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「台湾の人たちが、
日本の歴史の一部を共有していたことを忘れてはいけない」
『台湾アイデンティティー』酒井充子監督インタビュー

 1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの半世紀に渡って日本の統治下に置かれた台湾。その時代に日本語教育を受けた「日本語世代」と呼ばれる人々へのインタビューをもとに、台湾と日本の歴史にフォーカスしたドキュメンタリー『台湾人生』(2009)の酒井充子監督の新作『台湾アイデンティティー』が9月7日(土)より京都シネマ、追って大阪・第七藝術劇場、神戸・元町映画館で公開される。証言を紡ぎ合わせる作りを踏襲しながらも、本作では二二八事件、白色テロという歴史の奔流にのまれた「かつて日本人だった」6人の男女に密着し、現在へ連なる戦後史を個人の記憶から浮かび上がらせる。10年以上に及ぶ台湾取材を行ってきた酒井充子監督に話を訊いた。

――酒井監督と台湾との出会いは、前作『台湾人生』公開のあとに出版された同じタイトルの著作にも記されていますが、改めて振り返っていただいてよいでしょうか?
「出会いは一本の台湾映画だったんです。『愛情萬歳』('94)というツァイ・ミンリャン監督の作品で、友人がたまたまテレビで録画したものを「面白そうだから」と見せてくれました。若者の孤独を描いた物語で、舞台になっている台北が妖しい光を放っていて、すごく魅力的に思えたんですね。観てすぐ「台湾へ行こう! 」と思って、チケットを取り夏休みに飛んだ訳です。それが1998年のことでした」
 
──以前から台湾に深い関心や知識を持っていたという訳ではなかったんですね。
「もちろん台湾が日清戦争のあと、清から日本に割譲されたという歴史的な事実、それから「台湾のお年寄りはどうも日本語が上手みたいだ」ということは知っていました。でも、それ以上の認識や知識は持っていない中、旅先の台湾ですごく流暢な日本語で話しかけられたんです。見た目のせいか、台湾へ行くとよく道を訊かれるんですが、その方は私が日本人だとすぐに分かったようで、わざわざ近づいて来られて「どちらから? 日本からおいでですか?」と本当に丁寧な日本語で話しかけて下さいました。あまりに流暢な日本語にびっくりしたのと、初めて会った見ず知らずの私に「子供の頃にすごく可愛がってくれた日本人の先生がいたけども、戦争で日本に引き揚げて連絡が取れなくなってしまった。でも、もしまだお元気だったら今でも会いたいんだよ」と一生懸命お話してくれたことが、旅から戻ったあとにじわじわと膨らんでいきました」
 
──単なる観光旅行にとどまらなかったということですね。
「旅行は1998年だったので終戦から53年が経っていたんですが、そんなにもの長い時間、日本人の先生のことを思い続けた人が台湾にいらっしゃること、そして流暢な日本語は本当に驚きで、そこから台湾と日本の歴史についてもっと知りたいと思うようになりました」
 
──酒井監督と僕は同世代で1960年代後半生まれ。98年の時点で戦後はもう遠いものになりつつあった。台湾の戦後を「よその世界のこと」と思ってもおかしくはないかもしれません。それでも台湾の歴史に深い関心を抱いて調べはじめたということは、余程の驚きがあったんですね。
「そうですね。大きな驚き、それと「怒り」がありました。何も知らなかった自分に対する怒りであったり、「歴史的事実をきちんと伝えてもらえなかった」という社会や教育システム、日本に対する怒りのようなものがごちゃ混ぜになりました。そうした怒りがひとつの原動力になったなと今、振り返って思います」
 
──社会の授業でもそうした事実はまず教えられなかったですよね。そもそも近代史、戦後は三学期に駆け足で消化してしまうことも多いですし。縄文式土器のあたりはしっかり習うのですが(笑)。
「そうですよね。もちろん過去のこと、歴史のひとつなのでやむを得ないんですが、私たちが習った教科書では、おそらく一行か二行、「1895年 下関条約で台湾が清から日本に割譲された」と終わってしまったこととして片付けられていたかと思います。でも実は日本が台湾を領有したあとに、日本統治の下で暮らしていた人たちがいて、どんな思いを抱いてどんな生活をしていたのかと想像すらしてこなかったんですよね」
 
──戦後約70年。何かきっかけがない限り、情報すら届かない可能性が高いのは今も変わらないですね。
「日本の統治下で生きていた人たちが今も実際に台湾にいて、日本を厳しくも温かい目で見続けていらっしゃる訳だから、決して過去の歴史として片付けられない。まだ皆さんご存命ながら、彼らの人生の延長線上に今、私たちが生きているということ。日本で年月が経つと共にどんどん戦争体験者の方が減っているのにもいえますが、過去のことでなく、彼らと私たちはつながっているんだと改めて考え直さないといけないなと思っています」
 
──断絶したものでなく、“線”として現在までつながっている。ここまでお聞きして監督の思いや認識は前作、そして今回の『台湾アイデンティティー』に活きていることが分かります。本作は6人の台湾人の方へのインタビューで構成されていますが、どういう経緯で取材することになったんでしょう?
「6人のうちのおふたりは、実は前作の『台湾人生』を取材している中で出会った方で、もうかれこれ8年越しのお付き合いなんです。今回、このような映画を作るということで出演をお願いしました。『台湾アイデンティティー』には、台北に15年以上住んでおられる片倉佳史さんというライターの方が企画で加わっています。その片倉さんから、これまでに取材してこられた方たちを「映像に残したい」と相談を受けたときに、「じゃあ映画にしましょう」ということではじまったいきさつもあり、彼にご紹介いただく形でお会いしていきました」
 
──『台湾人生』と作りを変えようと意識された点は?
「とにかくおひとりおひとりの存在感を際立たせたい、と考えながら構成していきました。前作では、かなり多様な方たちの証言を積み重ねる形で映像作りをしていったんですが、今回はそれに対しておひとりをじっくり見てもらう、お話を聞いてもらうことを心がけました」
 
──構成、編集面で印象に残った点についておきかせ下さい。収容所生活を送った方がおふたり登場しますが、そのおひとり、今は横浜に住む呉正男さんが収容所のことを回想するシーンだけは前後と違う場所で撮影されていますね?
「そうなんです。シベリア抑留の話なので、荒涼とした背景の中で語っていただきたいなと思って。抑留はすごく悲惨な体験ですが、呉さんご本人は決してそれを出さない。むしろ大らかに振り返られるんですよね。その口調からは、もしかすると抑留体験が伝わりにくいかな? と思ったので、殺伐とした場所でお話を聞いた方がよいと考えてカメラマンとかなり探した結果、あのロケーションになったんです」
 
──あの海辺は横浜ですか?
「ええ、横浜の隣の川崎市なんです」
 
──天候もあいまってか、最果ての地という空気が漂っていますよね。
「呉さんが抑留されていたのは中央アジアの砂漠のど真ん中だったので、実は海がまったくない場所でした。でも強制労働で「運河みたいなものを掘らされた」というお話が出てきたので、水があるところを選びました」
 
──“水つながり”でしたか。そのインタビューも含めて、姿は映らないものの、フレームの外から監督の声が聞こえてきて対話形式で映画が進んでゆく。対話、インタビューを行う上で大事にされたことは?
「こちらが身構えて「挑む!」という姿勢だと、取材を受ける側もやっぱり構えてしまいますよね。だから私が出来るだけ自然体で、すうっと相手の懐へ入ってゆくのが一番理想的。リラックスして、心を開いていただくためにはどうすればよいかを常に考えました。実はカメラを回すまでがとても大切で、特にたいした話をする訳でもないんですが、お茶を飲みながら天気の話をしたり、一緒に過ごす時間を持つことで相手の方との距離を縮めてゆけたら、と思っていました」
 
──出演者の方との間に一定の信頼関係が築かれていたことをうかがえる場面が幾つか見られます。同じく収容所での生活経験を持つ張幹男さん。彼が反乱罪で政治犯収容所へ送られる前にいた監獄を訪れた際に、カメラマンに「三脚はいらないでしょう」と提案(?)します。ドキュメンタリーで被写体からのああいう発言は珍しい。
「とにかく彼は、「ここにいたくなかった」。かつて自分が入れられていた監獄の前に立って、一刻も早く帰りたかったんですよね。それでカメラマンに向かってそう言ってしまうんですが、あのシーンは車を降りてから、また乗り込むまで全く編集をしていません。そのまま観ていただく形になっています」
 
──あ! あそこはワンショットでしたね。今、気づきました。
「はい。あっという間にその場を立ち去るんです。張さんもやはり大らかに過去を振り返りますが、実際は本当に嫌な思い出として傷つけられているということが、あのソワソワ感であったり行動から伝わるかなと思って、そのまますべてご覧いただいています」
 
──たしかに張さんはインタビューでも終始穏やかですが、終盤に明らかに声のトーンを変えて話すシーンがあります。あの変化にも張さんの思いが垣間見えます。
「あれは、彼が一番伝えたかったこと。私は編集するときに、「この登場人物が最も言いたいことは何だろう?」と考え、それを中心に据えて言葉を選んでいきましたが、やっぱりあのシーンには彼が一番言いたかったことがあると思うんですね。元々、張さんは「自分は表に出るような人間ではない。縁の下の力持ちでいいんだ」とずっと仰って、映画に出ることをなかなか承諾してくれなかったんですよ。そこで撮影を進める中、台湾に行けば必ず張さんに会いに行き、お話をして一緒にお酒を飲んで、ということを繰り返しました。そしてやっと撮影中盤に入った頃、初めてカメラの前に座ってお話して下さったんですけども、『台湾アイデンティティー』で使ったインタビューは、すべてその初めてお話していただいた日のものなんです」
 
──では、張さんのインタビューは一日で撮影された?
「何日か通って撮影させていただきましたが、最終的に編集の段階で残したのは最初の1日。その日は4時間ぶっ通しでお話下さいました。もちろん短い休憩をはさみながらでしたが、4時間通して。多くの部分は映画に反映していませんが、生まれたときからの人生をずっと語っていただいて、その後半で今の台湾の若い方へ向けた言葉が出てきました。おそらくあそこが、「今、張さんの最も言っておきたいことだろうな」と思って映画に入れました」
 
──張さんのあの語りの前に、それだけの時間があったことをイメージすると言葉の響きも違って聞こえてくるかと思います。張さんもですが、出演している方たちが話しかけてきてインタビュアーの監督が沈黙してしまう、あるいはもらい泣きしてしまう場面もありますね。
「……そうですね。映画を作るという前提でお話いただいているので、監督としての客観性は常に持ち合わせる必要があると思うんですが、やっぱりもう、時としてどうしようもないケースがあるんですよね。私自身が我慢をしないというか、喜怒哀楽をはっきりさせたい人間でもあって(笑)。「ここはもう……泣いてしまってすみません!」という感じで、涙をこらえきれずにそうなってしまった場面ですね。だからカメラマンがすごくびっくりします。「あ、監督泣いてるんだ」と、そばでいつも思っているそうで、登場人物の方にも「泣かないで下さい」と言われてしまいました」
 
──本作では、白色テロで父親を失った方、抑留や弾圧のエピソードを語る方など、インタビューで涙腺が緩む機会が少なくなかっただろうと想像できます。
「ただ、プロデューサーからも「これはどうなのか?」と。やっぱり「カメラの横にいる監督が泣いていることをお客さんに伝えるべきかどうなのか」という話はしました。最終的にはそのままそのときのことをすべて伝える、それを監督の責任で入れさせて下さいと映画に使いました」
 
──その場で起こっていることのドキュメント、という見方もできると思うんです。それに「酒井監督は涙もろい人なんだな」とダイレクトに伝わってきます。
「もう高校野球を観て泣きますもん! 頑張っている高校球児を見るだけで(笑)」
 
──普段からそうなんですね。
「はい。結構涙もろくて……歳なんですかね? そんな歳でもないつもりなんですが(笑)」
 
──若いですよ! お互いに! …ということにしておきましょう(笑)。
「何かこう、グッとくるものには涙が出てくるんです」
 
──しかし『台湾アイデンティティー』は、「泣かせよう」というタイプの作品ではないですよね?
「ええ。淡々とつなげています。でも6人のうち、おひとりが女性で紅一点です。彼女が実に波乱万丈な人生を送られてきた中で、涙ひとつこぼさず淡々と語られる姿は「凄いな」って。本当に圧倒される思いで向き合いました。あの人生を振り返るときに、あんなに潔く語れる、いろんなことを経て今、そういう心境になられていると思うんですが、彼女の強さを前にして、私も泣く訳にはいかないという気持ちになりました」
 
──最初と最後に登場する、昭和7年生まれの高菊花さんですね。凄絶な人生がひとつひとつの言葉、語りから紐解かれますが、声を荒げたり涙を流すこともない。酒井監督が仰る通り、今に至るまでの経緯は生やさしいものではなかった筈ですが。
「今の日本人からは、ちょっと想像できない人生ですよね」
 
──高さんの自然な表情、そこには既に歴史が滲み出ているともいえますが、歴史を映画で語るには市井の人だけでなく、為政者の証言を集める手段もある。どちらが良いかは措くとして、作る人の歴史観に基づくとも思うんです。監督はどうお考えでしょうか?
「“歴史”と言ってしまうと過去のことになってしまいますね。もちろん日本が台湾を統治したのは明治28年、1895年から日本が戦争で負ける1945年までの過去の出来事ではあります。ただ、その統治下で暮らした今も生きている台湾の人たちが、この日本の歴史の一部を共有していたということを忘れてはいけないなと思います。ひとりひとりの人生が積み重なったものが、結果的に歴史となっている。だから、その方たちの人生に寄り添って『台湾アイデンティティー』をご覧いただきたいですね」
 
──最初にお話した“線”としてのつながりですね。監督が台湾を追い始めて10年を超える年月が過ぎました。大きなテーマだけに、取材してこられたものからのフィードバックもあったかと思います。いかがでしょう?
「台湾の日本語世代と向き合う度に“反射”があり、彼らが写し鏡になって、日本人である自分の姿や今の日本という国の在り方、そういったものを見せられる、考えさせられる体験をいつもしています。今回、「アイデンティティー」という言葉を持ってきたのは少し小難しいかもしれませんが、私自身の「そもそもアイデンティティーって何?」という思いからはじまっていて、前作『台湾人生』の取材で、ひとりのお婆さんが「何人として死んでいけばいいか分からない」と仰ったんですね。日本人の両親の下で生まれ、日本語で教育を受けて、日本の社会の中で今まで生きてきた私は、自分が日本人であることを特に意識することもなかったですし、「自分が何人で何者なのか」を具体的に考えることもありませんでした。でもそのお婆さんの言葉を聞いたときに、なんとなく「アイデンティティー」ということを考えるようになったんです」
 
──本作では、監督がそれを出演者に問いかけますね。
「当時からこの映画を完成させるまでは、たとえば国籍や人種、民族、そういう“枠”にはめられるものがアイデンティティーだという視線を持っていました。ですので、本作では私が「あなたは台湾人ですか? それとも日本人ですか?」、あるいは「何人として死んでいくんでしょうか?」と訊ねます。この映画を作り終えて気づいたのは、そういう枠を超えて、おひとりおひとりの人生の中にこそアイデンティティーがある。むしろ、人生の中にしかその人のアイデンティティーはないと私自身が思えるようになったことです。取材を続ける中で、「アイデンティティー」の捉え方がガラッと変わった。日々成長させていただいている、勉強させていただいていると感じます」
 
──今、話して下さったことが答えになっているようにも思うのですが、今日はタイトルの由来も質問として用意してきたんです。
「実は『台湾アイデンティティー』は、仮題として制作前からあったんです。タイトルは全然意識していないつもりでしたが、最終的にはそこを考えながら作っていったことになるんでしょうか。『台湾人生』は映画が出来上がったあとに付けたタイトルでした。でも今回はこのタイトルありきではじまったプロジェクト。もちろん仮の題名ですから完成したあとに変えることもできましたが、「これでいこう」と思ったのは、私なりの考えの変遷などがすべて詰まっているからといえます。「アイデンティティー」という言葉に少し身構える方もおられるかもしれませんが、ひとりひとりの人生=アイデンティティーと捉えていただきたいですね」
 
──大きな歴史と構えず、まず個人史として観れば、飲み込みやすさも変わってくるかもしれません。
「……でも今、自分で話していて気づいたんですが、人生=アイデンティティーということは……前が『台湾人生』、今回が『台湾アイデンティティー』。あれ!? ちょっと(笑)」
 
──実は変わっていなかったと。もしかするとタイトルは『台湾人生2』でも良かったのかも(笑)。だけどテーマにブレがないとも受け取れますよね。
「そうですね。振り返るとそうだったことに今、自分が気づかされたという……(笑)」
 
──酒井監督の中でも“線”としてつながっていることの証明なのでしょう(笑)。ところで近年、フィクション/ドキュメンタリーを問わず、複数のアイデンティティーを持つ人間を描いた映画が何作か公開されました。『台湾アイデンティティー』の公式ホームページにコメントを寄せている、ウェイ・ダーション監督の『セデック・バレ』もそのひとつです。ご覧になりましたか?
「はい。実は『台湾人生』の頃にもう台湾でウェイ・ダーションさんにお会いしていて、そのとき彼は『海角七号 君想う、国境の南』を作っていたんですよ。「いや、でも僕が作りたいのはこれなんだ」と言って見せてくれたのが、『セデック・バレ』のパイロット版でした」
 
──その短いパイロット版で支援者を募ったんですよね。
「ええ。当時、彼が仰っていたのは、「霧社事件をテーマにするけども、セデック族と日本人の対立じゃなく民族の尊厳、人の尊厳を描きたい」ということでした。今回の作品の制作中に台湾で日本語字幕の付いていない『セデック・バレ』を観ることができて、想像で補う部分も多かったですが、あとで日本語字幕の付いたものを観たら「大体理解できてたんだ」って(笑)。でも台湾で観たとき、「何年も前から言っていたことをちゃんと貫いたんだな」と感じました。目指していたことが表現されているのには感動しました」
 
──紅一点の高さんの父・高一生さんは『セデック・バレ』に登場した、自決する花岡一郎さん、二郎さんとほぼ同世代にあたるんですね。さて、この取材の前に酒井監督の著書『台湾人生』を読ませていただきました。この一冊だけでも、台湾の日本語世代のことはかなり理解できるし、ひとつの作品として十分に成り立っている。その後も取材を続けてこられて、文字で発表する選択肢もあったと思うんですね。ライターの片倉さんからの相談も発端のひとつだったということですが、再び映画にしようと思った大きな理由はどこにあるのでしょう?
「私は映画の世界に入る前に新聞社の記者、文字で伝える仕事をしていたんです。だからこそ、文字の力も分かった上で映像の力を試したくて映画の世界に入った。今、振り返ってそう思うんです。こうして映画を作るようになって改めて感じるのは、特にドキュメンタリーでは登場人物がどんな表情でその言葉を語るのか? 言ってみれば顔の皺の一本一本まで伝えられるということ。今回、台湾の日本語世代に日本語でインタビューをして、日本語で答えていただきましたが、彼らのちょっと独特なイントネーションなどもそのまま音声として伝えられる。やっぱり文字の力を信じていたからこそ、映像にチャレンジできたと思っています」
 
──文字にすると平淡になって失われるものがありますしね。
「そうなんですよね。読む人の想像に委ねるしかなくなってしまう」
 
──このインタビューも、酒井監督のやわらかい語りのトーンが読んで下さる方へ伝わることを願っています。最後に訊かせて下さい。著書『台湾人生』のあとがきに監督はこう書かれています。「この本を読んで台湾を訪れる人がいてくれたらうれしい。台湾を旅するとき、日本語が流暢なお年寄りに出会ったら、その日本語の裏側にどんな人生があったのか、ほんの少しだけ思いを寄せてほしい」。本作の関西での劇場公開にあたってもこの思いは変わりませんか?
「私自身の台湾へ対する愛があまりにも強いので言葉にするのはなかなか難しいんですが、もしもこの映画をご覧いただいて「ちょっと台湾へ行ってみようかな?」と思ってくださる方がいれば最高に嬉しいことですし、実は若い方たちも、日本語世代とはまったく違う視線で日本に興味を持ち、親しみを感じてくれています。取材で台湾へ行くと、コンビニのレジの青年が「僕は今、日本語を勉強しています!」と話しかけて下さったりするんですよ
 
──そんなことがあるんですね。
「はい。そういう体験がたくさんあるので、やっぱり「百聞は一見に如かず」。東京からは三時間、大阪からだとたぶん二時間半ほどの距離だと思うので「行ってみよう」と思ってもらえたなら是非。この映画がすべてではないので、台湾を知るきっかけのひとつにしていただければいいなと思います」
 
 
                      (取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』)



(2013年9月 2日更新)


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Movie Data





(C)2013 マクザム/太秦

『台湾アイデンティティー』

●9月7日(土)より、京都シネマ
 9月14日(土)より、第七藝術劇場
 10月5日(土)より、元町映画館
 にて公開

【公式サイト】
http://www.u-picc.com/taiwanidentity/

【ぴあ映画生活サイト】
http://cinema.pia.co.jp/title/162470/

【関連情報】
酒井充子・著『台湾人生』(文藝春秋)
http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163725307