cutman-boocheの解散からソロとしての覚悟まで…
再び音楽を手にした金 佑龍(キム ウリョン)の
“生きることに生きる”決意滲む1stアルバム
『Live in Living』インタビュー&動画コメント
'11年に解散したcutman-boocheのフロントマンとして活動し、地元関西でも愛され続けるシンガー、金 佑龍(キム ウリョン)。コンピ盤への参加などはあったものの、バンドの解散以降はライブを中心に活動していた彼が、約2年半の月日を経て初のオリジナル・アルバム『Live in Living』を6月19日(水)に満を持してリリースする。音楽の息吹が聴こえてくるような、無限のイマジネーションをもたらしてくれるアルバムの世界はもちろん、バンドの解散からソロアーティストとしての決意に至るまでの道のりを、たっぷりと語ってもらった。
その笑顔ズルいわ~堂々巡りの?動画コメント!
――コンピ盤への参加や、ライブなどではちょくちょく動いておられましたが、待望の音源リリースになりますね。
「cutman-boocheを聴いてくれていた人にもそうでない人にも名刺代わりですし、音楽業界の人たちにも“僕これから始めるので、よろしくお願いします!”みたいな感じで。一発目ですし、好き勝手やりましたね。でも、初めはこんなに曲を入れるつもりはなかったんですよ」
――9曲も…っていう?
「そう。そもそもはライブ会場限定で4曲だけ出そうと思っていたんですけど、気付いたらいろんな人が手伝ってくれて。東京へ行ってからはライブハウスやカフェでもライブをやってはいたんですけど、並行してバーでの投げ銭制のステージもやっていたんです。そういう旅芸人的な生活をこの1~2年はしてまして。それも間違ってはいないと思うんですけど、本当はもっと“ちゃんと”聴いて欲しかったというか。そういう中で、僕のギターの師匠ですごくお世話になっている梅田Shangri-Laの店長に、“だったらライブハウスに出ないといろんな人に見てもらえないぞ”って言われて、その流れでこの5月にShangri-Laでワンマンライブを組んでもらって。でも、初めはそのステージも拒んだんです。だってcutmanが解散してから2年半も経ってるし、忘れられててもしゃあない。でもShangri-Laって、cutmanで初めてワンマンをやった場所だったんですよね。それもあって再出発するにはいいなと思い直して。それが決まってから、さっき言った4曲ぐらいの会場限定販売のデモテープを作ろうと思ってたんですけど、気付いたら解散して2年半で2曲しか作れなかったのに、ライブが決まってからの2ヵ月半で17曲も出来ちゃって!(笑)」
――その感じ、おもしろいですね。
「何なんでしょうね。本当に曲が出来なかったんですよ。だから上京して初めの内はcutmanの曲を歌ってました。それに対して別に疑問もなかったし、自分が作った歌やし自分で歌って何が悪いねん!っていう。確かに次のステージを目指して頑張ってはないように見られるかもしれない。でもcutman の曲には“絶対20年ぐらいは歌い続けたろう!”と思って作ったものもあって。演歌歌手じゃないけど、30年かけて曲が広まったりするのもいいじゃないですか。今の音楽シーンの流れは早いから、1年に1枚アルバムを出してたら、すごくいい曲でもそんなにライブでやらない内に次のアルバムが出たりするし。それはイヤで。進化するのはエエけど、そんなに人間すぐには変わらへんよ。ムリムリムリ!」
――アハハハハ!(笑) だから新作にはcutman-booche時代の楽曲も入ってるんですね。
「ただ、cutmanの曲を入れるっていうことは、前の事務所やメンバーにも筋を通さないといけない。(法律上も)曲の使用登録とかがあって、流通の会社に入ってもらうことになって…大変です、今」
――レーベルを立ち上げたんですもんね。
「CDを出すのに、発売元が“自分”になるって知らなかったんですよ。よくある話ですけど、“僕ら事務所を抜けてレーベルやります!”って、出来る子はやったらいいと思うけど、僕はソロやし、歌うのにいっぱいいっぱいで、自分のレーベル持つなんて絶対ムリ!(笑) なのに、流通を担当してくれた人が“ウリョンさんが発売元で原盤もウリョンさんが作ったからレーベル名が絶対要るんです”って言われて。“僕はイヤです”、“いや、要るんです!”みたいな(笑)」
――押し問答(笑)。
「それでJUST DA SING RECORDSってレーベル名を付けたので、ここからどういう動きがあるのかお楽しみに! …みたいなことは全くなくて、しゃーなしというか(笑)。ただ、CDを伝えるためには頑張りたいし、自分1人では出来なかったことも多くて、いろんな人が手伝ってくれたんですよね。流通の会社の人もですし、そこを紹介してくれた人、キャンペーンを手配してくれた人…その人たちがいなければ、もう何も出来ひんかったな! 1人でやってはいるけど、本当にたくさんの方にお世話してもらって、僕がおるんやなって」
――ちょっと時間軸を戻したいのですが、そもそも上京直後にバンドの解散があって、そういう中でソロとして活動していく気持ちはどうやって生まれたんですか?
「(ソロへの気持ちは)なかったです。もう音楽やめようと思ってたんで。昔のインタビューでもずっと、“cutmanじゃなかったらやめてます”って言ってたんです。元々3人だったのが2人になったんですけど、やっぱり3人がよかったなって正直思ったんですよ。それを言ってしまったら、2人で出したアルバムは片手間なのかというとそうじゃないんですけど。一生懸命作ったし、いいものを作ろうと向き合った。ただ、3人の方が楽しかったなって。そこからはいろいろあって、もう仕方のないことだったというか」
――そこからどうやって気持ちが変わっていったんでしょうか。
「解散の2ヵ月後に東日本大震災があったんですよね。それで人生観もひっくり返って…。そのときにリクオさんのライブを観に行ったんです。元々めっちゃ好きなアーティストで、生き様がすごく現れているというか…いろんなものを飛び越えてきただろうバンド感とか、音楽をやる中であったいいことやイヤなこと、そういうのが全部背中に出ているようなライブだったんです。それでうわーって泣けてきて…。その打ち上げに行ったとき、リクオさんが“お前やめんなよ”って励ましてくれたんです。それがあったからやり始めたんですよね。だからソロ活動を決意したのは、めちゃめちゃ遅かったですよ」
あのとき感じたものは今でも感じられているから
――そんないろんな想いが詰まったソロ第1作『Live in Living』についてもお話を伺えれば。まずは冒頭の『combo!(月桃荘version)』(M-1)ですが。
「『無題2』(M-4)とこの曲は1人でやりました。ビートボックスとかベースも弾いたり、ギターやハープ、コーラス、サンプリング的なものも入れて。cutman時代にもやってる曲なんですけど、ちょっとした後悔があって。“こうした方がよかった~!”ってずっと思っていて、でもまぁバンドでは一番年下だったので言えなかった(笑)。この曲は自分が作った曲の中でも、1、2を争うくらい好き。ソロではこの曲をメインでやっていきたいと思っていたのもあって、1曲目に入れました」
――決意表明みたいな。
「そうですね。でも歌詞は“すごくイヤなことがあって、家に帰りたい~!”みたいな感じですけど(笑)」
――前述の通り、これ以外にもcutman時代の曲がいくつか入ってますよね。
「『combo!』もそうやし『Verse Book』(M-7)とか、それ以外の曲もめっちゃ大切で、たまにライブでもやってましたね。『Verse Book』に関しては、“僕、これ以上ポップな曲は作れません!”って前の事務所の社長に言ったこともあった(笑)、僕の中で一番ポップな曲。別に奇をてらうわけじゃないんですけど、自分が好きな感じをやろうと思うと、邦楽チックな感じではなかったりして。ブルースとかソウル、レゲエ、ダブ…ジェイムス・ブレイクみたいな感じもやりたいですし。でも、それをやるとポップに返れるかどうかも分からんし。何にせよ、絶対に歌っていきたい曲なんですよね」
――『Pora Pora』(M-2)は扉を開け放つような感じですよね。言葉の並びも呪文っぽい。
「これね、女の人の名前っぽくしたかったんです。絶対捕まえられないような、架空の女の人。振り回されてるなぁみたいな。僕は、音楽に振り回されてるんですけど(笑)。僕にとっての音楽を擬人化したみたいな、そういうイメージです。ポジティブ過ぎる歌詞じゃない方が合うなと思って」
――音楽に振り回されているとは、どういう感じなんでしょう?
「やっぱ普通にボーナスもらって福利厚生があって…そっちの方が全然いいと思いますよ!(笑) 僕飽き性やし、こんなに音楽やるとは思ってなかったので。何でやれてるんかなって、cutmanのときはずっと思ってましたね。オレ、正社員で働いてたはずなのになって(笑)。まぁ正社員では経験出来ないようなこともあるからいいんですけど、やっぱり30を越えてきたら“安定”って言葉がすごく素敵やなと(笑)」
――アルバム全体に、鼓動とか内なるものを引き出される印象があって。1枚目ということで、ウリョンさんの裸の部分みたいなものが出ていたのかなと。
「僕が好きなロックバンドとかにはむちゃくちゃやってる人もいるんですけど、最近の世の音源っておもしろくないと思っていて。音を補正するのに必死やったり、オケもめちゃくちゃ正確な音で…それはプロフェッショナルですごいんですけど、そんな音楽ばっかり溢れてたら、同じ顔色や声色のCDしか出ないじゃないですか。学生の頃の音楽番組とかって、たまにミッシェル・ガン・エレファントやハイロウズがめちゃくちゃやったりしていて。そういうバランス感覚が壊れてしまったというか…今の番組はダンスミュージック勢やアイドルさんとかしか出てなくて。それが悪いわけじゃないけど、それが全てやと思ってる若い子もいるんじゃないかと。“それ以外に君の人生に引っかかる音楽はめっちゃあると思うで!”って…。補正してキレイにしても、しゃーないんですよね。そのワンテイクで歌えないようやったら、それがお前の能力というか。何なら“それが味や!”って言うたらエエやんと。アーティストのパーソナルな部分ですし、裸の部分と言ってもらえるならそういうところだと思いますね。隠してもいいけど、どうせバレるしね(笑)」
――生=ライブはごまかせないですしね。
「そうなんですよね。でも、今回の制作でいうとエンジニアさんは大変やったと思います。『無題2』なんて音源そのものはiPhoneのボイスメモで録ったものなんで。そのときのニュアンスで置いておきたかったから、そのままの状態で渡して。多分これをレコーディング・スタジオで録ったら、めっちゃキレイになるんですよ。それよりも、それを録ったリビングの空気感とかも好きでしたし。夜中に作ったんですけど、その感覚がすごくよくて。もう1回やったらその空気感は出なかっただろうし」
――何だか、アルバムのタイトルにもつながってくる話ですよね。
「あの言葉は元々、山田かまちのものなんです。12歳くらいの頃から彼が好きで、最後の『Live in Living』(M-9)は、17~18歳の頃、かまちに影響されて書いた詞みたいなものがあって、それが英語になっています。日本語訳はすごく意味が飛び飛びというか、走り書きみたいなものをひっつけたというか。かまちも歌詞にならへんようなポエムなんですよね。“言葉は無駄だ”とか、彼が17歳のときの衝動的な言葉なんですけど、それを僕はすごくいいなと思って。30になったらそういう衝動みたいなものってなくなっていくし、丸まっていく。でも、あのとき感じたものは今でも感じられているから。そういうところから、かまちの“生きることに生きる”という言葉を英語にした『Live in Living』というタイトルを付けました。1作目ですし、17歳のときの気持ちでやれたらいいなという想いもあって」
――ウリョンさんの一部を作った人なんですね。
「そう。“生きることに生きる”という言葉にはすっごく感動しましたしね。本当にずーっと絵や詞、それこそギターなどに没頭していて、毎日ずっと何かを作っていた人だそうで。24時間じゃ足りないわって親に言ってたらしいんですけど。本当に生きることに生きたんやなと。同じことを言ってるだけなんですけど、すごく深い。自分が自分で生きるために何かを選んで、何かを省いて…それの繰り返しなんやなと」
――名刺代わりという言葉通り、ウリョンさんのルーツも深く見える1枚ですね。そんな同作のリリース後、関西でのライブも6月10日(月)梅田Shangri-LaにてFLAKE RECORDS主宰の『TONE FLAKES vol.47』が決定しました。
「バンド時代からFLAKE RECORDSにはお世話になってまして。ソロになってからも“CD置くよ”って言ってもらえたこととかが、めっちゃ嬉しくて! この日は恩返しじゃないですけど、FLAKEで一番CD売れてるヤツぐらいのステージにしたいです(笑)。共演の谷川(正憲 from UNCHAIN)くんとは知り合いなので、とりあえず谷川くんには負けへんようにはしたいな! 男前なので! 顔では絶対負けてるので…(笑)」
――では、最後に関西のファンの方に向けて意気込みを。
「今は大阪を離れて東京に住んでいるんですが、毎月大阪でライブをやってるので、帰ってきた感が全くなくて。常に自分の住んでいる街という感覚でいますので、気軽に遊びに来てもらえたらなと。あと、一人で肩肘張ってやってないので、フランクに声をかけてくれたら。アーティスト性高くやった方がいいかもですけど、まだそんな感じにならないので」
――いつかそういうときも来るんですかね?
「革ジャンとか豹柄なんか着出したら…すいません!(笑)」
――ライブも楽しみにしております。本日はありがとうございました!
Text by 後藤愛
(2013年6月 3日更新)
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