人が幸せになったり気持ちが前向きになったりっていうことが、
一瞬は負のように見えたりエキセントリックに見えたりしても、
芸術には、最後にはそれがあると思うんです。
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■「ジェナミ」はすっきりしたパステルカラーのお嬢さんね。
■弾いている時には当然オーケストラの音をちゃんと聴き取っていますよね。その時のピアノを弾きながらの判断っていうか、次の音をどう弾こう、というような気持ちはどういう風に生まれてくるんですか?反応というか、そういうのは本能的に出てくる?
小山:例えばこの間の「皇帝」だと、もう100回以上は弾いているので、いろんな音が自分の中にあって、今回は、Tutti(全奏)はどういう風に弾くだろうと思いながら…最初に大きなカデンツァがありますけど、第1主題はオーケストラから先に鳴ってきますから、それをすごく楽しみに待って弾く感じですね。
■ご自分の中で「この曲はこんな感じで」っていう、あらかじめのイメージがあるわけですか?
小山:もちろんイメージは持ってますけど、まずはやっぱり、音が出て…っていう感じですよね。それからまた、それこそバランスとか、ホールの響きとかいろいろな音が全部あるので。どれくらいの編成のオーケストラなのか、とか、オーケストラが出してくる音とか、そういうを聴いたその感じでこちらも音を出す、ですね。骨子は同じだと思うんですけど、毎回の演奏はすごく違うと思います。
■それを聴きながら対応するという感じでしょうか?
小山:対応するというか、一緒に進む感じですね。
■で、次はモーツァルトのピアノ協奏曲第9番「ジェナミ」を弾くわけなんですけれども、この作品については何かイメージはお持ちですか?
小山:これは「皇帝」のような強いタッチというのとはまた違って…何て言ったらいいかな、非常にチャーミングな曲です。それでアイディアが満載な曲なので、第3楽章の途中のメヌエットみたいなところは「魔笛」の1シーンみたいだし、さわやかな曲ですが、そのひとことでは語りきれない、とても瑞々しい曲ですよね。
■当時珍しかったみたいですね。あのタイミングでピアノが入ってくる。
小山:オケのあとすぐにピアノが入ってくる感じとか、そうですよね。とても斬新。あの頃のモーツァルトは、まずはオーケストラの主題があって、こうですよって示してからピアノが入ってきますからね。
■少し前までは、モーツァルトがフランスからザルツブルグに来た若い女性ピアニストに捧げた、というのが定説でした。21世紀になってからちょっと変わったみたいですね。
小山:「ジュノム」という名前でしたね。だけど女性が特定されて表記が変わったみたいです。「ジュノム」で定着しているから、どうなのかなと思ったけど、でもこの説が確定しているなら今回は新しい名前がいいんじゃないかってことみたいで「ジェナミ」。
■知り合いの娘さんの名前だそうですね。
小山:そうなんですね。舞踏家のお嬢さんですよね。その人だってことは特定された。まず間違いないってされたので。でもどっちにしても、もともと「若い人」っていう意味もあるわけですからね、「ジュノム」って(笑)。
■この曲はセンチュリーの「ハイドンマラソン」というシリーズの中で、同時代の作曲家としてモーツァルトが取り上げられているんですが、ハイドンマラソンでは、楽団員の方、特に女性奏者の方はドレスで演奏されるんですよ、ちょっと見た目に楽しいです。
小山:そう?みんなそれぞれ違う、いろんな色の服で出てくるの?いいわね。私も「ジェナミ」だったら、こんな色かな、というのはありますけどね。
■どんな色でしょう?
小山:やっぱりパステルカラーですよね。クリーム色とか、水色とか黄緑とかそういう雰囲気。すっきりした、そういう色ですよね。
■そうですね、若い、こう…何かまっすぐな目線の女のひとっていう感じですね。「ジェナミ」って。
小山:そう!あんまりこう、ぐねっとならない、しゅっとしてて。
■高めの自信を持った女のひとっていうか。
小山:そうね、多分ね。「高めの自信」って素敵な言葉ね。わかります(笑)。
■ちょっと、若さゆえの感じはあるんですけど、そんな感じの女の人。
小山:うんうん、まさにまさに(笑)。
■だから私、哲学的じゃないのかも知れない(笑)。
■第2楽章はちょっとこう、考えこむような、重く沈むような…。
小山:そうですね。ちょっとメランコリーに。でも重々しくはないんですよ。
■重々しくはない?
小山:うん、悲しみなんだけど、がくっと肩が垂れたような悲しみではない…そうじゃないんですよ。
■モーツァルトはそういう、微妙なところの感情の描き分けがうまいですね。
小山:うまいですよね。
■モーツァルトは本当の悲しみとなると、例えばコンチェルトの20番みたいな暗く塗りこめられたような悲しみを、叩きつけてくるでしょう?
小山:うん。あれは激しい、ちょっと。ぐーっと刺さる感じもありますよね。
■ああいう風な曲を弾く時っていうのは、体力を使われたりするんですか?
小山:体力は…あまり使わないんじゃないかな。ピアノってみんな体力っていうけれども、私はあんまり体力は使うと思わない。使うのは、おもに気持ちの方ですね。
■小山さんはご自身でも、雑誌に対談の連載をお持ちで、スポーツ選手の方とも対談されていて、感覚的に共感される部分をよく語っていますよね。体を使うっていう感覚がピアノって大きな楽器だから、似てくるのかなと思いながら読んだことがあったんですけど。そうではない?
小山:疲れるって部分では違いますね。「ピアノってスポーツですね」って言われることもありますけど、ほとんどそんなことはない。スポーツは体を使いますけど、疲弊する使い方とは違うと思いますし、ピアノも弾いていて疲れることはほとんどない。どこも痛くなるとかないし…。
■でも例えば感情の大きな曲などの時は?
小山:ラフマニノフの3番のコンチェルトとか?
■それもあるし、さっきのモーツァルトのピアノ協奏曲第20番とか、ああいう精神的に負の感情を強く描いた曲を演奏すると、やっぱり負担のようなものを抱えることがあるのかなと。
小山:その瞬間はありますけど、私はそれをぐーっとひきずることはないです。多分、そういう作品は作曲家もそういう状態の時に創っていたとは思いますけど、作曲家も負の感情をひきずり続けていたら、次々に新しい作品を創り続けることはできないのではと思うんです。
■なるほど、そうですね。
小山:単純にそう思うんです。やっぱりそこには、もっともっと書き続けられるエネルギーがあるわけだし、1個で終わってしまわないということは、何かを遂げようとしたり、発言したいとか発表したいとか、自分のこれを表現したいということで書くと思うのだけど、何かを抱え込むこととは違う。もしかしたら、中にはそういう人もいるかも知れないとは思いますけど…どうなんだろう。私も演奏する時はすごく燃えるし、わぁーっていきますけど、実際コンチェルトをいくつか弾いても、そのあと疲れたな…っていうことは、はっきり言ってない気がします(笑)。
■素晴らしい。それがひょっとしたら小山さんのピアノの、割と本質に触れるところかも知れないと思います。とても根っこの部分が健全なので。
小山:あっ、そうかも知れない。だから私、哲学的じゃないのかも知れない(笑)。
■でもあって然るべきことだと思います。例えば不健康な芸術とか、そういうふうなものを抱え込む芸術とかいうのはありますけれども、でも芸術って最終的には人に対して希望とか前向きなものを与えるものではないかと。
小山:それでいいのかどうかはわからないけど、私は、震災の後にすごくそう思ったんです。何かする時に最後は、言葉で言えば平凡だけど、やっぱり人が幸せになったり気持ちが前向きになったりっていうことが、例えばそれが一瞬は負のように見えたりエキセントリックに見えたりしても、芸術には最後にはそれがあると思うんですよね、例えば20番のコンチェルトのような、ぐーっとした締め付けられるような音楽でも、あれを演奏したあとの瞬間はそうなるんだけども、そのあとにこう、気持ちが前を向く。
■そのあたりの感じが、小山さんのピアノの一番奥底の部分から伝わってくるので。
小山:おお、そんな。その深みに到達したいとはいつも思うんですけど(笑)。
(インタビュー・写真・構成 逢坂聖也/ぴあ)
(2016年8月 3日更新)
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