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「100人が観て99人が感動できてカタルシスを得られるよりは、
極端にいえば100通りに見方が分かれる映画を僕は描きたい」
『ほとりの朔子』深田晃司監督インタビュー

 『歓待』(08)で高い評価を得た深田晃司監督の最新作『ほとりの朔子』が、2月8日(土)より大阪シネ・ヌーヴォ、続いて京都みなみ会館、神戸・元町映画館で公開される。夏の終わりを叔母と共に海辺の町で過ごすことになった浪人生、朔子。10日ほどの限られた時間の中、人生のほとり(=エッジ)にいる彼女が、町の人々との出会いや思わぬ出来事に心をざわめかせ、「18歳の夏」を通り過ぎるヴァカンス・ムービー。主人公の朔子を二階堂ふみ、叔母を鶴田真由が演じ、さらに『歓待』にも出演した古舘寛治、杉野希妃(本作ではプロデューサーもつとめている)、太賀、大竹直らがほつれた人間模様を織り成してゆく。こうした言葉や人の関係などの“綾”や、女優の捉え方に監督の個性が窺える作品だ。大きな影響を受けたというフランスの映画監督、エリック・ロメールの話題もまじえながら、深田監督にインタビューを行った。

──数年前、深田監督のトークイベントでロメール作品、とりわけ『緑の光線』(86)をお好きだと聞きました。『緑の光線』がそうであるように、ヴァカンス映画を撮りたいという構想はずっとあったんでしょうか?

そんなに強くあったわけでもないんです。ロメールのヴァカンス映画って数本あって、もちろん大好きで観てはいましたが、最初にプロデューサーと話していて「ヴァカンス映画みたいなものを撮ろうか?」とキャッチボールしている間に出てきたもので。面白いのは、日本でヴァカンス映画を撮ること自体に矛盾があること。そもそも日本にヴァカンスって存在しないんですよね。

 

──慣習としてないですよね。

そう、ヨーロッパでいうヴァカンスみたいなものって制度としてもないし。日本でヴァカンス的な時間を描こうとすると、たとえば引きこもりの問題や20代、30代になっても精神的に成長、自立できない大人、いわばモラトリアムの話になってしまうんですよね。僕としてはそっちへ行きたくなかったので、今回は浪人生という設定を思い付きました。期限付きの、でも何ものでもないヴァカンスの時間を描けたのはよかったなと思います。

 

──深田監督の作品、特に本作を観ると、ロメールの方法論を「インストールしている」とでもいうんでしょうか、踏襲されているのが伝わってきます。改めてロメール作品の魅力はどんなところにあると感じてらっしゃいますか?

ロメールの映画の魅力って多面的で、簡単に語り尽くせないところがあるんですが、まずひとつは演出。これはもうマジックだと思うんですけど、「ただ男女が歩いているだけで、なぜこんなに活き活きとした映画になるんだろう?」という。そこが模倣するのに一番難しいところだと思います。もうひとつは構成の圧倒的な巧さですよね。登場人物が延々と喋り続けている。でも大事なことってあまり話していないんですよ。はっきり言って、「他のセリフに置き換えても物語が成立するんじゃないか?」というセリフが大半なんですね。ただ、そこで重要なのはロメールは構成がめちゃくちゃ巧いから、登場人物たちが本音かどうか分からないことをダラダラと話していても、「この人は嬉しいんだろうな」「悲しいんだろうな」「たぶん今、彼女は孤独を感じているんだろう」ということがちゃんと伝わるようにできている。やっぱりこれは凄いと感じますし、その上で映像も面白いから完璧ですよね。特に物語の部分は何とかして吸収しようと思っています。

 

──今、お話いただいたことは『ほとりの朔子』にも通じると思うんですが、喋りといえば『東京人間喜劇』(08)に女の子たちが無駄話をするシーンがあります。あらかじめセリフを決めた上で実際に無駄話をしてもらい、監督がキューを出したらそのセリフを話すという撮り方だったんですよね。本作の会話シーンにもその手法を使っていますか?

今回もそれに近いですね。まず「恋愛について話して下さい」とテーマを与えて、そのテーマについては役柄から離れて本人の気持ちを話してもらう。誕生会のシーンで鶴田さんが話していることは本人の恋愛観に近いと思いますし、指示の出し方は『東京人間喜劇』と同じです。太賀くん演じる孝史の話題など、物語上で必要なものは僕がキューを出したら喋ってくれという感じでした。ただ以前と違うのは、関係性をもう少し踏み込んで作りたいと思っていたので、大竹直さんには知らせずに、古舘さんと杉野さんにだけ「とにかく大竹さんを攻撃してくれ」という指示を出したりもしていました(笑)。

 

──前回と違う効果や手ごたえは得られました?

ありましたね。基本的に誕生会のシーンでも誰ひとりとして本音は分からないんですが、その前に大竹さんが杉野さんにちょっかいを出していたりした事前の関係性、元々の状況設定があのシーンで活かすことができたのでよかったなと思います。それは『東京人間喜劇』より上手くできたんじゃないかな。

 

──そういう流動性のある部分とは逆に、深田監督が映画を作るとき、はじめにしっかりと決めていることがあるとすれば何でしょう?

僕の場合、ラストシーンが最初に思い浮かぶことが多いんです。最後から逆算して考えてしまうのは、たぶん脚本の書き方としてダメだと言う人もいると思うんですが(笑)。すべて逆算ということではないけども、『歓待』のときもラストを思い付いて、「じゃあどうすればそれが一番豊かに見えるだろう?」ということから考えたんです。本作の場合だと、最後に朔子が去ってゆく。それを古舘さんと鶴田さんが見送るというイメージがなんとなく出来ていたので、じゃあそれを豊かに見せるにはどうしたらいいか? あとの脚本を書く作業は粘土をこねくり回すようなものなので、無我夢中でこねくり回していました。何がどうだったか、もう覚えていないくらい(笑)。

 

──そういうスタートでしたか。本作は、登場人物の関係の編み方も面白いと感じました。他愛ない会話に関係が見え隠れする。意識したことをきかせて下さい。

それは多分にテクニカルな問題でもあって、おそらくその方法論を現代の日本語で最も巧く実践している人が平田オリザかもしれません。単純に、あるひとつの同じコミュニティの中で、実は新しい会話って成立しにくいんですね。どういうことかと言うと、そもそも立場なども含めて、それぞれの人物が持っている情報量に違いがないと会話は成立しない。たとえば、20年間一緒に暮らしている家族の会話の中で「お父さんの職業は何か?」という話題は絶対に挙がってこないんですよ。全員が知っているから。父親が銀行で働いていることを知っていれば、「お父さん、銀行の仕事どうなの?」とは言わずに「お父さん、仕事はどうなの?」なんです。でもそれだと観ている人はいつまで経っても職業を知ることが出来ないじゃないですか? そうなると「銀行」という単語を出さないといけなくなってしまう。そこで、会話で上手く父親の職業を知らせるためには情報量の違う人を放り込むしかなくて、第三者が入ってくるんですね。娘の友達などが入ってきて、「お父さんの仕事は何なの?」「ああ銀行で働いているの」という会話になる。とてもシンプルな例えですが、そういったレイヤーを細かく設定することで、色々な情報の差異から会話が生まれてくる。だからあの避暑地に朔子という人間が入ってくることで、皆の情報を引き出せるんです。

 

――朔子にはそういう役割もあるわけですね。ではシナリオを書くとき、彼女のキャラクターをどう練り上げましたか? 捉えどころがないとも言い得ますし、たとえば同年代のシンパシーを直接的、積極的に呼び込むようなセリフも少ない。深田監督の中で朔子はどんな女の子なんでしょうか?

本作の場合、まず二階堂さんを知った上で、彼女をイメージして書いたところがあります。でも正直どんな女の子かというと、それほどしっかり意識はしていなくて。逆に言えばひと言、ふた言で括られてしまうキャラクターは嘘だと思っています。実際どんな人間かって、ひと言ふた言で表現できるわけはなくて、そこへは向かわないように、「簡単に説明できてしまう人物は描かないぞ」というところからスタートしました。今、シンパシーという表現がありましたが、僕が映画を作る上で一番意識するのは、必ずしも共感できなくてもいいということ。僕自身が映画を観るときに感情移入しながら観ることがほとんどないというのもあるんですけど(笑)。分かりやすい映画の作り方として、主人公に脚本用語でいう「バリア」という障害を課して、それを乗り越えて成長していくことで観客はカタルシスを得られるんですよね。成功すればハッピーエンドになるし、失敗したら悲劇になる。主人公が目的を達成するのに向かってゆく、でもそのカタルシスに疑いを持ちたいという思いはあって、やっぱり僕が描きたいのは、100人が観て99人が感動できてカタルシスを得られるよりは、極端にいえば100通りに見方が分かれる映画。シンパシーを感じることが断片ごとにあるのは構わないんですが、そこまで登場人物への感情移入は必要としないし、むしろそこに力を注ぎ過ぎると多様な見方への障害になってしまう。

 

──あえて「感情移入を拒むキャラクター」を設定して物語を進めるパターンもありますが、朔子はそういう人物でもないですよね。

今、お話したような考えから朔子というキャラクターを描いたんですが、それは結局、「余白をどう描くか?」という話にもつながってくる。朔子自身が余白であると僕は思っていて、でもその余白を描くときにいきなり真っ白いキャンパスを見せて「想像して下さい」と言っても、それは出来の悪い現代アートなわけです。そんなものを見せても人は想像できない。その想像を促すために余白の周辺を緻密に描き込んでゆく作業をいつもしています。朔子は余白なので、そこに色がないようにしたいし、朔子自身が自分の気持ちを語ることはなるべくしないようにしました。

 

──自分で語らせず、周辺から浮かび上がらせているんですね。

思い付きで話すんですが、僕らの世代でいえば、朔子はいわばドラゴンクエストの主人公なんですね。・・・って言って分かるでしょうか? この表現(笑)。

 

──分かります(笑)。

ファイナルファンタジーじゃなくてドラゴンクエストの主人公。ファイナルファンタジーの主人公って皆、喋るんですよ。性格、キャラクターを持ってものすごく喋るんですね。僕はファイナルファンタジーも好きでよくやっていたんですが、初期のドラゴンクエストの主人公って一切喋らないんです。だからプレイヤーが主人公に同化できる。たぶん朔子はそれに近いんだと思います(笑)。そういう余白というか。

 

──とても分かりやすい例えでした(笑)。「余白」ですから、朔子に対しては様々な解釈、良い意味でミスリードがあってもいいくらいですよね。少し話は広がりますが、女性の描き方について以前、また別のトークイベントで監督が「従来の映画には極端に言えば天使か娼婦しかいなかった。僕はそのどちらでもない領域に女性を置きたい」というお話をされていたのを覚えています。本作にもその思いは生きていますか?

それは僕の中で作家として“こういう方向へ行きたい”というベーシックな部分なので、当然意識してシナリオを書いていたと思います。できているかどうかは別ですが。やっぱり自分は男性として映画を作らざるを得ない。男性というだけで、どうしようもなく歴史的な男性社会で築かれてきた価値観、言うなれば歪みの中で生きている。これはもう垢のようにこびり付いて落とせないものなんですね。しかも映画というもの自体が、男性社会の中で作られてきた芸術で、映画監督もプロデューサーもスタッフもほとんどが男性でした。そういうところで作られてきた物語、小説もそうかもしれませんが、特に映画の物語で女性はどこか男性目線の類型の中で描かれている。男性を攻撃するアグレッシヴな女性にしても、ファム・ファタール、悪女にしても。それに対する不満はあるし、たぶん男性自身が見直していかないといけないことだと思っているんです。その意味では、大竹さん演じる西田というキャラクターは、自分にとっての男性性が端的に現れていると思います。

 

──西田は朔子と違って「余白がない男」とも受け取れますね。

彼はどこまでも愚鈍で、無神経な男性の象徴のように描きました(笑)。

 

──なるほど(笑)。肝心の朔子役・二階堂さんをカメラに収めるときはどのように撮ろうと考えました?

映画監督によっては「女優に恋をしないと映画を撮れない」というようなことを言う人もいらっしゃいますけど、僕は全然そんなことはなくて、ある程度距離を置いて役者さんを見つめたいと思っています。今回の二階堂さんに限らず、やっぱり役者自身の個性やパーソナリティが滲み出るといいなと思っているので、“素材活けづくり”ではないですが、なるべく本人の活きた感情みたいなものが演技に反映される土壌を作りたいという気持ちがありますね。僕の作り方って「構造が大事だ」という考えに基づいているので、場合によってはすごくロジカルになってしまうんですね。いわば理屈っぽい、「頭では分かるんだけど」って関係になりがちなんですが、そのロジカルな部分をはみ出していくのは役者さんの個性なんです。でもそこに対して、僕が「こういう演出で、こういうキャラクターだから」と押し当てると、本当にすべてがロジックに収まってしまう。役者さんというもう一個の人格がいるわけだから、なるべく僕の世界観から離れて、その人の世界観というか気持ちで演じてもらえれば、たぶん僕の設計した狭い枠を突き破ってくれると信じているので、基本的にはなるべくこちらから役を強制しない。だから二階堂さんを生きてもらう、あくまで役を演じてもらう上で役を生きてもらうということを目指しました。

 

──それがよく表れたシーンをひとつ挙げていただいてよいでしょうか?

たとえば、朔子がちょっと想いを寄せているのかな? という孝史とレストランへ行くと、そこに孝史が想いを寄せる同級生の知佳から電話があって合流することになっちゃうんですね。そこで朔子は大人ぶって、その場を譲って「しっかりやりなさい」という感じで出て行く。入れ替わりで知佳が入ってくるのを朔子が遠くで眺めながら歩き去るんですが、そのときの芝居は僕から「こう歩いてくれ」と言っていないのに、表情と歩き方がとてもオリジナルで良かったんです。ショックを受けて複雑な表情をしたあと、少しスキップするように歩きはじめる。その芝居を見て、「あ、すごいな。二階堂さん」と思いました。ちょっと飛び跳ねるようなスキップをするんだけど、それで逆に朔子の空洞みたいなものが伝わってくる芝居になっていて、こちらの想定したイメージを超えてくれた瞬間だと思いました。

 

──複雑な表情をして歩き出したところで、すぐ次のカットに繋いでも成立するのに、その後を残しているのも「余白」のように思えますね。イメージというと、映画監督の想田和弘さんが、反原発の集会シーンに活動者として登場します。あれは想田さんのパブリックイメージを踏まえた役柄なんでしょうか?

それに関して言うと、撮影した当時の2012年の夏には想田さんはまだ『選挙2』を作る前で、まさか想田さんがここまで反原発のオピニオンリーダーになると思っていなかったので、これはフィクションが現実を追い越したパターンですね(笑)。

 

──その頃はたしか想田監督が『選挙2』の素材は撮っていたものの、作品にするつもりがまったくなく編集に着手していない時期でしたね(笑)。でも結果的に作品に現代性を含ませるキャスティングになっている。現代性いうことでお話を伺うと、“今”と映画をどうつなげるかも監督ごとに考えや手法が異なります。深田監督の場合はいかがでしょう?

現代性は意識しますね。ただ、「2014年の現在、撮られたから現代性の高い映画だ」ということでは全然なくて、映画の120年の歴史を見返すと、戦前に撮られたサイレント映画が2014年に発表される映画よりずっと先を行っている瞬間がいくらでもある。それは本当に映画の怖いところで、現在に撮られていても古臭く「19世紀的な映画だな」と感じる例もたくさんあります。そういう部分で現代性を獲得していきたい思いは強くあって、やっぱりエリック・ロメールの映画もそう。21世紀にロメールを観ても最先端を行っているなと感じます。もうひとつ、大事だと言えるのは時代というより、“土地”ですよね。映画を撮るとして、今の日本に三脚を据えてマイクとカメラを回すだけで、その土地は福島や東北とどこかで地続きだという意識は重要だと思うし、理屈じゃなくても、たとえばインドネシアのスマトラ沖で起きた地震やタイの津波、あるいは色んなところで起きている悲劇。それらとつながっていることを考えるか考えないか? その事象を直接映画のモチーフにするかどうかはまったく別として、作家がものを作る立ち位置としてものすごく大切だと思っています。

 

──お話を聞くと、やはり深田監督の映画は論理的に構築されているのが分かります。一方で先程の二階堂さんの話など、ロジックを超えたものが作品に躍動を与えているのも分かる。ポスターにもある朔子が水辺に立つシーンや自転車で走るシーンなどを観ると、理屈抜きに純粋に映像の面白さを確信して作ったのかなとも想像したんです。撮りながらも「映っているものへの信頼」はお持ちでしたか?

それはやっぱりあったと思います。映画ってもちろん脚本や物語、構成がある時間の芸術なんですが、一番シンプルな核が何かと言えば、カメラと被写体の関係なんですよね。被写体というモチーフをカメラでどう撮るかが最も重要で、そこが自分以外の人の映画を観ていても気持ち良くなるかどうかの差でもあります。僕は、「今、カメラが状況や単なるストーリーを説明しているだけだな」という瞬間、すごく退屈になるんです。だからできるだけ被写体とカメラをシンプルな関係で結んで、被写体をそのまま素っ気なくスクリーンに置いていきたい。そうすることで、自分の信じている「映画的」なものに近づくんじゃないかなという気持ちで撮っています。

 

──シナリオ上では無機質な人間かもしれない朔子が、映像では決してそうなっていないのは、監督の思考の成果かと思います。あと理由をうまく説明できないんですが、終盤の鶴田さんと古舘さんの会話で、鶴田さんの背中を真後ろから撮ったショットにも、「映画的な力」を感じました。

あそこは僕も好きで、絶対に背中から撮らないとダメだと思って。もしかすると、その前後の横顔もいらないかもとさえ思っていたんです。横顔を撮った画がすごく綺麗だったので使ったんですが、背中のショットはそれこそロジカルには説明し切れないですね。あの瞬間、鶴田さんは余白になるので。古舘さんが演じる兎吉とそれまでに築いてきた、何かあったかもしれない過去の時間や経緯が一気に雪崩れ込んでくる筈だと思って撮りました。お客さんとの“共犯関係”を結ぶための背中であって、顔を見せてはいけないと思っていましたね。

 

──“共犯関係”を取り結べる仕掛けは、あの場面だけでなく、他にもいくつか散りばめていますね。さて、色々お話を訊いてきましたが、最後にひとことお願いできますか?

今、急に声が改まりましたね(笑)。

 

──かなり話が行ったり来たりしたので、ここまでのお話はロメール的な流れ(?)として、最後は監督に締めていただければ(笑)。

はい(笑)。この映画で何を観てもらいたいかというと、俳優ですね。たぶんテーマを訊かれたら、「二階堂ふみです」「鶴田真由です」としか言えない。おそらく図々しいようですが彼女たちにとって代表作と呼べる作品になったと僕は自信を持って言えます。古舘寛治さんや太賀さんといった男性陣も僕の力を超えて魅力的に映っているはずなので、是非逢いにきてほしいです。

 

 

 大阪公開初日8日(土)、シネ・ヌーヴォでは午後3時40分の回の上映後に深田晃司監督の、さらに公開期間中にもキャストの舞台挨拶を予定。神戸元町映画館、京都みなみ会館では3月15日(土)公開。また、シネ・ヌーヴォでは2月22日(土)より、京都みなみ会館では3月29日(土)より、『歓待』のディレクターズ・カット版『歓待1.1』も上映される。

 

 

(取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』)




(2014年2月 6日更新)


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深田晃司 監督 Profile (公式より)
ふかだ・こうじ●1980年生まれ。大学在学中に映画美学校3期フィクション科に入学。2001年初めての自主制作映画『椅子』を監督、2004年アップリンクファクトリーにて公開される。その後2本の自主制作を経て、2006年『ざくろ屋敷』を発表。パリKINOTAYO映画祭にて新人賞受賞。2008年長編『東京人間喜劇』を発表。同作はローマ国際映画祭、パリシネマ国際映画祭に選出、シネドライヴ2010大賞受賞。2010年『歓待』で東京国際映画祭「ある視点」部門作品賞受

Movie Data




(C)sakuko film partners

『ほとりの朔子』

●2月8日(土)より、シネ・ヌーヴォ
 3月15日(土)より、
 京都みなみ会館、元町映画館にて公開

【公式サイト】
http://www.sakukofilm.com/

【ぴあ映画生活サイト】
http://cinema.pia.co.jp/title/163501/

Event Data

舞台挨拶決定!

【日時】2月8日(土)
    15:40の回上映後
【会場】シネ・ヌーヴォ
【料金】通常料金
【登壇者(予定)】深田晃司監督

Check!

『歓待1.1』

●2月22日(土)より、シネ・ヌーヴォ
 3月29日(土)より、京都みなみ会館
 にて公開

監督・脚本・編集:深田晃司
製作:杉野希妃/深田晃司
出演:山内健司/杉野希妃/古舘寛治
   兵藤公美/松田弘子