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「人は誰かに肯定されると嬉しいし、
 誰かに褒められるとそれだけで明日も生きていける気がする」
『きみはいい子』呉美保監督インタビュー

 『そこのみにて光輝く』で昨年の映画賞を総なめにした呉美保監督の新作『きみはいい子』が6月27日(土)より、テアトル梅田ほかにて公開される。原作は坪田譲冶文学賞を受賞し、2013年度の本屋大賞では第4位となった中脇初枝の同名作。原作を一読し、これは絶対に私が映画化すると思ったという呉監督の意気込みそのままに、映画は2年連続ベストワンの可能性を秘めた秀作に仕上がった。そこで来阪した呉監督に話を訊いた。

――前作『そこのみにて光輝く』(14年)、キネマ旬報ベストワンを始め数々の映画賞を受賞し、ご自身も多くの監督賞を受賞されるなどすばらしい評価を得ましたね。

もう一生分の賞をもらっちゃったなって感じです(笑)。『そこのみにて光輝く』は私の3本目の監督作品で、ここで勝負しないと駄目だなと思っていたことと、それまで私の作品からは性の匂いがしないと言われていたことへの悔しさがあって(笑)、私自身が「え、これ私が撮るの?」っていうぐらいの意外な題材を「振り切ってやってみよう」と決めたんです。それには、生半可じゃない情熱でやらないとお客さんに見透かされるなと。常に緊張感を持ち向き合ったことが結果につながったように思います。

 

――前作は、観客をぐいぐい引き込んでいく豪速球のような作品でしたが、監督のそれまでの作品と同様に一つの家族を見つめた内容でした。今回はいくつかの家族の物語が並行して描かれていきます。

中脇初枝さんの原作は短編の連作なんですが、読んだとき、かなり強くこれは絶対に私が映画化したいって思いました。監督4本目のチャレンジとして、一つの街を舞台に幾つかの家族を、一本の時間軸で描くパラレル構成にしたい、しかも、いわゆる社会問題として扱われるような問題を抱えた人たちがたくさん登場するのですが、決して暗い印象にはせず、どこか“救い”が感じられるような作品にしたいと思ったんです。

 

――3本目で振り切ったものを撮り、4本目でこれまでの集大成的な作品に挑むというのも仕事の流れとしてよかった気がしますね。4本目で集大成というのも少し早いですけど。

この先どうなるかはわかりませんが、この作品が私の集大成になったというのは結果的にありうると思います。毎回、これが最後だという覚悟でやらなければだめだと思いますし。

 

――原作を読んで、絶対に自分が映画化したいと思われたのは、原作のどういったところに惹かれたわけですか?

普段、映画化する候補作として小説を読むときには、映画化したときの映像を思い浮かべながら読むのですが、この原作を読んだときにはそんなことは忘れて、一読者としてのめり込み、最後には号泣してしまって(笑)。それも、いわゆるお涙頂戴的なものではなく、なんだか人って愛しいなあと、誰かに救われたような、そんな温かい涙で。そうしたら、自分が味わったこの感情をより多くの人に味わってもらいたい、それには映画にするしかない! と思ったんです。考えたらちょっと厚かましい話なんですけれど(笑)。

 

――いや、素直な動機だと思います。

あとは児童虐待や育児放棄、いじめや認知症、それに独居老人など多くの問題をかかえるいまの日本を描きたいという思いもありました。

 

――それを暗い感じのものにせず“救い”がある形で、ということですね。

そうです。いまの時代を描くのだけれど、別に時代に関係なくいつだって人は誰かに肯定されると嬉しいし、誰かに褒められるとそれだけで明日も生きていける気がする。今をどう描くかという問いのシンプルな答えがそこにあるように思ったのです。

 

――脚本は、前作と同じく高田亮さんですね。

そうです。前作と同様に最初は私が書いていたのですが、どうも構成がうまくいかず、やはり高田さんの力が必要だ! ということでゼロから高田さんに書き直していただきました。原作を読んで絶対に私が映画化したいとは思ったのですが、その気持ちにあぐらをかくのではなく、より客観的な視点を取り込まないと、と思ったんです。

 

――高田さんとの脚本段階での擦り合わせはうまくいきましたか?

はい、最後まで喧々諤々の話し合いでしたね(笑)。例えば、子役の加部亜門くんに演じてもらった自閉症の少年が終盤で唄う歌、高田さんが最初に出してきた曲が暗くって(笑)、何の曲にするかずいぶん議論し合いました。それから、喜多道枝さん演じる認知症の兆候が表れ始めたおばあさんが見る桜も、当初は「どう描いていいかわからない!」と思ってしまい、これもとことん話し合いました。最終的には、目に見えるもの、あるいは見えないものがすべてじゃない、誰かにしか見えていない、しかも現実には存在しないものを、映画として表現するって素敵じゃないか! という考えに至り、描くことにしました。

 

――歌も桜も少しファンタジックな感じのする、映画的ないい表現だったと思います。

ええ、でも悩みましたね。というのも、虐待や認知症など今回描こうとしたさまざまな社会問題は、現実のものとしてぬるくはせず、ちゃんと表現しなければと考えていました。映画の準備中、様々な人に取材をさせていただきました。新任の教師や自閉症の児童、その保護者の方、虐待された児童を保護する施設の方など。そこで訊いた話はどれも映画に必要なものでしたし、どれも他人事ではないと思えるものでした。だからこの映画でおこる物事すべてを日常と乖離した感じにはしたくなかったんです。でも、その一方で映画ならではの表現も必要だなと。それこそが「救い」になるのではと。そのバランスが崩れないようにしないと、と考えていました。

 

――そういえば、すごくいい台詞がもったいないぐらいさりげなく入れられていたりしますね。高橋和也さん演じる特別支援学級の先生が、富田靖子さん演じる、自閉症の少年の母親で「すみません」が口癖になっている女性に、「お母さん、今日はもう謝るのやめましょう」と言うところなどがそうです。

高橋さんの役は原作にはなく、あの台詞も実際に特別支援学級の先生に取材して訊いたことから生まれたのです。日常に落とし込むために台詞の使い方にもかなり神経を使いました。俳優さんたちもしっかり理解してくれ、計算した演技をしてくれています。終盤にある、尾野真千子さんを池脇千鶴さんが抱きしめるシーンは特に、二人の芝居が凄い! って思いました。尾野さん演じる雅美は、幼少時代に虐待され、それゆえに幼い娘との接し方がわからず手をあげてしまいます。そんな彼女を、池脇さん演じる陽子はすべてを理解し抱きしめる。そして陽子自身も虐待されていたことを告白する。

 

――あそこは下手をすると過剰になって劇的になりすぎるおそれのあるシーンですが、二人ともギリギリでとどめてますね。

お涙頂戴になりがちなのですがそうならないよう絶妙に抑えてくれています。シーンの構成として、例えばそのあと雅美が自身の幼少時代のことを陽子に語るというのもありそうですが、それは陽子の語りだけで十分想像できますから。さらにシーンの最後で見せる雅美の苦い笑顔がいいんです。

 

――苦い笑顔?

雅美は、抱えていた過去や虐待してしまっていることが明らかにされた上、すべてを受け入れるかのように陽子に抱きしめられ「救い」を感じるのですが、そんな雅美の娘に、陽子が「うちの子になる?」と冗談まじりに訊く。娘は拒み、雅美に抱きつく。そこでみせる雅美の笑顔。これが苦いんです。見ていて、ああこれが雅美を演じる尾野さんの役の掴み方なんだなと思いました。

 

――虐待している娘にそれでも慕われて、ぱっと明るくなったりほっとしてできた笑顔ではなく、少し困ったようにして見せた笑顔でした。

そうなんです。なぜなら彼女は、自分のことをわかってくれる人、それも自分と同じような目に遭っていた人に抱きしめられ救われるのだけれども、でもだからといって人は急に変われるわけではないですから。彼女のそれまでの葛藤や苦しみはその瞬間、少しは癒されるかもしれないけれど、なくなるわけではない。娘や、あるいは自分の心や過去とどう向き合うか、まだまだ残された問題は多い。だから、あそこで簡単に娘を抱きしめたりするのはおかしいと思うのです。それをきちんと感じさせる演技でしたね。

 

――きれいごとでは済ませないということですね。

このシークェンスも含めて、映画って終わらせ方が難しいなって今回つくづく思いました(笑)。原作短編5本のうちの3本を一つの物語にしたのですが、エピソードがいつしか交わっていく群像劇の奇跡みたいなことをするつもりはなく、シーンとシーンの繋ぎも台詞の途中でわざと切ったり、「なんだったのいまの?」と見ている人の気持ちに引っかかりを作る。その引っかかりが、物語が進むにつれて理解できるようになる。登場人物が多いがゆえに説明過多になってしまうのをいかに飽きさせず構成していくか、難しかったです(笑)。

 

――虐待されているかもしれない子どもや、自分が受け持つクラスでのいじめ、さらにクレームをつけてくる保護者などに真っ直ぐに向き合えない、高良健吾さんが演じている若い教師のエピソードなどがそんな感じです。

高良さん演じる岡野のシークェンスについては、どこかもやもやしたものを残して終わってもいいと思いました。まして岡野の抱える問題は、すっきり解決できることではないですし。岡野だけでなく、人はみんなもやもやしたものを抱えながら、それでも人生を続けていかなくてはならないのですから。

 

――街のことで言うと、街自体に少し閉塞感があり、そして、この街でいまなにが起こっているんだと不安に思わせるものがありました。

それは撮影の月永雄太さんの力ですね。今回「ヨーロピアンビスタ」という通常より左右の幅が少し狭いサイズで撮影してもらったんですが、月永さんがさらに縦構図をベースにしてくれて、人物の配置も通常より中央寄りで、なんとなく息づまる感じに撮ってくれたんです。編集しながら、画がいいなあってつくづく思いました。

 

――観ている方は勝手に画面の外でなにか大変なことが起こっているんじゃないか、次のカットで大変なものを観せられるんじゃないかと不安になるんです。月永カメラマンは『乱暴と待機』(10年、冨永昌敬監督)や『キツツキと雨』(12年、沖田修一監督)を撮った人ですね。

そうです。前作は近藤龍人さんに撮ってもらったのですが、プロデューサーに言わせると「東の月永、西の近藤」という現代の若手二大カメラマンなんです(笑)。月永さんが日大芸術学部出身、近藤さんが大阪芸大の出身で同い歳です。とても優秀なカメラマンのお二人と、続けてご一緒できたのは幸運だったと思います。ただ、お二人ともとっても寡黙で。こちらが質問したことになかなか答えてくれず、その対応がなぜか同じで、不思議でした(笑)。

 

――結果、とてもいい仕事をしてくれているのでそこは良しとしなきゃですね(笑)。でも、虐待やいじめや認知症、きちんと向き合わなくてはいけない問題なんだけど、正直つらい題材です。そういう意味で悩みはなかったですか?

撮っている最中にも、私どこに踏み込もうとしているんだ、臨もうとしているんだって怖くなる瞬間がありました。もしかしたら将来、よくこんな映画を作ったなあって思うときがくるかもしれません。でも、原作を読んで強く「映画化したい!」と思ったのも本当のことで。そういう意味ではきっと、いましか撮れない作品だったのかなと。だからやはり、撮って良かったと思います。

 

――最後に、これは映画監督に訊くことではない気もしますが、こどもやお年寄りが巻き込まれた事件の報道が絶えないいまの時代に、人はどうすればいいと思いますか?

虐待とか認知症とか、最近始まったものではないですよね。かつては「折檻」や「ぼけ」などと呼ばれていただけで。それが「虐待」「認知症」と呼称が与えられた。それ自体、良いことか悪いことかはわかりませんが、そう呼ばれ始めたことで、それまで隠れていたものが明るみになり、多くの人が考えるようになったのは、いいことだと思います。なのでこの映画もフィクションとはいえ、こういった題材を扱うことには意味があると考えています。昔に比べていまはこうだとかいう問題ではなく、誰もがちょっとだけ自分の周囲を見渡して、気になる人がいたらちょっと声をかけてみる。そういうことが気軽にできる世の中になればいいですね。

 

 

(取材・文:春岡勇二)




(2015年6月22日更新)


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呉 美保 監督 Profile(公式より)
お・みぽ●1977年3月14日生まれ。三重県出身。大阪芸術大学映像学科卒業後、大林宣彦事務所PSCに入社。スクリプターとして映画制作に参加しながら監督した短編『め』が2002年Short Shorts Film Festivalに入選。2003年、短編『ハルモニ』で東京国際ファンタスティック映画祭/デジタルショート600秒/泣き部門の最優秀賞を受賞。同年PSCを退社。フリーランスのスクリプターをしながら書いた初の長編脚本『酒井家のしあわせ』が2005年、サ

Movie Data



©2015「きみはいい子」製作委員会

『きみはいい子』

●6月27日(土)より、テアトル梅田、
 京都シネマ、シネ・リーブル神戸
 ほか全国にて公開

監督:呉美保
原作:中脇初枝
脚本:高田亮
撮影:月永雄太
出演:高良健吾
   尾野真千子
   池脇千鶴
   高橋和也
   喜多道枝
   黒川芽以
   内田慈
   松嶋亮太
   加部亜門
   富田靖子/ほか

【公式サイト】
http://iiko-movie.com/

【ぴあ映画生活サイト】
http://cinema.pia.co.jp/title/165582/

Event Data

高良健吾
舞台挨拶決定!

日時:7月4日(土)15:50の回上映後
会場:シネ・リーブル神戸

日時:7月5日(日)10:00の回上映後
会場:テアトル梅田

日時:7月5日(日)14:35の回上映後
会場:京都シネマ

※登壇者は予告なく変更になることがありますが、ご了承下さい。詳細は各劇場にお問合せください。チケットぴあでの販売なし。