「借り物の言葉ではなく、本物の声が響いて、
体温を感じるような映画を届けたい」
クリープハイプの楽曲から松居大悟監督が着想した
映画『ちょっと思い出しただけ』池松壮亮インタビュー
クリープハイプによる楽曲「ナイトオンザプラネット」から『くれなずめ』などの松居大悟監督が着想、書き上げたオリジナル脚本を基に紡ぎ上げたラブストーリー『ちょっと思い出しただけ』がシネ・リーブル梅田ほか全国にて上映中だ。1年のうちのある1日を遡りながら、付き合っていた男女の6年間の軌跡を、感傷的になりすぎず丁寧に映し出している。初共演となる池松壮亮と伊藤沙莉がW主演を務め、怪我でダンサーの道を諦めた照生(てるお)とタクシードライバーの葉(よう)を生き生きと演じ、永瀬正敏、國村隼、尾崎世界観、成田凌らが個性的なキャラクターを体現。
コロナ禍真っ只中の2021年とマスクをすることなく人と自由に会えていた2019年以降の大きな違いも含め、1年ごとの同じ日をふたりがどのように過ごしているのかを映し出すことで、彼らの関係性や生活、街の様子の変化を浮き上がらせている。別れてしまった後に悔いてしまいそうになる過去の出来事を、それがあったからこそ今があるんだと肯定してくれるような、切なくもじんわりと胸に残る作品だ。そんな本作の公開を前に、池松壮亮が作品について語った。
──本作は、池松さんが今まであまり出演されていないラブストーリーの映画です。まずは、本作への出演の決め手を教えていただけますでしょうか。
決め手というのはいつも色々な要素があるのですが、ラブストーリーが映画のフォーマットとして素晴らしいものであることは重々分かっていました。もう会えなくなったふたりの6年間を遡る構成であるこの脚本は、愛の損失を見せて愛を確認する優れたものでした。でも、これをいかに切ないだけや、あの頃は良かったという感傷だけで終わらせず、今私たちは生きていて、コロナと言う世界の破壊、破壊の後に必ずやってくる再生の間に、自分の人生にどういう出会いや出来事があったのか、どこに属し、安心出来ていたのか。
もうあの頃には戻れないけど、生きてきたことの記憶は必ず繋がっていて、今はきっと大丈夫だと思う、でも“ちょっと思い出しただけ”、これから生きていく、今生きていることのためにちょっと振り返るということを、この映画でトライしてみたくなったんです。
──「ちょっと思い出しただけ」というフレーズは、作品名でもあり、まさに本作の本質が込められたような言葉のように感じました。
特に今はこういう時期ですし、時代の変わり目に人はどうしても過去にすがってしまう。たくさんの人たちがあの緊急事態宣言中の隔離期間に人との繋がりを絶たれて、明日が見えず、自分の人生を振り返ったと思うんです。誰しもの人生にある過去がなかったものになりませんように。そして困難な時はまだ続いているけれど、今がなかったことになりませんようにという願いを込めて、この作品を送り出せればと思っていました。
──クリープハイプさんの主題歌「ナイトオンザプラネット」は、脚本の前に聴いていたんでしょうか?
脚本と同時に聴くことが出来ました。これは珍しいことなのですが、脚本の最後に「ナイトオンザプラネット」の歌詞が載っていたんです。こういう音楽が流れます、と。この曲はクリープハイプの尾崎(世界観)さんが2020年の2月に、ライブが中止になったその夜に書いたものだそうで、そこから1年ぐらいかけて松居さんが脚本を書いたんです。撮影よりも先に主題歌があるという経験は今までなかったので、とても面白い体験でした。
──初めて「ナイトオンザプラネット」を聴いた時はどんな情景が思い浮かびましたか?
素晴らしいと感じました。この曲にこの映画を導いてもらいましたし、青春や幻想と決別しながらも、人生という不完全で儚いものを、優しくさりげなく抱擁するような印象でした。これまでクリープハイプの曲は、女性が主人公になっている曲が多く、今回はそんな女性がいつの間にか母親になっています。尚且つ、尾崎さんが一番好きな『ナイト・オン・ザ・プラネット』という映画を引用した曲。
撮影していたのは2021年の夏ですが、映画が公開される2022年の2月までにとてもコロナが収まっているとは思えませんでした。それでもスクリーンで誰かとこの曲を聴きながら夜明けを見る。この映画体験が、今この世界に必ず価値があるのだと信じて臨みました。
──松居監督とクリープハイプさん、池松さんのコラボレーションは、映画だけでも『自分の事ばかりで情けなくなるよ』、『私たちのハァハァ』に続いて3作目です。
松居さんとは20歳で出会って、それから度々作品を共にしてきました。僕にとって特別な監督です。クリープハイプの尾崎さんと3人で揃うというのはおそらく7年ぶり。以前はプライベートでもよく会っていましたし、PVや映画、舞台など、これまでたくさんの作品を発表してきました。あの頃は皆20代で、3人で青春を共にしていたような感覚があったので、この時代の変わり目に再集合して、これまでに決着をつけた上で、また一緒に新しい時代に向かっていけたらと思っていました。
──主人公にとって『ナイト・オン・ザ・プラネット』は都度見直す特別な作品として描かれています。池松さんにとって『ナイト・オン・ザ・プラネット』はどんな存在ですか?
数年に一度、無性に見返したくなります。『ナイト・オン・ザ・プラネット』は3年に1回は観ていると思います。特別な1本です。だからこそ、『ナイト・オン・ザ・プラネット』を好きな人たちが、この映画を観てちゃんと受け入れられるものにならなければと思っていました。決して表向きだけでなく、あの映画のDNAや精神性みたいなものをどう受け継げるだろうかということを沢山考えていました。
──『ナイト・オン・ザ・プラネット』は、ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキの5つの都市の5人のタクシードライバーが、同じ夜にそれぞれ体験する5つの物語を綴ったオムニバス映画。そんな『ナイト・オン・ザ・プラネット』の魂とも言える、タクシーのシーンの撮影には苦労された部分もあったのではないでしょうか。
『ナイト・オン・ザ・プラネット』という映画は、ジム・ジャームッシュ監督がおよそ30何年前に、スタッフ、俳優数名で各国を回って、タクシーの中での会話を軸に、その奥に広がる街や人々の暮らしを撮っています。ふたりの世界でありながらその後ろに寝静まった街が見えること。そして空がみえること。ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキに続く都市として、今作で東京を描くには、そのことがとても重要だと思っていました。
──確かに、『ナイト・オン・ザ・プラネット』では街の風景も映画を彩る重要な要素になっていました。
でも、現在のあらゆる映像作品の車のシーンは、ほぼ合成で撮影されています。グリーンバックで撮影し、後から背景をはめる形です。その方が合理的ですし、大勢の撮影クルーで芝居や照明にこだわって時間を割くことができるからです。でも、僕はそういう合理性について全肯定的ではありませんでした。
そして今回はどうしても牽引という、車で車を引っ張るやり方で撮影したほうが良いのではないかと思っていました。牽引で撮影することは何倍も時間がかかりますし、マイナスのことがあまりにも多い。例えば、2020年以前のシーンだと、人が映ってしまうとマスクをしているのでどんなに良いものが撮れても素材が使えなくなります。
──そんな中でも、池松さん演じる照生と伊藤さん扮する葉が、考え方の違いから言い合いになってしまうタクシーの中での長回しの場面は、すごく緊張感のある重要なシーンになっていました。
あのシーンは、この映画の中のある1日にとって特別なエピソードであり、ふたりの辿ってきた関係性においても重要でした。どれぐらいふたりだけの世界で引っ張ることができるのかというエキサイティングなシーンで、なかなか大変な撮影でしたが、なんとかこの場面をこの映画の肝のシーンとして成功させようという意識を皆で持つことができました。牽引にすることで街のネオンや夜空、風景も映るので、街を映しながらふたりの世界としてやらせてもらえたので、みんなで集中して、いい緊張感の中でワンカット長回しで撮影することができました。
──照生と葉が『ナイト・オン・ザ・プラネット』を観ながら、字幕版と吹替版どちらを観るかという会話の流れから、照生が葉に言う「言葉が伝わるから心が通じるわけではないよ」という台詞は、昨年池松さんが出演された、言葉や文化を超えた交流を描くオール韓国ロケの映画『アジアの天使』を思い起こしました。
この映画はオリジナル脚本なので、あの台詞は松居さんが書いたものです。松居さんという監督は、伝えたいことをなるべく言葉にしたくない人です。それは、映像作品を撮る監督の矜持として、言葉にならない何かを伝えたいという意志がありとても良いことだと思います。その一方で、よく女性との関係性の中でああいうことが起きるらしいです。言わなくても伝わってほしい一方と言わなきゃ伝わらないという一方と。そういうことは、人対人の間でよく起こることだと思います。
僕の演じた照生はダンスという身体表現をしていて、伊藤さん演じる葉ちゃんはタクシー運転手という接客業で会話をしている。どちらが悪いとは言えない、その違いやズレが浮かび出る、予感めいた会話です。違いやズレを悪い方に感じ始めるのは、人と人との心が離れていっている証拠ですよね。
──本作も石井裕也監督の『アジアの天使』もオリジナル作品です。特に、ここ10年は日本でオリジナル作品が作りにくくなっているように感じます。池松はそのような現状についてどのように感じてらっしゃいますか。
オリジナルのものが良いか原作ものが良いか、本音を言えば、僕はどちらでもいいと思っています。いい映画が出来上がるのであれば。問題は、オリジナル作品は観客動員が見込めないと決めつけ、自分たちの利益優先で映画業界自体の活性化や、未来の映画作りに視点が向いていないことです。ビジネス的な考えは絶対的に必要ですが、一方の創作に作り手の目が向かわなくなった現実があります。
何よりも大切なことは、オリジナルでも原作ものでも、その映画のもつオリジナリティだと思っています。映画作品の持つオリジナリティや心の奥底の声みたいなものが、誰かの書いた原作を使うことで消えてしまうのはあまりに良くないことだと思います。原作ものにもオリジナルにも素晴らしい作品はあります。オリジナル作品が減っている風潮には悲しさを感じていますが、ちゃんとオリジナリティのある、借り物の言葉ではなく、本物の声が響いて、体温を感じるような映画を届けることが必要だと思っています。
取材・文/華崎陽子
(2022年2月22日更新)
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