その世界観に一気に引きずり込まれる独特の波動を宿した歌声で、SNSの闇を痛烈に切り取って見せた『誰かの幸せは僕の不幸せ』、男女間のアレコレをファニーかつエロティックに描いたオリエンタルポップな『猛暑です』、湧き上がる感情と叙情が涙を誘う名バラード『ぼくとおばあさん』etcと、冒頭から溢れんばかりの才能に心地よく圧倒され続ける巧みなストーリーテリング、様々なベクトルのアレンジを見事に乗りこなすソングライティング、驚異すら感じる底知れぬポテンシャル…。18歳よりシンガーソングライターとして活動を開始し、そのキャリアを着実に積み上げてきたヒグチアイが、自身3枚目のフルアルバム『百六十度』にて遂にメジャーデビューを果たした。『百六十度』とは、人間の視野である二百度に対する死角を表わすという。そして、そんなヒグチアイの目に見えぬ『百六十度』を後押ししてきたのは、彼女が女性として、シンガーソングライターとして1人1人出会ってきた、“背負わずとも背中を押す無数の手のひら”(『備忘録』より)だ。人は時に“失う”ことで、前へ進める。後悔も痛みも歌にして、劇的な進化と変化を遂げたヒグチアイに、喪失感と覚悟に導びかれた現在地を語ってもらったインタビュー。次代を担う要注目シンガーソングライター、満を持しての登場です!
初めて全部の曲にあった気がします
――そうやって人間関係が変わって、自分も変われて、音も変わっていったわけよね。
「1stアルバムの『三十万人』も2ndアルバムの『全員優勝』('15)も、やりたいことはやってきたつもりなんですけど、今回は"こういう曲の雰囲気にしたい"という明確なイメージが、初めて全部の曲にあった気がします。今まではもっと漠然と"あたたかい感じ"とかで作ってたんですけど」
――何でそんなにビジョンがハッキリし始めたんやろうね? あと、このアルバムって結構音楽性が幅広いし、ヒグチアイにはこんな引き出しもあったのかと。今のご時勢メジャーでやるメリットってどこまであるのかなと時々思うけど、この盤を聴くとやってよかったなって(笑)。
「アハハ!(笑) ただ、レコーディングしてくれた人も昔から知ってるし、ディレクターさんとエンジニアさんも『全員優勝』と変わってないし...えぇ!? 何で~!?(笑) 今回は、この曲のどこがいいのかとか、どの曲のどのエッセンスを取り入れたいかすらもちゃんと言えてたんですよ。うーん、何か脳がパカーン!ってなってたと思う(笑)」
――"音が進化した理由は?"の答えが"脳がパカーン!"(笑)
スタッフ「(笑)。単純に、1回ずつ立ち止まって、疑問に思ったことを投げ掛けてディスカッションして、納得して録れたのがデカいんじゃないかな?」
「あ! 確かに。以前は楽譜に指示を書いて、曲を聴いてその場で弾いてもらうこともあったりして、それは寂しいなと。今回はレコーディングまでにいっぱい時間をもらったんで、いつもは弾き語りでデモを作るんですけど、事前に友達のミュージシャンとスタジオに入ってみたり、そのプリプロからさらに出てくるアイデアもあったり」
――そうやって煮詰める時間もあったし、自分が開いてるからコミュニケーションもちゃんと取る。やっぱりヒグチアイがちゃんと開いたから、何もかも風通しがよくなったのか。
「それが一番かも。いろんな人にそうできるかと言ったら分からないですけど(笑)。これからももっとおもしろいことをやっていけたらいいな。"鍵盤弾き語りなんだからピアノは基本入れた方がいい"みたいなことも結構言われたんですよ。でも、アルバムの1曲目の『誰かの幸せは僕の不幸せ』のイントロから、ベースとギターとパーカッションだけ、みたいな。今は"鍵盤よりおもしろくなるなら、なくてもいいじゃん"、みたいに思えてるから」
――視野が広がったというか、自由になったというか。
「ただ、実は最初はミニアルバムにしようっていう雰囲気になってたぐらい、曲が書けなくて。'15年なんて多分3曲ぐらいしか書いてない(苦笑)。今までのストックも合わせて6曲ぐらいしかなかったから。ただ、パンパンの塔の小豆原"まめ"一郎(vo&g)さんに、"自分が欲しい音源を作った方がいい。ヒグチはミニアルバムが欲しいの?"って言われて。"ミニアルバムじゃなくてフルアルバムが欲しい"と思って(笑)。じゃあ頑張って曲を作ろうって。いつもは曲を書ける時期が年に2回あって」
――作物か!(笑)
「もう春・秋の二毛作みたいな感じなんですけど、その時期にどれだけの曲を書けるかで、その年が豊作かどうか決まる(笑)。だからその時期にいかに予定を入れないか、みたいな。それが=エアコンを使わずに生きていられる時期っていうのは分かってるんですよ(笑)。いつもそんな感じで、"あ、書けるようになってる"って気付いてどんどん曲を書き始めて、歌詞の方がいっぱい書けるようになってくるとそれが終わる時期なんです。っていうサイクル(笑)」
もう、ずっと言えないことばっかり本当に(笑)
――『誰かの幸せは僕の不幸せ』のメッセージは痛烈ですね。
「フフフ(笑)。この歌詞を漫画家の史群アル仙(しむれあるせん)さんに送って、ジャケットを描いてもらいました。Twitterに"お仕事依頼はこちらへ"っていうメールアドレスがあって、メールの文だけじゃ何か伝わらない気がしたから、直筆の手紙を書いてそれをスキャンして、曲も一緒に添付して送って。ただ、お仕事受けてくれるかどうかよりも、"私がすごく好きだからそう願ってます。もしよかったら曲だけでも聴いてみてください"っていう気持ちはありましたね。最初から無理だろうっていろいろ諦めちゃったりするのも分かるんですよ。でも、自分が好きな人に好きになってもらおうっていうのが、今回の結構なテーマだったんで。その1人目だった気がしますね」
――すごい! 前だったらこんなトライしてないよね。
「1年前の自分が自分を見たらどんな気持ちだろうって。"何があったの?"って(笑)。『誰かの幸せは僕の不幸せ』は3~4年前ぐらいに書いた曲で、どうしても入れたくて。何かもう...TwitterとかFacebookがイヤだなって思う時期があって。Twitterでよく叫んでる人とかがいるじゃないですか。その文字がすごく痛くて」
――今の時代、特にアーティストはSNSに翻弄されるやろうしね。しかも、その時期は決して上向きじゃなく。
「全くないですね。だから、誰かに怒りたかったんでしょうね(苦笑)。自分の中ですごいモヤモヤしてたから。自分の状態があんまりよくないのを人のせいにしてる時期だったかもしれないです」
――でも、そもそも曲を書き始めたきっかけが、直接言えないことを音楽にしたら歌えるということなら、そこは相変わらずブレてないというか。
「変わらないですね。もう、ずっと言えないことばっかり本当に(笑)」
――あと、『ハダノアレ』(M-8)のR&Bテイストなアレンジは、アダルトなサウンドだけど言ってることは若い、みたいなギャップも敢えてだろうけど、こういう発想って今までのヒグチアイにはなかったなと。
「そうなんです、実はめちゃくちゃ思春期の歌なんです。アーティストイメージみたいなものを守る必要がなくなったというか、水面下で自分を固めてても何も浮かんでこなかったと思うことがいっぱいあったし、"あのときもっと楽しくできてたでしょ"じゃないですけど、もうちょっと遊んでみてもいいんじゃないかって。今回はいろいろと自分で決めてかかってたことを、1回辞めようっていうのはありましたね」
――でも、だいたいこういうジャンル的嗜好があるアーティストには明確なルーツがあることが多いけど、ヒグチアイの場合は、それがないと。
「"こういうジャンルが好き"っていうのがあんまりない=音楽をそんなに掘り下げて聴いてるわけじゃないところに来るんですけど、何も知らないからこそできることがあって。"こういうことは普通は今やらないんだよ"みたいなことすら知らないから、やれちゃうんだと思います。だからもう、逆に聴かないべきだなと最近は思ってる(笑)」
――かと思えば、女性シンガーソングライター王道のピアノバラードみたいな『アイカギ』(M-9)のように、徹底的にシチュエーションを積み上げて、身に覚えがある女性なら泣いてしまうであろうこういう曲を書けるのは、やっぱりすごいなと思いましたけど。
「これは19ぐらいのときに書いた曲で。自分でも19でこれって"とんでもないなお前!"って思うし、それでお父さんに怒られたんですけど(笑)。やっとしっくりくる曲になったと思います。あと、『衝動』(M-5)はうちの母親に"アイちゃん、こういう曲をいつも絶対に入れたいんだね"って言われました(笑)」
――今まではアルバムの雰囲気に統一感があったけど、今回は逆に、ジャンルがこれだけ混在しててもヒグチアイであるという統一感、みたいな。
「こんなにグチャグチャしてるアルバムでいいのかなって最初は思ったんですけど、私の大好きな松崎ナオさんが、"シンガーソングライターのいいところはサポートメンバーを変えられること。唯一それだけ。それ以外は絶対にバンドがいい"って言っていて(笑)。いろんな人とできるのはいいことなんだから、いろんなジャンルができるのもシンガーソングライターのいいところだしって。そういうアルバムではあると思います」
――それに伴ってか、言葉も冴えてる。
「ホントですか!? やった! 嬉しい。いろいろあって、そのいろいろが過去になったから、じゃあそれを歌にできるだろ!みたいな。それがほぼほぼ出てるっていう(笑)」
――アハハハハ!(笑) これはちゃんと"失くした"人のアルバムだなと思いました。ズルズルと痛みを伴ってきたものをちゃんと失ったから曲にできた。現在進行系だったら曲にならないと思うんで。
どんどんそのときのことを思い出すようなあの気持ちに
みんながなったらいいのになって
――そして、タイトル曲とも言える『備忘録』で今作は締め括られていますが、まぁこの曲は書いたよね、自分を。
「ただ、一応、嘘は書いてないんですけど、書いてない部分があるのが卑怯だなとか、今は思ったりするんですけどね。あと、こういう曲がいいと言われてちゃダメだなとも思ってて。もっとシンプルで、言葉が少なくて、それでも内容がちゃんと伝わる曲が最上級の音楽だと思うし、私はそれをすごく作りたいから。だから感情9割みたいなこの曲のことは好きだけど、この曲だけでしか書かないんで許してくださいっていう(笑)。ズルいって言われても、もうすいませんっていう」
――もし5年後なのか10年後にヒグチアイが天狗になってたり(笑)、自分を見失ってたら、きっとタイトルそのままに、原点を思い出させてくれるやろうね。
「今の話を受けて、天狗になってこの詞を読んだときの気持ちになってザワザワしました(笑)。後に退けない(笑)」
――あと、他のインタビューでは、かつて自分の中に"ヒグチアイ像"みたいなものがあって、それに自分を近付けていた時期もあったと。
「カタカナのヒグチアイはカッコよくあるべきだっていうのがあったし、すごくハキハキしてるというかしっかりしてるように見えて、本当の自分はすごくおっとりした人間であることを、人に言われてようやく気付いて。"何で理想のヒグチアイに自分はなれないんだろう?"って思ってたのが、"そりゃ全然違う人間なんだもん、なるはずないじゃん!"っていうところに落ち着いて。そうしたら、カッコよくというよりは"自分は今こういう人間だから、そういうところも分かってよ"みたいなにはなっていったかな。やっとですけどね。でも、この先うまくいかなかったり、曲が全くできなかったりしたら、またいろいろグチャグチャするんでしょうけど。また全部出し切っちゃったんで。1曲もないんで、本当に(笑)」
――ここで改めて聞きますが、自分にとって音楽のいいところって何だと思います?
「音楽は...時間とか季節とががあんまり気にならない、どこで聴いても同じような気持ちになれるのがいいところのような気がします。何か...深夜のテレビでイルカがずっと泳いでるみたいな映像があるじゃないですか?」
――大阪で言うと、番組が全部終わった後に夜景がずっと映ってるみたいなやつやな。
「そうそう。何かあんな感じ。どこにいても、いつでも同じ気持ちになれるものかなぁ」
――すごい。以前同じことを聞いたら"分かんないです"って即答してたから。
「えぇ~っ!!!! ちょっと殴ってくださいよ(笑)」
――(笑)。だから変わったなと思いました。
「うん(笑)。今もすごく考えましたけど」
――そういうことで言ったら、『ぼくとおばあさん』(M-3)とか『さっちゃん』(M-4)とかの物語は、やっぱり聴いたらそれぞれの"あの頃"の気持ちに瞬時になれるもんね。
「小学校の同級生とかと喋ってるとどんどん当時のことを思い出すようなあの気持ちに、みんながなったらいいのになって。以前、父の子供の頃のアルバムが家にあって見てたんですけど、このときの父は当然今の自分みたいになることを知らなかったんだろうなと思うと、何だかグッときて。何も知らなかったけどすごく楽しかった、"あの校庭の砂の匂い"みたいなものを思い出せそうな気がして。それが目標というか、それが一番楽しくて書いてますね、うん」
――そういう装置がいっぱい入ってると思います、このアルバムには。最後に今後の展望というか、現時点でヒグチアイはどうなっていきたいかを聞きたいなと。
「全部をよくしたいのはすごくあります。歌を上手くなることを諦めないこと、ライブの曲順もそうだし、本当にちょっとしたことでも細部までこだわって、もっとよくする、ちょっとずつでもよくするっていう。理想は...曲がいっぱい書けるようになりたい。本当は、1億3千万人の人に好きになってもらいたい。"頑張る"っていうことを頑張り続けたい。次のアルバムはこのアルバムを超えたいっていうのと...」
――めっちゃあるやん(笑)。
「めっちゃありますね(笑)。あとは、うーん...風呂トイレ別の家に住みたい!(笑)」
――アハハハハ!(笑) 最後にそれ!?(笑)
「アハハ!(笑) 現実的な話がそれでした(笑)」
――何年後かにこのインタビューを振り返るのが楽しみだわ(笑)。今後の活躍に期待してます!
「はい! ありがとうございました!」
Text by 奥"ボウイ"昌史