晴らしい文化面をもっと表に出せばいいのにというジレンマがあって。だってね、高校に入ってバンドを組んだら、久留米にはライブハウスひとつないんですよ。だから博多にあるアマチュアの登竜門的なライブハウス、照和を目指しました。博多どんたくや山笠(博多祇園山笠)などの祭りは集客数もすごい。久留米から西鉄電車に乗って博多に向かう道中、博多に近付くにつれて窓の外の景色がどんどんカラフルになっていくんですよ。けれど、久留米という街は自分の中ではグレーとかモノクロなんですね。そういうこともあって久留米は自分にとっては淋しい街という感覚がありました」
――生まれ育った場所を離れてどこかへ行きたいという思いは10代でも40、50代でも世代を問わずあると思います。ただ、無鉄砲に飛び出したい気持ちはあってもそうする勇気は出ない。今あらためて『淋しい街から』を聴くと、そういう心情に寄り添うような温かさを感じます。初めて聴いた頃とはまた違った印象を受けます。
「自分で書いた歌なんですけど、自分でも当時と今では全然違う気持ちで歌えるんですね。この曲を書いた18歳の頃は、たぶんギスギスしていたんだと思う。自分の中では絶対にプロになると決めていて、でもなかなかそれがうまくいかず不安もありました。そういう中でできた歌です。それから40年以上経って、自分もいろんな経験をして、その時々いろんなアレンジでこの歌を歌ってきて。振り返ると、やっぱり自分が決めた道をちゃんと歩いてきたのが良かったのかなと思うんですね。だからこそ、書いた時とはまた違う気持ちで歌えているのかなって」
――なるほど。
「旅に出たいとか自分の夢を叶えたいとか、誰もが一度は思うことでしょうけど、多くの人が断念せざるを得なかったり、違う方向に進んで行ったりする。そういう中で、お陰様で自分はまだ歌えていて、カメラの前に立てているという喜びがあります。誰でも、悩んだり躊躇したりすると思うんですが、“ブレない”というのは主体性を持つということだと思うんですね。大きな流れに飲み込まれないで、自分自身を持つこと。そういうブレなさで自分が決めたことはやるべきじゃないかなと思うし、やってみたいと思うことは試してみたらいいんじゃないかなと思う。それは、今この歌を歌う時にも思いますね」
40年間ずっと地べたを這いつくばってきた
――石橋さんのホームページにご自身のヒストリー「音楽と映画が学校だった」が掲載されています。その中でこれまで俳優として海外の作品にも出演されてきて、今は音楽で海外のステージに立ちたいという夢があると語られていますね。
「いくつかの取材を受ける中で、“40周年を迎えてどんなお気持ちですか?”とよく聞かれるんですが、正直にいうと、ずっと地べたを這いつくばってきた40年だったと思うんですね。それは全く自分の本意じゃないんですよ。前回のインタビューでもお話しましたが、自分が思うロックミュージックも映画も、すべて本質にこだわって本物を作っていこうと思ってずっとやってきたんですが、なかなかこの国では難しいこともあります。僕自身は決してマイナス志向でもアングラ志向でもないし、B級志向でもないんですが、そういうところに追いやられてきたというか。歌を歌うから、カメラの前で表現するから表現者だというわけではないと思うんですよ。表現というのは、自分自身がどうやって生きていくかということ、その姿も全部さらけ出すことだと思うんですね。それに対して嘘はないという自負はあります。嘘を入れてまでもコマーシャリズムに乗りたくなかった。ただ40年を振り返ると本当にしんどかったなという思いがありますね。もちろん、賞をいただいたこともあるし順調な時もありましたが、圧倒的に苦難の道のほうが長い。本当はもうちょっとラクに来れたはずなのにとも思うんですけどね(笑)」
――そういう中で自分を前に向かわせ続ける原動力になったものはなんでしょう。
「さっきのヒストリーにも書きましたが、男ばかりの5人兄弟の末っ子で育って、音楽は4人の兄貴の趣味がバラバラでそれを聴いて育ちましたし、欧米の映画や日本の映画を観て育ちました。そういったものから学んだことが自分にとってはすごく大きな財産になっているんですね。映画やロックミュージックは欧米からの借り物の文化だと思うんですが、それを1回自分で消化してオリジナル性を入れると、もう借り物でなくて堂々と世界と対峙して発信していけるものになると思うんです。それが昔の黒澤映画や小津安二郎作品だと思うし、映画というツールを使って等身大の日本文化や日本人を描いたから海外の人も興味を持ってリスペクトをしたと思う。そこまで持って行きたいという想いは常にありますね」
――『may Burn!』(2017年)の曲を思い出します。歌詞の中にいくつもそういう想いが書かれてありました。
「あのアルバムは半分私小説みたいな歌ばかりで、自分が経てきたことを歌にしたかったんですね」
――『神風ダイアリー』という曲は軽やかでハイカラなタッチの曲ですが、よくよく聴くと戦火に散った恋人たちが描かれた歌で。
「そう。この歌は『淋しい街から』よりももっと前、16歳か17歳の頃に書いたものでメロディーだけはその頃からありました。アマチュア時代に書いた頃は男女のラブソングを思い描いていたんでしょうけど、今回作っていく中でもっと大きなラブソングになればいいかなと思ったんですね」
――今も世界のどこかでは戦争が起きていて、そう考えると、日本語で書かれた曲ですが日本だけじゃなくどの国の人が聴いても、胸に響いたり胸が痛くなったりする曲であるように思います。『may Burn!』の曲はすべてそういう側面がありますね。
「究極は、そういう普遍的な歌を作りたいというのが夢ですね。ジョン・レノンの『イマジン』や坂本九さんの『上を向いて歩こう』は本当にいい曲ですし、それは日本に限らず海外の人が聴いてもいいと感じるものですよね。『may Burn!』制作時はドラマを2作品続けてやっていて、その後にレコーディングが控えているというスケジュールでした。日頃から気になることや歌いたいテーマをメモに残しているんですが、今回は確信的に自分の中に本当に歌いたいことが降りてくるのを待ったんですね。たとえば今も歌っているARB時代の『AFTER’45』や『魂こがして』は、振り返ってみると机に向かって必死で作ろうと思って書いた曲じゃなく、気づいたらできていた曲だった。机に向かって書いた曲は、形はきれいでも自分の中には残っていないんですね。ただ今回はなかなか降りてきてくれなくて(笑)。ところがある瞬間、ゲリラ豪雨のように降ってきてそれをワーッと書き留めて、12曲揃ったんですね」
――俳優としての石橋凌を先に知り、後から音楽を知ったというファンも多いと思います。音楽でメッセージを伝えること、表現することも、まだまだやり続けなければならないことですか。
「そうですね。さっきも言いましたが、40年間地べたを這いつくばってここまできたということを報われたいという気持ちがあるんでしょうね。たとえば歌詞にしても曲にしても、世に出ると自分の子供みたいなものでそれが世の中に出て愛されたら嬉しい。だけど、それがいつも中途半端なんですよね(笑)。もちろん支持してくれる人もいます。ただ、どうしてもっと幅広く伝わらないんだろうというジレンマがありますよね」
――それが自分を駆り立てるものでもありますか。
「本当にそう。自分の書いた曲は今でもリアレンジして歌っているんですが、それはなぜと言えば、今の時代の人たちにもう一回ちゃんと聴いてもらいたいし、ちゃんと評価を得たいんですね。過大評価ではなく等身大の評価を。バンドでデビューした頃から“社会派”とか“メッセージを歌うバンド”と言われて、要するに売れないバンドってことですよね(笑)。そこからずっと戦いですね。そういう中でも支持してくださる方がいるから40年歌って来れている。胸を張って言えるのは、ヒット曲は1曲もないということ。でもどこかで自分の歌が、支持してくれる人たちの生活のさまざまな場面で役立っているなら、意味があると思うんですよね」
――後に続くバンドやミュージシャンにもいろんな形で影響を与え続けていますが、前回のツアーでも長年のファンと思われるお客さんが大勢いて、大きな声で歌っていたり声を上げたりする姿を目の当たりにしました。石橋さんの音楽の持つ力が波及していくのをこの目で見たという感じです。
「いろんな意味で本当にストレスが多い国だと思うんですよね。だからこそ、ライブで吐き出してリセットして、明日からまた頑張ろうと思ってくださったらそれが一番ですよね」
――今回の40周年記念ツアーは東京から始まり、ファイナルは出身地である久留米。大阪公演は3月24日(日)なんばHatchですね。
「ファンの皆さんにとっても自分にとっても思い出の曲を並べてみようと思っていて、40年間の集大成になるようなライブにしたいと思っています。ライブは自分にとっても一番楽しい時間なんですね。目の前にお客さんがいて、その時間、空間を共有する。同じセットリストでも、本当に毎回毎回違うんですね。それはお客さんとの間合いや、相性もあると思うんですが、それこそがやはりライブだなと思う。自分が音楽という形で送り出してきた子供たちがあまりにも不遇に感じるので(笑)、正しくジャッジされる、愛される瞬間を見てみたいですし、ライブという場にしかないものをお客さんと一緒に楽しみたいですね」
text by 梶原有紀子
(2019年3月14日更新)
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