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ぴあ初日満足度ランキング堂々1位
ひとりの少女の26年間を追った奇跡のドキュメンタリー
『夢は牛のお医者さん』時田美昭監督インタビュー

 1987年、新潟県の9人しか児童のいない小学校に新入生の代わりに3頭の小牛が“入学”する。当時、小学3年生だったひとりの少女は、牛の世話をすることになり、いつか牛のお医者さんになるという夢を抱く。そんなひとりの少女をなんと26年間取材することで夢を持つことの大切さや挑戦することの重要さを描く奇跡のドキュメンタリー『夢は牛のお医者さん』が第七藝術劇場にて上映中。どうやってこんな素晴らしいドキュメンタリーを撮りあげたのか時田美昭監督にインタビューを行った。

――現在はテレビ新潟の社員ということですが映画監督になりたい思いもあったのでしょうか?
映画に関しては実は挫折したんです。僕が映画の世界を目指していた35年くらい前は、監督になるためには40~50歳くらいまで助監督をしてやっと監督になれるというのが当たり前の時代でした。それで映画を断念したんです。それで、たまたま学校卒業の年にテレビ新潟が開局して、普通なら2、3人しか新入社員を採らないところその年は50人採用だったので、なんとか滑り込んだというところです。
 
――最初に小学校へ取材に行った経緯は?
昭和62年、(主人公)知美さんは小学校3年生でした。僕は入社7年目に突入する年で、それまでは事務系の仕事をしていたのですが人事異動で報道部に配属された新米記者。あのときは「ズームイン!!朝」のスタッフが1度取材していたんです。「山の小さな小学校で新入生がいない代わりに牛を入学させた学校がある」というネタで。それで、面白いなと思って後を追ったんです。引き継いだ形ですかね。牛とのお別れ(卒業)のときは僕も現場で大泣きしていましたが、本当にいい学校だなと思いました。その時点で数年後に閉校することが決まっていたので、それだったら閉校まで継続取材しようと思ったのが、今回の継続取材の始まりでした。牛の卒業式での子どもたちの涙に魅せられて継続しようと決めたんです。
 
――子どもたちが泣くシーンは可愛いし感動するし、こちらも涙なしには観られませんでした。
あんなに純粋でピュアな涙は初めて見ました。学校に生徒が少ないからか子どもたちはみんな競争意識が働かないようでした。体育の授業では球技が出来ないし、朝礼も“前倣え”をすることがない。大勢の中で、みんなで競い合ってスポーツをしたりするほうがいいのか、生徒数の少ない学校で穏やかに育つのか、子どもにとってどちらが幸せかは分かりませんが、ああいった小さな学校だったからこそ生まれた心根だったところはあると思いますね。
 
――その後、26年間も継続取材が続くことに驚きました。
最初はとりあえず閉校までと思っていたんですよ。知美さんが当時「牛のお医者さんになりたい」と言っていたのは聞いていましたが、そこに焦点を合わせえるでもなく。ただその後、知美さんが小学校を卒業するときに将来の夢を聞くと「獣医さん」と答えて。この子、夢がブレてないやということにまずびっくりして。そこから気になりだしたんです。それで、小学校卒業後も何か理由をつけては取材に行って、知美さんをウォッチし続けたという感じです。中学生のころは1度しか取材に行かなくて、高校に入った年に知美さんのご実家に電話したんです。そうすると「知美いないよ。獣医目指して、下宿して高校通ってるんだ」とお父さんから伺って。もう「えーっっ」ですよ! 今までは言葉で聞いていただけですが、彼女はその夢を実現させるために15歳で行動を起こしている。それを知って「取材させてくれ」とお願いしたんです。
 
――それが、知美さんだけを追い続けたポイントですか?
閉校までは学校全体の取材で、知美さん以外の子どもたちからも「おもちゃ屋さんになりたい」とか「猿まわしになりたい」とか言ってるのを聞いていました。でも高校で知美さんが獣医を目指していることを知ったときから、“ともみさんの夢”の取材に切り替わりました。
 
――それで知美さんが下宿していたところへ取材に。
下宿先へ行ってみると(部屋に)テレビがなくて「高校3年間テレビは見ないと決めた。勉強頑張らないと追いつかないから」と言っていました。入学した当初の知美さんは、成績が1番下のEランクだったけど、そういう誓いを自分で決めて猛勉強して、高校3年生ではAクラスのほぼトップにいましたからね。それを見ていて、人間やれば出来るって言葉では簡単に言うけど本当にそうなんだなって、僕自身が気づかされて。僕が1番感動した人間なんです。
 
――知美さんがずっとカメラに抵抗感を持っていないのも驚きです。
これは、知美さんに後から言われたんですが、僕のことを親戚のおじさんだと思ってたらしいです。知美さんのお父さんと僕の年齢が近いので、取材に行くたびにお父さんと話して、時には泊り込んで酒を一緒に飲んだり。そういった付き合いをしながら取材を続けていたので「今日はまた親戚のおじさんが来てカメラ回してる」みたいにしか思っていなかったようです。大学受験のときは事前に「落ちたら放送しないで」と言われていたので、会社からカメラマンを出さずに僕ひとりで家庭用のカメラで撮影しています。だから気兼ねなしに「いつも通りどうぞ。勝手に撮って勝手に帰りますから」と声も掛けずに勝手に撮っていました。
 
――監督自身も自分の娘のような気持ちで見ていたところがあるのでは?
そうですね。自分の娘の成長を見ているような感覚でしたね。僕自身、この取材を始めたころに結婚して、すぐに子どもが出来たので。二人三脚のような歩みですね。自分の家庭で自分の子どもは撮りませんでしたけどね(笑)。
 
――彼女がそこまで頑張れるのは何故だと思いますか?
背景には畜産農家をしているご両親の苦労があったと思いますね。牛が出産時に死ぬとお母さんが大泣きするらしいんです。それと、お父さんがチクショーって言ってる声が聞こえてきたり。そういう悔しさを見てきて、1頭でも牛を元気に育て上げられれば家が楽になる。親が楽になる。というのがあっての“牛のお医者さん”なんですよね。それに、親の苦労で自分は下宿して大学まで受験することが出来る。ただし、親の苦労を見ているから受験は1回限り。そこでも自分を追い込むんですよね。
 
――その大学はかなり難しいんですか?
国立岩手大学の獣医学科というのは、私立の医学部より偏差値が高いんです。しかもその年の倍率が13.5倍。本人には「大学落ちたら放送しないでね」と言われていました。それで、「もちろん」と言いながらもここを取材しないわけにはいかないですよね。僕らは夢の始まりが撮れているんですから。今のオリンピック選手なんかで子どものころから努力している映像があったりすることがありますが、夢の始まりは撮れていない。それが撮れているのが僕らの強みだったので、これをモノにしたいと思いました。
 
――小学校では家畜に関する授業も行われていたんですよね?
最初に牛を入学させるときに先生方は子どもたちに「体重が400キロになれば出荷する。そういう生き物だけど飼いたいか?」と聞いていました。ホルスタインのオスというのは肉になる運命しかないんですよね。小学校のころは「牛が可愛い、だから牛の病気を治したい」ということだった。ところが、大学受験をするあたりから「牛を飼う農家を助けたい」と本人が言っていました。そこであえて言いませんでしたか「両親を助けたい」という思いがあったでしょうね。
 
――夢をかなえて結婚されて子どもも持って。本当に素晴らしい。
仕事で辛いこととかもあると思いますが、それでもこの仕事が好きだという気持ちのほうが強いんですよね。ペットの獣医なら飼い主がいくらでも払うから治療してくれと言うけど、家畜の獣医は肉にする値段以上の治療は出来ない。その見極め。知美さん自身は頑張って治療すればその牛を治す技術も持っているんです。ところが農家のことを考えると治療代が高くなるから農家さんに対して「ここで肉にしましょう」と提案する。要は牛の命を絶つ。命の値段を計って牛を殺す判断をする。これがペットの獣医と家畜の獣医の決定的な違いですよね。それが仕事なわけで。
 
――辛いですね。大学で犬の散歩をしていましたが、あの犬も実験動物で解剖される。必要なことだと分かっていても本当に辛い。
本人もやっぱり今でも「辛い」と言っていますね。それでも尚且つこの仕事が好きということが見てても分かります。多くの命を犠牲にして、その命を糧にして獣医として成長していくということですからね。
 
――長い間追いかけてきて、今このタイミングで映画として上映することには震災に対する思いがあると資料で拝見しましたが。
やっぱり僕も報道記者ですから、福島や宮城の取材応援に行ったりして、その前に中越地震も体験していて、避難所や遺体の捜索、仮設住宅などいろんな場所で被災者の方々を見ています。そんな方々を見ていると目線が下がってどこかうなだれてるように歩いていたんです。それでなんとかこの方々を元気付けたいなと。1度テレビ放送したときにみなさんから「元気付けられた」「前向きに歩く勇気をもらった」「背中を押された気分がした」という感想が多かったんです。では、この話題を東北に届けよう。ただし、テレビ新潟の放送エリアは新潟県内のみ。じゃあ、ということで映画にしました。映画であればエリアを越えてどこでも上映されれば観ていただける。テレビってどうしても1度の放送で“送りっ放し(=放送)”なんですよね。だけど映画であれば一定の期間、観たい人が観に来てくれる。
 
――映画化はスムーズにいきましたか?
いや、難しい話ですよ。新潟県内で初めてのことです。赤字になったらどうするんだとかいろんな反対意見も当然あって。でも、社長は「儲からなくてもいい。映画にまでする実力のあるテレビ局なんだというイメージアップになるなら」と決断してくれました。
 
――そこも奇跡のような展開ですね。
知美さんが一度も挫折せずに放送できたこと、取材を続けられたこと、それと僕が大きな人事異動もせずに追いかけることができたこと、そのストックが残っていたことなどいろんなラッキーが重なったんです。
 
――新潟ではたまに放送されていたんですね。地元で知美さんは有名なんですか?
ローカルで数年おきに放送していましたので、新潟では「あぁ、あの子ね」という名物的な女の子になっていたでしょうね。
 
――「ズームイン!!SUPER」での放送は?
2003年ですね。ともみさんが獣医師の国家試験に合格して就職した春に。僕は「夢がゴールした」ということで20分間の特集を組んで全国放送したんです。16年分のストックですから20分でも相当短く、ともみさんを柱にしたストーリーのみでご家族については入れていません。削り取って削り取って背骨しかないようなものでしたが大反響がありました。それで、僕としてもどこか解放されたような気分になっていたんですが、知美さんが放送が終わった後に「夢はゴールしていませんよ。ようやく夢のスタートラインです」と言ったんですよ!
 
――あぁ、本当にすごい。
先月、東京で試写会を開催したときに徳光和夫さんが観てくださって「夢はゴールしていません。ようやく夢のスタートラインです」という横山由依(AKB48)のナレーションで大きく頷いていて。「巨人軍にドラフト1位で入っても巨人軍に入ったことがゴールと思っているやつが多い。巨人に入ったところがスタートラインだと思うやつこそ将来的に有名な選手になるんだ」と言っていました。わたしも知美さんからのこの言葉にもうちょっと取材を続けようと思ったんです。そうこうしてるうちに震災があって、知美さんも「本当は恥ずかしいんだけど、これが映画になることでひとりでも元気になる人がいるんであれば」と映画にすることを快諾してくれました。
 
――ナレーションがAKB48の横山由依さんなのはどういう経緯で?
夢を追い続ける女の子の話なので、夢を追い続ける象徴であるAKBにお願いしたいと思って事務所に相談したんです。映像と企画書と台本を用意して。それで見てくださって「知美さんは頑張り屋ですねぇ。うちのメンバーで頑張り屋と言えば横山由依です」と向こうから提案していただいて。
 
――横山由依さんは頑張り屋で有名なんですか。
僕も詳しくは知りませんでしたが、聞くところによるとダンスなんかも人一倍頑張って自分のパート以外も覚えて代役なんかもこなしていたらしいです。「誰が抜けても由依ちゃんならその穴を埋められる」と。誰もが認める頑張り屋なんですって。だからこの映画に本当にぴったりな人に読んでいただけたなぁと思っています。ただし彼女は京都弁がトレードマークなんです。でもこの映画は全国で公開するものですから標準語でないとマズイでしょうねと。舞台は新潟ですしね。それで猛練習して標準語でナレーションしてくださいました。彼女には「ゆっくり淡々と読んでください」ということだけ注文して、プロのナレーターや女優さんに読んでもらうより普通の女の子っぽさが良かったと僕は思いました。
 
――先に公開されている東京で行った、ぴあの初日満足度調査では堂々1位を取りましたね!
ぴあの初日満足度調査で1位を取ったことを機に一気に公開館数が増えて、4月10日時点で17都道府県20都市での公開が決まりました。無名の映画が口コミでじわじわ広がってきたところです。無名な分だけ、観た人が「すごいよ」と人に教えたくなるんだそうです。ありがたいことに、ネットにもそんな感じで書かれています。
 
――本当にそうです。この映画はいろんな人におススメしたいって思いました。家族で観るのもいいし、学校とかで上映できたらいいですね。
実は自主上映の申し込みも多く来ています。ご家族で観てくださる方が多いのですが、子どもは子どもの目線で、知美さんの成長と共に「自分も頑張らなきゃ!」「夢を持とう!」と思ってくれるし、親は親で知美さんの親と同じ目線で子どもの育て方に関して、親はどういうスタンスでどう応援したらいいのかが勉強になったというような感想もありました。働いている世代にも“働く”ってどういうことか職を決めるってどういうことか勉強になると聞きますし、辛い仕事をやらされているじゃなくて、仕事に自分から喜びを見出さないとだめだなと思った人もいたようです。単純に感動できて子どもが頑張ってる姿が素晴らしいというような声ももちろんあります。劇場が「こんなあらゆる世代に見てもらえる映画は今までなかった」と言ってくれたんです。それがまた嬉しくて。僕はこの映画で“夢を持つことの素晴らしさを”伝えたいと思っていたんですが、観てくれる人はもっといろんな観方をしてくれていますね。
 
――知美さんのような経験をした人がいて、それを誰かが演じるドラマならありえるんですが、全部本人で26年間の記録があるというのが奇跡でしかないですね。
実は素材のテープを隠し持っていたんです(笑)。基本的に取材テープは一定期間が過ぎたら消去するんです。取材60分して20分テープが3本になったものをテレビ用に1分くらいに編集します。その編集した短いものは残しておきますが素材は通常消します。そうしないと会社の倉庫がすぐにいっぱいになってしまいますからね。ですが、小学校が廃校になるまで継続取材をするということである程度ストックが出来ていて、もう正直な話消したくなかったんです。それ以降のも消せなくて。上司に「ほかのやつらは消してるんだぞ」と怒られたら移動させてまた隠して(笑)。「ズームイン!!SUPER」で放送して大反響があった後からは何も言われなくなりましたけどね。そうやって保存して出来たのが今回の映画です。本当に残しておいて良かった! 
 
――今回で映画監督への夢が叶ったことになりますね。
まさかこんなことで監督デビューが叶うとは思いませんでした。助監督を経てやっと監督デビューを出来るといわれていた年代で実際に監督になれたのでルートは違ってもゴールは一緒だったということかな。知美さんの獣医になる夢は一緒でも「牛を治したい」という目的から「牛を飼う農家を助けたい」という目的に変わっていったみたいなものですかね。僕はこれが一区切りついたら報道記者に戻りますがね。でも実は「続編が観たい」という声があるんですよ。
 
――続編ですか!?
知美さんのお子さんが「獣医になりたい」と言うなら追いかけますがね(笑)。



(2014年5月 4日更新)


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時田美昭 監督

Movie Data



©TeNY

『夢は牛のお医者さん』

●5月3日(土)より、第七藝術劇場
 5月10日(土)より、京都シネマ
 6月7日(土)より、
 神戸アートビレッジセンターにて公開

【公式サイト】
http://www.teny.co.jp/yumeushi/

【ぴあ映画生活サイト】
http://cinema.pia.co.jp/title/164455/