ホーム > インタビュー&レポート > 「日常から見過ごされて、ないとされているものを可視化させたい」 磯村勇斗主演で名もなき人々の苦しみや痛みを活写する 映画『若き見知らぬ者たち』内山拓也監督インタビュー
──まずは、この映画を作るきっかけについてお聞かせいただけますでしょうか。
きっかけは、自主映画で作った『ヴァニタス』が、2016年のPFFで観客賞を受賞して、海外にも行かせていただいて、初めて、お客さんに届くという感覚を知ったことです。と同時に、映画監督としてどうやって映画に向き合っていくのかを真剣に考えるきっかけにもなりました。自分なりの作品作りやエンタテインメントと呼ばれる娯楽、アートと向き合うことに駆られて、自分なりのものを書き上げようと思いました。
──その『ヴァニタス』を作ろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
上京後、東京の文化服装学院に入学して、スタイリストになる夢を追いかけていたんですが、課題を終えるだけでも深夜になってしまって。ある日、講師の方に、センスはもちろん大事だけど、どちらかというと根性論を語られたことがすごく悔しくて。根性論は付随してくるものだけど、正解ではないと思ったんです。根性論を噛み砕くと、寝れないことと食べれないこと、お金がないことがハードルなんですよ。
──根性論ですか...。
僕は、猪突猛進タイプだったので、それを困難と思わなければスタイリストになれると脳内で変換して。食べれないことは、1ヶ月に3000円で暮らすことを当たり前にすれば苦しくないと思って、その生活を2年間ぐらいやってました。奨学金はたくさん借りましたが、仕事しながら奨学金の貯金を食い潰しながら、その間に稼げるようになれば、節制すれば当面はクリアできると。ただ、寝れないのは生理的にとても苦しくて。
──寝られないのはしんどいですね。
課題やバイトを終えて、スタイリスト活動をすると2時、3時は当たり前なんですが、そこで寝たら皆と一緒だと思って、毎日必ず映画を1本観るというノルマを立てて、睡眠時間が1、2時間の生活を続けたんです。身体は悲鳴をあげていましたが、こんなに映画がたくさんあることと、ミニシアターにも出会って、映画館の素敵さにも触れて、映画ってすごくいいなと感じるようになったんです。
──そこで映画の魅力を知ったんですね。
映画を浴びるように観てたら、どんどん映画にのめり込んでいきました。当時は1年間に1200本ぐらい観てました。
──それはすごいですね。
それと、アイロンがけだけでしたが衣装のアシスタントとして、映画の撮影現場に行ったら、僕の目からは、映画をつくってる人たちがキラキラして楽しそうに見えた。衣装を通して映画、映像に関わるのではなく、自分があっち側に行きたいと思って。そこから就職もせず、漠然と映画界に入りたいと思いながら映画館のアルバイトを始めて、フリーターになったのがスタートです。
──その後、自主映画を撮られたんですね。
その前に、初めて助監督をやったんです。現場に全く慣れてないので、出来の悪い助監督のサードだったんですが、そこで監督の姿を見て。ファッションも好きだったからスタイリストになりたいと思ってましたが、変換すると、ファッションを通して自分を表現したかったんだ、僕は映画を通して表現したいんだ、と。照明や撮影など、いろんな部署の人がいる中で、僕が映画界でしたいことは監督なんだとそこで気づいて、助監督をやめて、アルバイトをしてお金を貯めて、『ヴァニタス』を撮りました。
──なるほど。
映画界に入る入口は色々あると思うんですが、僕はビデオカメラを回して映像を作った経験もなくて。だから、初映像作品が『ヴァニタス』なんです。本当に見よう見真似というか。僕にとっての教科書は浴びるように観てた映画でした。
──『ヴァニタス』が初めてというのは、すごいと思いますが、1番影響を受けた映画は何ですか?
学生の時に、映画ってすごいと思ったきっかけはスタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』でした。凄まじい世界が広がっていて、こんな世界観を作ることができる凄さに圧倒されて心が動きました。『ヴァニタス』の教科書という意味では、ポール・トーマス・アンダーソンとイ・チャンドン、そしてエドワード・ヤンとジャ・ジャンクーですね。
──話が『ヴァニタス』にいってしまいましたが、本作の題材にはどのように行きついたのでしょうか。
今作の主人公・彩人はヤングケアラーと呼ばれると思いますが、僕自身もそういった少年でした。
──それはいつ頃の話なのでしょうか。
5、6歳の頃には僕の人生はこうなるんだと自覚していたというか、なんとなく悟っていました。自分がヤングケアラーだったというのは後から知りましたが、家族的なものに向き合わなければいけないと思いました。
──なるほど。
もうひとつは、僕の友人が実際に経験した、本当にあった事件のことを聞いたことです。
──彩人が警察に口の中にタオルを入れられた事件のことでしょうか?
そうです。僕が脚本を書き始めた頃に、友人が泣きながら話してくれました。映画監督ってそもそもなんだろう?と考えていた時期で、もし将来的に自分が何かものを作っていくことを職業にするのであれば、こういう顕在化しないものにこそ向き合っていかなければいけないと思いました。
──そうだったんですね。
自分も含めて、たったひとりに向けて作っていかなきゃいけないと思いながら友人の話を聞いて、大きくは、ヤングケアラーであることと実際にあった事件を自分の中で咀嚼しながら結びつけて、2本の大きな柱を立てて脚本を書き始めたのがきっかけです。
──前作の『佐々木、イン、マイマイン』も、佐々木はネグレクトというか、家庭に問題を抱えてるような描写がありましたが、それも監督の中では、たったひとりに向けて作るという意識だったのでしょうか。
『佐々木、イン、マイマイン』は主人公のユウジも、おばあちゃんと暮らしてますが、今作ほど、家庭環境にフォーカスを当てたわけではなくて、主人公が佐々木個人と向き合う構成でした。映画が完成してから批評していただく中で、「ネグレクトを扱ってますよね」と言われて、確かにそうだと気づくぐらいでした。
──前作の時は、家庭環境を主軸に描こうと思っていたわけではなかったんですね。
いわゆる10代、20代の若者と呼ばれる世代が向き合ってるものにフォーカスを当てると、必然的に、90年代に語られている青春映画やカルチャーと呼ばれるものとは時代性が違っていて。その当時の、例えば岩井俊二さんやいろんな方々が向き合った事象は、きっとその時代に向き合って届けられていたと思うんです。
──今と比べると時代性は違いますね。
そういう意味では、その時代やキャラクター個人に向き合うという視点で考えると、『佐々木、イン、マイマイン』は2020年代の映画だったように感じます。それでも、誰かの目線を通して誰かを思う、誰かを描くことは、今作と『佐々木、イン、マイマイン』に通じるところだと個人的には思っています。
──確かに。
『佐々木、イン、マイマイン』は、佐々木というタイトルロールの人物が主人公ではなく、主人公の悠二を通した佐々木や、佐々木の周囲の出来事を描いてました。でも、今作の主人公は彩人です。前作で言うと、佐々木側の目線になっている。彩人の周囲がどのように形成されているかを描いて、彩人を思うところは一緒ですが、視点が逆なんだと思います。
──本作では、例えば、スーパーへ彩人がお金を払いに行くシーンでは、ある出来事の後のやり取りを映してから、出来事が描かれていました。そういうシーンにはどんな意図があったのでしょうか。
半分は意図的なんですが、半分は自分の中から勝手に出てくるんです。スーパーのシーンで言うと、構成上のセオリーでは、万引きをしてるシーンが最初に来るはずなんです。それがあって、「すいません」と謝りに行って、お金を払ってというのが親切なんですが...。
──セオリーはそうですね。
この映画は、約10日間という短い期間を映した映画で、長い人生をスライスしたもの。僕は、映画だから全部スタートから始めないといけないとは思ってなくて。この映画は、それぞれの記憶にも向き合っていると思うのですが、僕たちの記憶はすごく曖昧で時系列もバラバラに語ってしまうこともあるし、忘れちゃうこともある。たまたま子どもの頃にしてたことが、今何か結果が出たとしても、子どもの頃は、今こうなると思って生きてないじゃないですか。
──そうですね。
何年か経って、10年前のことが繋がってた、というのは後からついてくることですよね。伏線を回収しようと思って過ごしてませんし、回収されたとしても気づいてないことの方が多いですよね。
──確かに。
ある意味、そういうものが現実と映画を橋渡しすると思いますし、そういう表現に魅了されてきたんだと思います。順番通りにわかりやすく説明されると、僕は他人事に感じてしまう瞬間があるんです。
──なるほど。
だから、説明台詞が増えていくと作り手としても他人事に感じてしまって。僕は、お客さんにもできれば自分事に置き換えてもらって映画館を出てもらいたいと思ってます。もちろん、分かりやすく届く映画も必要だと思いますが、それが肥大化しているように感じていて。中間の曖昧なものがなくなって、0か100で語られる世の中に、映画も追従してしまっている気がするんです。だから、僕は曖昧性や余白を作りたい。余白を映画が埋めるのではなく、お客さんに余白を埋めてもらえる映画を作りたいという思いが念頭にあります。
──特に終盤のシーンには、その余白がたくさん見られたように感じました。
そうですね。日向と麻美の食卓のシーンも、日向には麻美さんは笑ったように見えたから、喜びを少しだけ感じるけれど、彼女たちは当事者ですよね。映画の中で完結するのではなくて、たまたま、僕たちがそれを覗かせてもらったような感覚なので。
──なるほど。
大和は、最後にあの店で彩人の気持ちを持ち帰ったと思うんです。あそこでは何かを決断できなかったのかもしれないけど、その後に大和はもしかしたら大きな行動をしているかもしれない。映画の中で、ここで終わりですと言ってしまうと、この物語の中だけになってしまう。当事者はすごく危うくて、苦しくて、怖いと思うんです。壮平もラストカットの先に、また試合に向かうのか、もしくは、家族のことを考えて人生を違う道に進む可能性もあるんです。
──それが余白なんですね。
また、(警官の)松浦が誰かに突きつけられるものが、この先を暗示とまでは言わなくても何かのきっかけにはなっていくと思います。それが好転するか、もっと最悪のシナリオになっていくかは描きようがないというか、僕たちが埋めてはいけないもの。終盤、松浦が歩いていくところも、彼の横を電車が走ってます。電車は決められたレールをひたすら、決められた時刻に決められた場所へ行くしかない。松浦にも電車のようなレールが敷かれてしまっているから、彼の人生もあそこで描こうと思って電車と並走させました。
──手の銃も含めて、何度か銃の描写がありますが、突然の暴力とはこういうものなのかもしれないと思いました。普通に道を歩いてても突然の暴力に遭遇することはあるという解釈もできます。
突然というのは意図してました。僕たちの人生で、シナリオがわかって起きる事象はほぼないと思うんです。僕たちにはこの後、100%わかってないシナリオが起こるわけじゃないですか。いいことも悪いことも突然、突きつけられるはずなのに、僕たちは安全圏で物を語るし、安全圏から「あのニュース大変だよね」と言いがちですよね。
──確かに。
今、SNSとか誹謗中傷、もしくは暴言など、そういうものを総体的に言う"便所の落書き"がすごく大きくなってるように感じます。"便所の落書き"自体は、すごく小さくて、どうしようもなくて、拙いものですが、そういう弱いものや特に意味のないものの対極にある、強いものの究極が拳銃じゃないかと。これらは一見、混ざり合うことも絡み合うこともないんです。本来の意味としては。
──そうですね。
例えば、銃乱射事件が起きて「アメリカの大学やばいね」と言ったとしても明日には少しずつ忘れていく。それが、日本にいる僕たちですよね。仕方ない部分はあるけど、それは仕方ないものとして片付けていいことではないと思うんです。実は今、この対極にある"便所の落書き"と拳銃が絡み合って、"便所の落書き"が拳銃のトリガーを引いてることがたくさんあるんじゃないかと。
本来、引き合うはずがないのに、対極にある"便所の落書き"のようなもので簡単に人が死んでしまっている。僕たちは銃のない社会に生きてると思っているけど、正確には違いますが、警官の数だけ腰にぶら下がってるので、日本にもたくさんの拳銃があって、拳銃はそこら中にあるんです。
──なるほど。
そういう危機感をどこか遠いものとして現実社会から遠ざけて蓋をしてるように感じていて。でも、そうじゃないという視点は持たなければいけない。拳銃の引き金は誰でも簡単に引けてしまうことは、この世の中に内包しなければいけない価値観なんじゃないかと思って、彩人が便所の落書きを見るトイレのシーンから警察と出会うように、対極にあるものを引き合わせて描きました。
──だから、トイレのシーンから職務質問に繋がっていたんですね。
日本に住んでいると、銃は、自分と関係ないものという認識だと思うんです。拳銃は強いですが、弱き者の世界でもある"便所の落書き"が引き金を引いてしまうことがあるんです。
──SNSのたったひとつの言葉によって死んでしまう人もいるということですよね。
自分が書いたことが、もしかしたら、全く関係ない、会ったこともない、顔も知らない人の引き金を引いてる可能性もあるんです。そういう想像力が欠如してると思います。
──『若き見知らぬ者たち』というタイトルにも強いメッセージが込められているように感じました。
『若き見知らぬ者たち』というのは、「若き」=年齢ではなくて。一般市民の中でも底辺と呼ばれてしまう人を「見知らぬ者」ということでもなく、誰しもが今を生きているその瞬間が1番若い時だ、という価値観が忘れさられているような気がして。誰もが一瞬一瞬、若きを継続しているはずなのに。
──そうですね。
「見知らぬ者」というのも、有名な人でも、誰かにとってはみんな見知らぬ者なわけですよね。個人が集団となり、その集団の関係性においてみんなが大切な人になり得ますが、それが大きな視点で見ていくと、見知らぬ者はいないものとされる。でも、目を凝らして見ると、必ずそこに人はいて、感情は存在している。それをひとつでも掬い取りたい。だから、日常から見過ごされて、ないとされているものを可視化させたいという意味で、「見知らぬ者たち」なんです。
──だから「見知らぬ者たち」なんですね。
世の中には見知らぬ者たちしかいないのに、そういう曖昧な中間を取っ払って、無名か有名かなど極論に走るようになってますが、僕は中間の感情こそが大切だと思っています。自己責任を問われる世の中で、負けた人や存在価値がないと言われた人は、どうすればいいのかを考えても、ちょっとしたルールを作ろうとか、議論をしようとしても、何も前に進んでないし解決してないのに、やってます、考えていますということが世の中にいっぱいあるように感じていて。
──そうですね。
枠組みや旗は立ってても、その先が大事なのに本質を見ていないことが多い。もう1歩先に行く感情を持てるような補助線として、この映画を描きたいと思いました。この映画を観て、何か考えるとか、もしくは考えたけどわからないでもいいんですが、ひとりひとりが持ち帰って、立ち止まって考える時間になってほしいと願いました。社会的な現実というものをひとつ、映画の中に置こうと思いましたが、映画はそこから出発してるわけではなく、主人公やキャラクターの外側にたまたま社会があるから、社会が描かれると僕は思ってます。
──なるほど。
社会派という言葉が僕はあまり好きではありませんが、政治性やニュース性のある題材を扱うものが社会派ではないと思うんです。その映画に社会が描かれているかどうかが大事であって。世の中には全員が平等とされてるものがあるはずなのに、スタートから平等じゃないことはたくさんあって。
特にヤングケアラーは、時間は唯一平等だとされているはずなのに、時間すらも平等じゃない。経済的なものが平等じゃないことはなんとなく理解されるようになりましたが、同じ時間が流れているから平等だと言われても、彩人に流れている時間は平等じゃないですよね。そういう価値観を内包して、映画館を出てから考えるきっかけになるような映画にしたいと思いました。
取材・文/華崎陽子
(2024年10月28日更新)
▼T・ジョイ梅田ほか全国にて上映中
出演:磯村勇斗 岸井ゆきの
福山翔大 染谷将太
滝藤賢一 / 豊原功補 霧島れいか
原案・脚本・監督:内山拓也
【公式サイト】
https://youngstrangers.jp/
【ぴあアプリ】
https://lp.p.pia.jp/event/movie/304080/index.html
うちやま・たくや●1992年、新潟県出身。文化服装学院入学後、学業と並行してスタイリスト活動を始めるが、その過程で映画の撮影現場に触れ、映画の道を志す。23歳で初監督した『ヴァニタス』(2016)がPFFアワード2016観客賞を受賞したほか、香港国際映画祭にも出品を果たし、批評家連盟賞にノミネートされる。俳優の細川岳と共同で脚本を書いた『佐々木、イン、マイマイン』(20)で劇場長編映画デビュー。2020年度新藤兼人賞や第42回ヨコハマ映画祭新人監督賞に輝く。King Gnu「The hole」、SixTONES「わたし」などのMV演出や『余りある』(21)『LAYERS』(22)などの短編や広告映像を手がけて話題を集め続け、「2021年ニッポンを変える100人」に選出される。本作『若き見知らぬ者たち』は待望の商業長編初監督作となる。