「新しい時代のヒーローになるために」 disより愛を。沖縄発、目指すは夢の武道館! 注目度急上昇の若きラッパーが波乱の音楽人生を語り尽くす Rude-αインタビュー
沖縄ストリート発、『高校生RAP選手権』『フリースタイルダンジョン』を経由して、東京からスターダムを見据える、’97年生まれの21歳。昨年リリースしたEP『20』はiTunesヒップホップアルバムチャート初登場1位を獲得。全米7ヵ所での初の海外ツアーに初の東阪ワンマンライブを敢行。さらには『Take me back』『Boy Meets Girl』と配信シングルを矢継ぎ早にリリースするなど、熱い注目を浴びる新世代のラッパー、Rude-α(ルード・アルファ)。アーバンで洗練されたトラック上で踊るその歌声同様、軽やかにシーンを超えていく彼が、目指すは日本武道館! ジャンルレスでタイムレスゆえにボーダレスな超新星が語ってくれた、雑多なルーツからラップとの出会い、人懐っこさと好奇心をガソリンに駆け抜けた青春時代や、アーティストとしての覚悟と情熱…彼がこのインタビューで告げたまるで映画のような人生と夢の行く末が、今から楽しみで仕方がない。“ただただ人の心を動かせるアーティストでありたい。昨日も今日も明日も平凡なことにも何かを感じ続けていたい”(Rude-α
談 )。3月には渾身の自主企画イベント『Rude-α presents TEEDA vol.5』を控えるRude-αの、過去、現在、そして、まばゆき未来がここにある――!
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“俺、絶対にTVに出る人になるわ”みたいなことを
当時から母親には言ってたらしくて(笑)
――先日、Anly、eill、NEIGHBORS COMPLAINと大阪で共演したイベント『Sing N' Play』を観させてもらいましたけど、すごくいい1日でしたね。
「もう死にそうになるぐらい、いい1日でした(笑)。Anlyは同じ歳で同じ沖縄出身だし、感覚的に言えば“幼馴染のしっかりしたヤツ”みたいな感じで、他にも同世代で音楽をやってる沖縄のアーティストはいるんですけど、Anlyにはシンパシーを感じてて。俺もAnlyもアイデンティティは沖縄だけど、東京でやってることはブラックミュージックだったり、ちゃんと自分が聴いてきたルーツを音楽にしてる感じがして」
――沖縄を出て東京で夢を追いかける2人は、まさに戦友みたいな感じですね。あと、若くしてそこまで情熱を注ぐものが人生において見つかっただけでもハッピーというか。
「俺たちと同じ歳ぐらいの人たちって、何となくでも大学には行って、就職して…俺たちみたいにアホみたいにまっすぐ夢に突き進んでる人って少ないなと思うんですよ(笑)。俺も音楽をしてなかったら多分そうだったと思うし。でも、沖縄の友達は結婚して子供が生まれたりもしてるんで、そういうのを見てるとめちゃくちゃいいなと思うし、それもまた夢の1つという気持ちもやっぱりあるんですよね。他にも、遊ぶ約束をしてたのに急に、“ごめん、明日からインドに行ってくるわ”って1ヵ月ぐらい帰ってこないヤツもいるし(笑)、やっぱり人の数だけ生き方があるんで」
――そんな中で、Rude-αは音楽で生きていくことを選んだ。ただ、そもそもはダンスをやってたんですよね。
「何か本当にB級映画みたいな話で、中学生ぐらいの頃からラジカセを持って、近所の市民会館みたいなところの鏡の前で踊ってたりして。世間から見たらただの不良だったのかもしれないですけど(笑)、ダンスに出会えたことがやっぱり音楽にはつながってるなと。一番最初は、マイケル・ジャクソンの『ビリー・ジーン』('83)のライブ映像を観てめちゃくちゃカッコいいなと思って、動きをマネしたりして。そこから、その市民会館で俺にダンスを教えてくれた師匠と出会って、“スタジオでも教えてるから来いよ”って言われて習うようになったんで。そこの人たちに出会ってなかったら、自分がこうやって自己表現をできるような人間にはなってなかったと思いますね。タトゥーも入りまくっててめちゃくちゃ不良で怖かったけど(笑)、“ちゃんとありがとうって言えよ”とか、すごく愛があるというか。音楽も本当にいろいろ教えてもらったし、コザ(現・沖縄市)という街で過ごした中で、その人たちにダンスを習えたのはめちゃくちゃデカかったですね」
――マイケル・ジャクソンから入ったということは、家でも常に音楽が流れてるみたいな?
「いや、もう家ではほとんどドリカム(笑)。母親がドリカムが大好きだったんですよ。あと、親父は“飲んで~飲んで~飲まれて~飲んで~♪”(河島英五『酒と泪と男と女』('76))とか(笑)。ただ、俺が初めて物心ついて音楽を認識したのが、今でも覚えてるんですけど小学校2年生のとき、母親がORANGE RANGEの『musiQ』('04)っていうアルバムを家で流してたのがそもそもの始まりで。そこからORANGE RANGEのライブを観に行って、やっぱりカッコいいなと思った反面、“いや、俺もあそこに立って目立ちたいわ”って思ったんですよ(笑)。それまでは具体的に何になりたいとかも、目立ちたくもなかったんですけど」
――急にその発想が芽生えるというか、気付いた。
「だから、“俺、絶対にTVに出る人になるわ”みたいなことを、当時から母親には言ってたらしくて(笑)。最初はいろいろ流行ってたものを聴いてたんですけど、小学校6年生のときにサンタクロースにiPod nanoをお願いして。いざ届いたけど家にパソコンがなくて、叔父さんに“これに音楽を入れて”って渡したんですよ。数日後に返ってきたら、八代亜紀さんの『舟唄』('79)と、中村あゆみさんの『翼の折れたエンジェル』('85)の2曲しか入ってなくて(笑)」
――Twitter に、“何で若いのに『翼の折れたエンジェル』のことを書いてるんだろう?”と思ったら、だからか(笑)。
「小学校6年生の頃、バスケをしてても頭の中ではずっとその2曲が流れてたし(笑)。中学校に入って、音楽の授業でマライア・キャリーの『恋人たちのクリスマス』(‘94)とか、エアロスミスの『ミス・ア・シング』(‘98)とか、いろいろ聴かされてたんですけど、先生が“みんなに観てほしい映像がある。人を思いやるっていうのはこういうことだから”って、『ウィ・アー・ザ・ワールド』('85)のドキュメンタリー映像を、アーティストが集まってくる最初のシーンから観せられたんですよ。そのときに、アメリカ中のスターが人のために歌うって、めちゃくちゃカッコいいなと思って。それでマイケル・ジャクソン、シンディー・ローパー、ライオネル・リッチーとかもみんな知ったし。ただ、『ビリー・ジーン』を観てカッコいいなと思った1週間後には、マイケルが死んじゃうんですけど」
――『ウィ・アー・ザ・ワールド』が今でも影響を与えてるって、やっぱり音楽ってすごい。Rude-αのルーツの1つにTHE BLUE HEARTSも挙げてましたけど、それも思ったんですよ。今の世代にも届くメッセージがあるんだなと。
「THE BLUE HEARTSの表現ってストレートじゃないですか。けど、“俺はそんなこと、言ったことないわ”っていう言葉だから掴まれるというか。『ラブレター』('89)とかも、誰もが理解できるけど発せない言葉みたいな感じがすごいなぁと思うんですよ。あと、俺がクラブに行き始めた頃は敬語も使えなかったんで先輩に怒られて(笑)、ボコボコにされた後にアスファルトに大の字になって目を開けたら、“星ってこんなに綺麗だったんだ”って思ったことがあって。その帰り道に『青空』('89)を聴いて泣きながら帰ったりしてね。『TRAIN-TRAIN』('88)を聴いたときは、友達のバイクの後ろに乗って風を浴びながら、バカみたいにどこまでも行けるような気がしたし。それも今では笑い話ですけど、本当に青春のそばにあったというか、自分を映画の主人公みたいな気分にさせてくれたのがTHE BLUE HEARTSで…何か全部の曲に助けられてたなって思いますね」
――ORANGE RANGEで人前に立つエンタテインメントな仕事への想いが始まって、『ウィ・アー・ザ・ワールド』でブラックミュージックの懐の深さを感じ、THE BLUE HEARTSで言葉のパワーを知る。知らず知らずのうちに音楽に導かれてる感じがしますね。
「他にも、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドとかキャロル、柳ジョージ&レイニーウッド、ダンスの先生に薦められた松田優作とか、地元を歩いてたら地下のBARから音楽が流れてきて、入って行っておじさんに“この曲は誰?”って聞いたり(笑)。そのときに知ったのがイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』('77)で」
――ピンとくる音楽は本当にタイムレスというか、いい音楽だったら響くという。
「もうめっちゃ聴いてました。今はもうShazam(音楽認識アプリ)があるから調べられるけど、あの頃はDJ卓に聞きに行って教えてもらったりもしてたし。そこで、“お前アツいな!”みたいになった人とは、やっぱり今でもつながってるんですよね。昔、そのダンスの先生からも、“何でもかんでもShazamで調べるのがカッコいいと思うなよ”って言われて、実際そうだなと思ったし。東京のカフェとかで音楽が流れてたら、店員さんに聞いても多分面倒臭いだろうなと思ってShazamするんですけど(笑)、DJタイムとかだったら、いいなと思ったらすぐに聞いてますね」
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KDTにあのときフリースタイルを仕掛けられなかったら
俺は今ここにいないんだなって
――その後、ラップを始めたきっかけになったのは、“公園でいきなりフリースタイルを仕掛けられたから”って…いったいどんな街だよという(笑)。
「勢いのあるおじいちゃんおばあちゃんとか、パーティーピーポーなアメリカ人とか、不良みたいな人たちとか、本当にいろんなキャラが渋滞してて、どこに行ってもハプニングしか起こらない街だったんで(笑)。でも、きっかけになったKDTにあのときフリースタイルを仕掛けられなかったら、俺は今ここにいないんだなって思うと、ゾッとしますね。本当に自分を生み出してくれた存在なんで、この人は一生超え切れないなぁってめちゃくちゃ思ってますね」
――何かもう漫画みたいなストーリー(笑)。それにしても初めて&突然仕掛けられたのに、よく返せましたね。
「ホントですよね(笑)。実際にやったことはなかったんですけど、エミネムの『8 Mile』('02)とか、『高校生RAP選手権』は観てたんで。ただ、当時は『高校生RAP選手権』も地方ではまだそんなに流行ってなかった頃で、地元でラップしてる同世代なんて、KDTとか俺を含めて多分10人もいないぐらいの規模だったんじゃないかな? 周りの同級生とかはビリヤードだったりダーツをして遊んでたんですけど、俺とかKDTはさんぴん茶とかの大きいペットボトルとポテトチップスを買ってきて、それを囲んで“じゃあラップするか”みたいな感じで、本当に遊びだったんですよね。簡単じゃないですか、携帯から音を流してラップするだけなんで。でも、むちゃくちゃ楽しかったし、いつも川のそばでずーっとラップしてたんですけど、近くにテーブルと椅子があって、そこでカップルがイチャつくんですよ。俺たちは非リア充だったんで、そういうのを見つけたらすぐ横に行ってラップして、そしたらだいたいカップルが逃げていく(笑)。そういうことをずっと繰り返してたんで」
――本当に遊びの延長っていう感じですね。
「最初は機材とかもなくて、iPhoneのボイスメモを使って、片方でビートを流して、音を聴きながら“YO! 俺がRude-α”みたいな感じのマイクリレーをみんなでしてたんですけど、その“青空REC”をKDTが家に帰ってパソコンに取り込んで適当に切って、みたいな感じで曲作りが始まって、お金を貯めてマイクとかインターフェイスを買って…。俺の中で当時はラップ=フリースタイルとかバトルだったんですけど、そこからはとにかく曲を作りまくってたんですよ。YouTubeから適当なインストを拾って、それにリリックを書いてひたすら歌うみたいな作業をずっとしてて、本当に1日1曲ぐらい作ってたんじゃないかな」
――勝手知ったるトラックメイカーと一緒にやっていく方法論もあるけど、Rude-αは自分で曲も書くじゃないですか。しかもしっかりポップソングも書けるのはどういうことなんだろうと思って。
「基本的にトラック上のメロディラインだったり音のハマり具合、ギターソロを入れる場所とかは、全部自分で決めるんですけど…なぜかポップな曲ができるんですよ。何ならアイドルに歌ってもらいたいような曲もあるし、偏らずにいろんな音楽を聴いてきたのが、いい感じに」
――ブレンドされるというか、ミックスされるというか。
「自分には壁がなかったというか、ミーハーだったんだなって(笑)。例えば、ジャニーズとかAKB48とかでカッコいいなと思う曲も全然あるし、最近は欅坂46とかTWICEも好きなんですけど、本当にいいものはいい、好きなものは好きっていうだけで。そこからいろんな音楽を自分の中にちゃんとインプットできてたのかなって」
――何せ吸収するエリアがめちゃくちゃ広いですもんね。ヒップホップのゾーンだけじゃない。
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自分がビッグになって、誰もが知ってるような歌を作って
生活のふとした瞬間に俺の音楽が流れるのが、一番の恩返し
――’14年に『高校生RAP選手権』で準優勝という結果を出して、それが後々の上京にもつながるわけですけど、沖縄のミュージシャンの特徴って、沖縄を離れずに全国的に成功する人が結構多い。ただ、一連の話を聞いてると、Rude-αには沖縄、そしてヒップホップの枠すら超えていくボーダレスな感覚があるので納得ですね。
「俺は自分のいた街を本当に大切に思ってるんで、そういう意味でも、自分がその外に出てスターになることが、沖縄の人たちに一番夢を与えることなのかなぁと思ってて。もちろん沖縄に住んで、沖縄から成功するのもいいなと思うんですけど、俺は…例えば、安室奈美恵さんのように東京でもガンガン成功して、沖縄に帰ったら凱旋ライブで3万人集める、みたいになりたいんですよね。俺を見てラップを始めた子たちもいるし、KDTとかOZworld a.k.a R'kuma(レオクマ)だったり仲間が沖縄にはいてくれるんで、俺は俺で東京で、“ここまで行けるんだ!”っていうのを示したいんですよね。音楽を始めてから世界中のいろんな人に出会ってお世話になってきたし、その1人1人に感謝を伝えるとなると、ものすごい時間がかかるわけじゃないですか? それにはもう、自分がビッグになって、誰もが知ってるような歌を作って、生活のふとした瞬間に俺の音楽が流れるのが、一番の恩返しなのかなって。とりあえず今は、日本武道館でワンマンライブをすると宣言してるんですけど、俺は絶対にそれを形にできると思ってて」
――武道館を意識し始めたのはいつ頃なんですか?
「『高校生RAP選手権』の第10回目(‘16)で武道館でやったんですけど、8000人とかの前でラップするのがマジで初めてだったし、そのときの景色がもうすごくて。それってラップしてなかったら多分観られなかった景色だし、本当に、“俺はこのために生きてるんだな”って思った。ただ、それも16人という出場枠がそもそもあって、番組だったりいろんな力があって集まった人数じゃないですか? 俺は1人でここに好きな人たちを集めたいと思ったし、次はバトルじゃなくてアーティストとしてこのステージに戻ってきたいなと思ったんですよ」
――確かに、みんながRude-α観に来た風景を目の前にしたら、たまらないでしょうね。
「いや~たまらないですね。最近、BAD HOPが武道館でやったのもめっちゃいいなと思いましたし。まぁ武道館を超えたら次は東京ドームとかになるのかもしれないし(笑)、もっと違う形で、渋谷のセンター街のド真ん中でライブするとか、たまにはオフ会みたいなノリで、アコースティックライブみたいなことをやってもいいし」
――この1年はライブの手売りチケットをファンに直接持って行ったり、フットワークが軽いですよね。大阪でもストリートライブを結構していたし。
「最近、家の近くの緑道で友達と2人でアース・ウィンド・アンド・ファイアーの『セプテンバー』('78)のビートに乗せてラップしてたんですけど、普通に人が通ってますからね(笑)。沖縄でも青空の下でラップしてたし、目的地まで遠いときは歩きながらみんなでサイファーしたり、ホントどこでもライブ会場みたいな感じで」
――Rude-αも東京に出てきてもう3年。昨年はリリースも多かったですし、人生初のワンマンライブもありましたし、激動の1年だったと思いますけど。
「1年1年、去年より進化してるなと思えてるんですけど、去年は自分にとって本当に転機の年だったんじゃないかと。東京に出てから2年近くリリースしてなかったにも関わらず、ライブに集まってくれる人たちがいて…そんな中で、東京で見つけた景色を描いたEP『20』('18)を出せたし、配信で『Take me back』(‘18)と『Boy Meets Girl』(18’)も出せたし、海外でライブもしたし、初めてワンマンもやれたし。やっぱりライブ1本1本に対する思い入れがめちゃくちゃ変わったんですよ。本当に1人1人に伝わればいいなと思ってたから、クラブじゃなくて、俺のことを知らない人が多いアウェイの環境でもライブしてきたし、そのマインドを常に保ち続けるために、自分自身がやるべきことを明確に理解できた1年でしたね。もう言ってる間に平成も終わるんで、新しい時代のヒーローになるために、本当に覚悟を決めたというか、腹を括りました。“マジで全員武道館に連れて行ってやる!”って」
――先日のライブのMCでも言ってましたけど、それこそ沖縄のおじいちゃんが、“成功するまで帰ってくるな”って、最期にすごい置き土産をしていって。
「じーちゃんが死ぬ直前、もう本当に不思議なんですけど…それまでずっと苦しそうにしてたのに、急に目に光が戻って、みんなを見渡して。俺が、“じぃじ、俺、絶対に武道館でやるから。マジで連れて行くから。もうちょい時間がかかるかもしれんけど、待っててな”って言ったら、静かに頷いて亡くなったんで。やっぱりあの瞬間があったから…俺が音楽をやる理由は、人の夢とか希望になりたいっていうのが一番で。そこで俺が折れてしまうと、俺を見て“〇〇を頑張ります!”とか、“夢ができました”って言ってくれた人たちまで折れちゃうと思うんですよ。だからこそ、武道館という目標を叶えたときに、全員が報われるというか。いつか自分の子供が生まれて、自分と同じように10代、20代で壁にぶつかったときに、俺が目標を達成してた方が“夢は叶うんだぜ”って胸を張って言えると思うし」
――これだけいろんな人に出会ってきたら、その人たちの想いもどんどん乗っかって、もう後に引けないですね。
「いやぁ本当に。俺のライブのとき、結構お客さんが泣くんですよ。まぁ自分も泣くんですけど(笑)。マジで折れずにまっすぐやるしかないですね」
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初めて大阪でやれるのがめちゃくちゃ嬉しいし
積み重ねてきたことに意味があったんだなって
――そして、今年の3月には自主企画イベント『Rude-α presents TEEDA vol.5』が東阪で行われますけど、『TEEDA』=てぃーだ=沖縄の方言で“太陽”という意味で。
「太陽って当たり前にいつもあるじゃないですか。自分自身がみんなのそんな存在になれたらいいなっていうのと、俺のことをよく思わない人とかからは、眩し過ぎて見えないぐらいになってやるっていう意味で、『TEEDA』にしたんですけど。最初は沖縄でスタートして、その後はずっと東京でやってきて、5回目にして初めて大阪でやれるのがめちゃくちゃ嬉しいし、積み重ねてきたことに意味があったんだなって。最終的な目標はvol.40ぐらいまで続けて、大阪城ホールとかでTWICEと対バンするっていう(笑)」
――東京編のゲストは、SPiCYSOL、吉田凜音、そしてAnly。大阪編は何とCreepy Nutsと韻シストって、ROCKTOWNの300キャパでやるには豪華過ぎるメンツで。
「ヤバいですよね?(笑) それこそCreepy NutsのR-指定さんなんて、フリースタイルをやってるときにずっと画面越しに観てた人じゃないですか。しかも俺が『高校生RAP選手権』に初めて出たときの審査員がRさんだったんですよ。そのときは負けちゃって、泣きながらKDTに電話してたらRさんから“今日よかったで〜”って肩を叩かれて。ソッコー電話を切って、泣き顔でRさんに“一緒に写真を撮ってもらっていいですか?”って(笑)。それをしばらくLINEのアイコンにしてましたから」
――そんな憧れの存在だったCreepy Nutsと、大阪の雄である韻シストとやれるのは意義がありますね。
「韻シストも大好きでずっと聴いてたし、路上ライブでは『Dear』('13)っていう曲をカバーしたりして。だから、めちゃくちゃワクワクするというか、何かに導かれてるようで」
――今までの話を聞いてると、本当に自伝に書けるようなドラマを感じます。
「『ボヘミアン・ラプソディ』('18)みたいに映画になったらいいなぁ(笑)。俺も最後に“バーン!”とライブ映像で、お母さんとかに“ステージからキスを送るから”とか言ってね。いやこれ、マジで俺、武道館でやったろうかな(笑)」
(一同爆笑)
――ちなみに、Rude-αっていう名前は、当時好きだった女の子に付けられたらしいですね。
「本当に俺っていう人間は、女で形成されてるんですよ(笑)。母親から“勉強しろ”とは一切言われなかったですけど、“思いやりを持って生きなさい”ってずっと言われてたし、このRude-αっていう名前も、“ラップ始めるんだけど名前は何がいいと思う?”って当時好きだった子に聞いたら、その子が好きなバンド(=the GazettE)の『Ruder』(‘04)っていう曲があるらしくて、それをもじって“Rude-αとかいいんじゃない?”って言われて、じゃあそれにしようって。なのにフラれて(笑)、“絶対にこの名前で上まで行ってやるわ!”って、ひたすら頑張ってね。今でもその子とたまにメシに行ったりするんですけど、そのときも、“お前がいなかったら今の俺はいなかったわ”って…」
――ラップを始めるきっかけになったKDTしかり、“お前がいなかったら今の俺はいなかった”って言える人がこんなにたくさんいてくれる人生って、いいですね。
「バンドメンバーだったり、周りにいるスタッフさんだったり、お客さんだったり、人生で関わってきたそういう人たちがいてこそRude-αなので。“お前がいなかったらラップしてなかった”、“お前がいなかったらこの名前じゃなかった”、“お前がいなかったらこの曲はできなかった”、“お前がいなかったら音楽を好きにならなかった”…。“お前がいなかったら”っていう人が多過ぎるんですよね。だから、最終的にその恩を返すのは、めっちゃデカいステージの上だったり、例えば『ミュージックステーション』だったり、『紅白歌合戦』だったり、まずは何より武道館だったり。そのときに、自分の仲間とか家族とかファンもみんな呼んで、武道館に集まってくれた8000人の前で“ありがとう”って言うことが、一番近い目標なのかなって、今は思ってるんですよね」
(2019年1月22日更新)
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