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「高倉健さんの映画を観たあと、
 強くなった気持ちで胸を張るように、
 自分の中のやさしさを発見して映画館を出てもらえたなら嬉しい」
『飛べ!ダコタ』油谷誠至監督インタビュー

 昭和21年1月に佐渡島の小さな村に不時着したイギリス軍の要人輸送飛行機DC3、通称「ダコタ」。村人たちは、つい5ヶ月前まで戦争の敵国だった乗組員を迎え入れ、海岸に滑走路を作り、再びダコタを飛び立たせた。この67年前の事件をベースにした映画『飛べ!ダコタ』が現在、塚口サンサン劇場で公開されている。監督はこれまでに数百本のテレビドラマを手がけてきた油谷誠至。自身の映画デビュー作品となり、戦後日本への思いを詰め込んだ本作についてインタビューを行った。

──油谷監督のキャリアの初期には、勝新太郎さん主演のテレビドラマ『警視-K』(80)があると伺いました。それがデビュー作に当たるんでしょうか?
「マニアックですね(笑)。『警視-K』では助監督をしていました。その前には、日本現代企画という円谷プロダクションの流れにある小さな制作会社で、『少年探偵団(BD7)』(75)という子供番組を作っていました。黒沢浩さん、キャロライン洋子さんが出演していて、東宝の監督だった松林宗恵さんなどがおられましたね。当時の僕は、20か21歳。それが助監督デビュー作でした」
 
──もしかして、土曜夕方にテレビ放映されていた番組ですか? 拝見していました。懐かしいです! そのあとのお仕事は?
「小川真由美さん主演の「女ねずみ小僧シリーズ」もので、三國連太郎さんも出演された『ご存知!女ねずみ小僧』(77)。それからたしか、五社英雄監督の映画『雲霧仁佐衛門』(78)だったと思いますね。その頃にチームを組んでいた人たちとの関係で、勝プロダクションへ行って時代劇と『警視K』を作っていたら、倒産しちゃいました(笑)。僕は勝プロの一番最後の世代ですね」
 
──『警視-K』はいまだに根強い人気があり、今年も映画館で全話一挙上映されたんですよ。
「そうだったんですか。あのドラマは大映京都の方たちなど、スタッフも凄かったからね。役者もそうだったし。よく覚えているのは、あるバーで撮影していたんです。すると石橋蓮司さんがメイクさんのところでアフロのかつらを被ってきて、勝さんに内緒でカウンターに入ってバーテンのふりをするんですよ。勝さんはエキストラのひとりだと思っている。当時は皆、勝さんを“オーナー”と呼んでいたんですが、そこで「オーナー! オーナー!」って声をかけると「何だ! 蓮司か!?」と驚いて(笑)。そんなこともあったし、色んな人が来ていましたね。あの組には」
 
──にぎやかで和やかな現場でしたか?
「ええ。もう勝さんがそういう人でしたからね。上下関係の見境をつけないし、好き放題させてくれた。立場を問わず、面白いと思えば意見を採用してくれますしね。夜に呑みに行くときも、その場にいる人間を全員連れて行くという人なんです。たとえ助監督の見習いでも、フグ料理の有名店に連れて行ったり。分け隔てをしない人でしたね」
 
──そのような雰囲気だったんですね。それから長年のキャリアを経て本作が初の劇場映画作品。制作エピソードを語っておられる動画も観ることができます(http://www.youtube.com/watch?v=NQbzqestKCA)。そこで本作のベースになっている事件が佐渡でも知られていないと聞いて、ちょっと驚いたんですが?
「佐渡では、ダコタが不時着した地区の人でもその事実を知らない人が多いんですよ。代替わりもしているし。当然、佐渡全土でいえば、もう殆どの人が知らないことでしたね」
 
──何か理由があってのことなんでしょうか?
「僕も色々といきさつを調べたものの、よく分からなかったんです。今の佐渡は全島一市の佐渡市ですが、昔は多くの町村に分かれていたし、日本で一番大きな離島ということもあって北と南では全然文化も違っていた。調べていくと、公文書も残っていなかったんです。新聞でも、新潟日報が当時わずかな記事を一度載せたきり。終戦直後、不安定で人々も大変な時期だったという影響もあって、事件をオフィシャルにできない事情のようなものがあったのかもしれないですね。地区の方々は皆さん、不時着した飛行機の乗組員の接待をして、滑走路を作ってまた飛び立たせたところまで付き合っている。だから記憶に残っている年配の方は多いんだけれど、今は殆ど語り継がれていない。不思議な現象ですね」
 
──聞き取り取材のためにも、佐渡へは何度も足を運ばれたということですが?
「完成までトータルで30回以上は行きました。でも当時を知る方は、今は80~90歳代。お歳を召しているし、なおかつ不時着の時は10~15歳くらいなので、うろ覚えのこと、記憶が変わってしまっていることも多いんですよ。美化されていたり(笑)。その中から映画に使えることと、そうでないことを取捨選択しながら聞いていきましたね」
 
──聞き取りの成果をどのように作品につなげましたか?
「映画の細かい設定には、聞き取りで得られなかったものもあります。“いい話”しかなかったんですよね。でも終戦直後のことですし、実際はそれだけではないだろうから、そのあたりは僕が創りました。傷を負って帰ってくる、窪田正孝くんが演じた健一や洞口依子さんが演じた役もそうですね。というのは、おそらく当時の日本には彼らのような人がたくさんいたはずで、映画で描いたようなエピソードも多くあっただろうと思うんです。半年ほど前まで敵勢だった英国人に対してどんな反応を示すか? そこはある意味、フィクションとして作っていった。ただ、フィクションであり、「これは日本中どこにでもあった話。こんな感情を自然に抱いたり、こんな出来事も起こっただろう」という意味で僕の中ではノンフィクションなんですよ。作り事ではあっても、“ノンフィクションの出来事”として考えました」
 
──物語の展開は佐渡の中に限定されています。そこへ当時の日本各地にあったであろう空気を吹き込んだ、ということでしょうか?
「そうです。感情だけでなく、気風や人間性、民族性。佐渡だけに限らず、当時の日本には思いやりや慈悲の心を持つ人々人たちが多かったんじゃないかな。長い歴史の中で培われてきた文化を表現したかったし、現代はそうした気持ちが失われていると言われてはいますが、何千年もかけて作られてきた文化がそう簡単に無くならないとも思うんですよね。今もどこかに残っているはずで、この映画を観ることで、心の奥底にある琴線に触れて頂ければいいなとは思っています」
 
──劇中では「人助け」とも言い表しておられます。
「はい。観て下さった方が、それこそ高倉健さんの映画を観たあと、強くなった気持ちで胸を張るように、自分の中のやさしさを発見して映画館を出てもらえたなら嬉しいですね」
 
──主演の比嘉愛未さん、窪田正孝さんと若い世代を前面に出した物語ですが、人物設定に多様性がありますね?
「ひとりひとりの背景を大事に描きたかったんです。当時の若者には、窪田さんの役柄のような人も多かったでしょうね。軍国少年として戦争には行ったけれど、力を尽くし切れずに帰ってきて、やるせなさを抱えながら過ごした人は多かったと思う。『仁義なき戦い』で菅原文太さんが演じた、虚無感を抱えて戦争から戻り、闇市の中で愚連隊からやくざになってゆくような青年。本作での健一とは全然違いますが、当時の世相の中で共通する部分がある気はしています」
 
───菅原さんが演じたのは「広能昌三」ですね。想像によっては健一も広能のような戦後を送ることになったかもしれません。
「ええ、本作に闇米で儲けようと働きかける先輩も登場しますが、彼などはそのままですね。ああいった人たちは山ほどいただろうし。価値観も無くなり、戦争に負けたという焦燥感もあって、どうすればいいか分からない人たちを並べながら、最も興味があったのは、戦争で家族の男性を失った事実を受け止めるしかなかった当時の女性たち。その気持ちをどういう形で描くのがいいのか? それがずっと頭にありました」
 
──「女性から見た戦争」も大きな主題ですね。
「僕の中には「戦争は人に何ももたらさない。悲しみや恨みの感情しか残さず、得るものは何もない」という考えがあって、それを最もよく表現できるのは戦後間もない時代の女性たちではないだろうかと思いました。一方で、戦争が終わって突然、敵勢だった人間たちが目の前に現われた状況で、これから先どう生きていくのか? 共存していくのか? という問題に一番早く反応したのが女性だという気もしていたので、それらはこの物語のテーマに近い部分でもあります」
 
──「戦争が何ももたらさない」というセリフは劇中、柄本明さんも口にします。そこで周りの人がオーバーだと解釈するほど、柄本さん演じる村長は戦争責任に自己言及する。監督の思いも投影しての言葉だったんですね。
「そうですね。映画の後半で3連チャンくらいの勢いで、登場人物たちが戦争への思いを語る。比嘉さんと窪田くん、柄本さん、蛍雪次朗さんと登場人物たちが順を追って。僕も少し過剰と思うくらい、ボンボンボンとシーンを並べてしまったんですが(笑)。でもあのあたりに、この映画で一番言いたかったことがあるし、佐渡にダコタが不時着して、それを皆で助けたというのは誰が聞いても美談ですよね。ただそれだけではない、もっと深い部分からその美談を映像化したいという思いから、このような物語にしました」
 
──健一が「軍事直喩」を滔々と述べたりもします。
「ええ、そういう教育を受けて正しいことだと信じて生きてきた人間が、それをパッと解かれたときに、すぐには違う考えを持てませんよね。あの下りにも当時の時代背景があると思います。終戦で価値観がガラッと変わったと思うんです。男性も女性もひっくるめて。蛍さんが演じる校長は「これからは世界と仲良くしないといけない」と言うし、「大人は信用できない」と言う若者もいる。当時の人間の色々な気持ちの在りようを物語に散りばめて、それを最後に柄本さんが消化する形であのセリフを入れたんです」
 
──はじめに触れた、制作エピソードを語る動画で監督は、「人間ドラマがありながら、作品の柱は佐渡とダコタ」と仰っています。洞口依子さんもブログで同じことを書かれている。その点からもスタッフとキャストとの意思疎通がスムーズに行われた現場をイメージしたのですが、いかがでしょう?
「僕はあまり演出しない、役者に芝居をつけない方です。事前には結構話すし、雑談も多いですが(笑)。脚本を読んでいただいて、そこで僕の目指すものにつながっていれば、あとは任せる。演じるのは俳優さんで僕ではないしね。特に今回は皆さんが本当によくホンを読んでくれて、物語の深いところをそれぞれが感じ取って、こちらの想像以上の芝居をしてくれた現場でしたね」
 
──油谷監督の現場の雰囲気を、より詳しく教えていただけますか?
「監督の仕事ってすごく沢山あります。脚本を作る、ロケ地の設定、色んな人と話しながらの撮影進行、数多くのスタッフの気持ちをまとめるなど、すべてを含めて監督の仕事。俳優さんを現場に入れるときには、もうそうした仕事は出来ている。撮りたいもの、「こうしよう」と考えているものが出来ているから現場があるんですね。俳優が入って来やすい雰囲気や作品の方向性をお膳立てしていれば、あえて現場で「ああでもないこうでもない」とは言いません。映画監督はメガホンを持って大声を出しているという風習的なイメージもありますが(笑)。僕の現場は和気あいあいだし、本作の最後の海岸のシーンでもエキストラの方たちも柄本明さんも同じように撮っています。皆が一緒になれる現場を作れていれば、細かい注文を出すことはないですね」
 
──そうした現場のムードに、佐渡での撮影が作用したものがあるとすればどんなことでしょう?
「キャメラマンが小松原茂さんという、今村昌平監督の『うなぎ』や『カンゾー先生』を撮った昔からの仲間で、佐渡の自然の映像もピカイチだと思います。演技の面でも、その自然環境の中に俳優さんを置いたときに、下手に芝居をするということがありえないんですね、演技以前に寒くて寒くて(笑)」
 
──冬の佐渡ですからね(笑)。
「比嘉さん、柄本さんも言っていますが、吹き飛んで行ってしまいそうなくらい風が強く、凍えて身体も動かないような状況にいると、芝居どころじゃない。下手に芝居しようという気さえ起こらない(笑)。暖かい土地で作ったなら、このような映画にならなかったと思うんですよ。冬の佐渡の村に同化した俳優がいて、それをこちら側が切り取ってゆく形でした。映画を作るということは関係を作る、環境を作るということでもあります。俳優さんが「ここで芝居をしてやろう!」と意気込んでも出来ない環境の中から生まれるものはありますよね」
 
──冒頭の色調もかなり暗く、寒さを感じさせますね。
「実際の事件が起こったのは昭和21年1月14日の夕方、たぶん5時過ぎくらい。かなり薄暗く、飛行機も有視界飛行で、夜にうまく飛べずどこかに不時着せざるを得なかった。その史実に則ったのと、作品の出だしをおどろおどろしくして驚かせようという意識なども無いんですが、この雰囲気や色調の方がよいだろうなと判断しました」
 
──ラストの明るさと対照的ですよね。色といえば衣装で、比嘉さんは赤の和服を着ている。役柄の気質が色に表れているようにも思えます。
「美術さんが工夫してくれました。あの時代にあんなに明るい色の服は着ないだろうという意見もあるかもしれません。でも、誰しもが暗い色の服を着ていた訳でもないですしね。その点も歴史を踏まえています」
 
──そうでしたか。監督が長年に渡り作って来られたテレビドラマとの関連からも少しお話を伺いたいのですが、現在の2時間ドラマはコマーシャルを抜くと、どのくらいの長さでしょう? 本作とそう変わらない長さではないでしょうか?
「93分くらいかな。『飛べ!ダコタ』は108分ですね」
 
──そのくらいの長さのストーリーを語るリズムは、もう体に染み込んでおられるのでは?
「映画としては本作が初めて撮った作品になりますが、僕はドラマをもう何百本と撮っていますからね。2時間ドラマもかなり作ってきたので、ある意味での職人性は身に付いている方だと思うんです。新人で自分の撮りたいものをジーッと延々撮っていくような作り方と、僕の場合とは違うと思うし、人に観ていただくときに、どのスタイルなら心地よく観てもらえるかという感覚は染み付いているのかもしれないですね」
 
──そこはもう無意識に、という境地かもしれませんね。
「そうなのかもしれないですね(笑)」
 
──登場人物の配置なども面白く拝見しました。多くの出番はないものの、綾田俊樹さんの役柄がいいなと思ったんです。物語の上で決して重要ではないですが、とぼけ具合も作品のスパイスになっていて。
「さっきも戦後の時代背景についてお話しましたね。僕は広島県竹原市で育ちました。さらにどなたにも経験があると思うんですが、近所にああいう人が必ずいた。劇中でも拍子外れなことを言う。でも、それを地域全体があったかく見守っていく状況が昔はあったんですよね。もういい年齢で、子供たちも馬鹿にして囃し立てたりする。でもそこで、「そんなこと言っちゃいけない」と親がたしなめたりね」
 
──少し浮いてしまったり、はみ出してしまう人は僕の生まれたところにもいました。
「僕が育った田舎は100人から200人くらいのコミュニティ。その中にもふたり、ああいう人がいました。でもそのふたりを地域の皆が育てていた」
 
──コミュニティに馴染めないという問題は現在もあります。
「それは今の時代、隣近所の人の役目ではなく行政の仕事だという風潮もあるじゃないですか? でもひとりひとりが心の中に思いやりを持つべきだと思って、綾田さんの役どころを本作に入れたんです」
 
──ネットも含めてですが、今は共感よりむしろ疎外や排除によってコミュニティが出来上がってしまうケースもありますよね。
「昔は地域が一緒になって向き合っていた。その思いが強くて、最初はあの役をもっと膨らませていたくらいなんです(笑)。最終的にシーン数は少なくなりましたが」
 
──綾田さんの登場時間を合計すれば5分に満たないかもしれませんし、あの人物がいなくても物語は十分に成り立つので、作り手によっては省いてしまうかもしれません。
「飛ばしてしまう、もしくは面白おかしく扱う人もいると思います。でも僕はそうせず、地域を描くのに、愛情を込めて彼を置きました。何百年も培われてきた、僕自身も幼い頃に親に教わったものは、今もどこかにあるはずなんです。そこを“叩いてみたい”という思いも劇中に散りばめています」
 
──その部分でも、戦後日本の各地にあった空気を佐渡島の小さな村で表現したということですよね。洞口さんはブログで本作を「シンプルで気持ちの良い映画」と書いておられましたが、油谷監督はどう捉えておられますか?
「そうですね。僕にとってもこの映画は直球勝負。昔起こった出来事と言いたいことをストレートに描きました。予算や撮影日数が限られていたり、色んな要因があった中で何を最優先するかを考えて、一番シンプルな形をとりました」
 
──映画やテレビ、現在の数ある映像作品の中でシンプルさを前面に押し出したいという思いもお持ちだったのでしょうか?
「テーマによって描き方は異なってくると思うんです。『飛べ!ダコタ』に関しては、そう複雑にする必要もない気がしました。たとえば洞口さんが演じた役を主人公にして、彼女の心理などをピックアップする映画であれば、もっと入り組んだ話にしないといけない。でも、比嘉さんが演じた千代子が主人公であるこの映画にとって、一番シンプルでストレートなスタイルを選びました」
  
 
 ベテラン職人そのものの佇まいを持つ油谷監督。主題歌『ホームシック・ララバイ』を聴いてから作ったという物語のラストも、インタビューにある「職人性」が垣間見られて清清しい。『飛べ!ダコタ』は塚口サンサン劇場で公開中。その後、10月19日(土)より布施ラインシネマ彦根ビバシティシネマ、追って11月2日(土)に十三シアターセブン京都みなみ会館で公開予定。
 
(取材・文 ラジオ関西『シネマキネマ』)



(2013年10月16日更新)


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Movie Data


(C)「飛べ!ダコタ」製作委員会

『飛べ!ダコタ』

●塚口サンサン劇場にて上映中
 10月19日(土)より、
 布施ラインシネマ、彦根ビバシティシネマ
 11月2日(土)より、
 十三シアターセブン、京都みなみ会館
 にて公開予定

【公式サイト】
http://www.tobedakota.com/

【ぴあ映画生活サイト】
http://cinema.pia.co.jp/title/162855/