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ニコラス・レイのまぼろしの遺作
『We Can’t Go Home Again』を配給し、
爆音映画祭の仕掛人でもあるboid主宰・樋口泰人インタビュー

 「映画作家ニコラス・レイ」よりも、「ジェームズ・ディーン主演作『理由なき反抗』の監督」という説明の方がピンとくる人が多いだろうか。1950年代のハリウッドで活躍した巨匠のその後のキャリアは意外に知られていない。60年代には映画製作からのリタイアを余儀なくされ、60歳を過ぎた彼は1972年、ニューヨーク州立大学に講師として招かれ映画作りを教え始める。そこで学生をキャスト、スタッフに起用して製作したのが『We Can’t Go Home Again』だ。あらすじめいたものはなく、最多6台の映写機で投影したマルチスクリーンによるイメージ群が重なっては分裂する93分。複数のイメージが収斂しないまま、パラレルに走る実験性の濃い映像はヴィデオ・アートの影響が強く、インスタレーションに近い趣もあるかもしれない。だが確実に「映画」としか言い表せない力を宿した、なおかつ“現代的“な作品といえよう。近年のデジタル復元版完成まで目に触れる機会のなかった「まぼろしの遺作/異作」。生誕100年にあたる一昨年に東京フィルメックスと京都・同志社大学での単発上映を経て、今年、一般公開を発表した際には映画ファンを大きく驚かせた。

 今週8月10日(土)より、大阪・第七藝術劇場で公開されるこの作品の配給を行うのは、関西でも定着した爆音上映を開催しているboid。大英断(?)を下した主宰の樋口泰人氏に話を聞いた。

──ニコラス・レイといえば、真っ先に『大砂塵』(1954)、『理由なき反抗』(1955)を連想する人も多い筈ですね。

 

「そう、知られているのは1940年代末から50年代にかけての映画ですよね。60年代の初頭にはハリウッドを追い出されるように去ってゆくわけだから、50年代の大体10年間がもっとも彼らしい作品を撮っていた時期といえます。その頃の作品はハリウッドのメジャースタジオで作られていて、誰が観ても分かるものになっている。『We Can’t Go Home Again』はそこから離れて、彼がすっかりヨレヨレになってからの映画ですね」

 

──この作品と、50年代に撮ったものとのギャップに仰天する方もいるかと思います。

 

「色んな人がニコラス・レイを語るときに、たとえばジャン=リュック・ゴダール、それにフランソワ・トリュフォーもそうですが、「彼は“新しい映画”を発明できる人だ」という意味合いの発言をしている。『We Can’t Go Home Again』を観ると、本当にそうだと思うんですよ。映画界から一時期離れて、歳をとって再び映画を撮ろうとしたとき、ある程度は昔の思い出も込めていたでしょうが、過去に撮ったようなものを再び撮ろうとはしていない。全く新しい次元で、次へ向かって何かを始めようとしていることがよく分かります。逆にこの映画を通して、かつてスタジオで撮ったいわゆるハリウッド作品の中にある試みも見えてくる。つまり、新しいことをしようとしたが為にハリウッドから追い出されてしまった。これはものすごい循環というか(笑)。“新しさ”がもたらす色んな運命を背負ってしまった人なんだと思いますね」

 

──常に「新しい人」であり、それゆえの不運に見舞われたといえますね。過去の作品を改めて観ると、演出や美術など隈なく趣向を凝らしています。画面の隅まで目を向けてしまう、惹きつける点が多いのは、ハリウッド時代と『We Can’t Go Home Again』との共通点といえるでしょうか?

 

「50年代に既にゴダールがニコラス・レイを評価していたのはその部分でしょうね。フレームの中心となるようなものがひとつあって、ただそれだけを観ていればいい映画ではない。画面の“多層性”はゴダール自身の映画作りにも活かされていると思います」

 

──最初に観たニコラス・レイの監督作は『理由なき反抗』だったんですが、ジェームズ・ディーンというスターの代表作だからと華やかな映画を想像していると、子供心にその暗さ、陰りに驚いた記憶があるんです。のちに他の作品を観て「こういう映画監督だったんだ」と気づきました。

 

「やっぱり『理由なき反抗』ってメチャクチャ暗いですよね。俺が初めて観たときも「…何? これ?」って(笑)。どうしてこの作品が若い人たちにウケたのか、よく分らなかった。でも今観ると、その頃の印象と全く違う「暗さの中の若々しさ」を感じるんです。一般的な明るいイメージとは異なる、アメリカが持つ陰(かげ)の部分。そして陰ゆえに次へのステップを見つめることができる。言うなれば「伏目がちに明日を見る」ような映画になっているし、それは晩年の途轍もない作品、この『We Can’t Go Home Again』とも繋がっていますね」

 

──来たるべきものへの眼差しを持っている。でもそこで「伏目がち」だというのがポイントですね。姿勢としては、たいてい「前を見て、あるいは空を見上げて」ですから(笑)。

 

「彼はエリア・カザンなどと同じく、ニューヨークで演劇のフィールドにいた人たちがハリウッドへ来て映画を撮り始めた世代ですよね。その中のひとりではあるんですが、撮っていた映画はものすごく暗い(笑)。どこへも行き場がないような雰囲気を持っていて、しかもそれが単に破壊的とかではなく、「次」を示唆する暗さとでもいうか。そういう独自の暗さを持つ映画を撮っていた人ですね」

 

──樋口さんから見て、他にニコラス・レイの特色はどういった部分にあるでしょう?

 

「映画の「完成形」を撮っていたわけでもないし、若々しく次から次へ自分の思いやアイデアを一本の映画に詰め込んでいるわけでもない。『We Can’t Go Home Again』もたぶん、当時の現代アートの最先端の人たちが目指していたことを映画で引き受けようとした。それには彼が持つ演劇経験、演劇の要素も大きいと思うんです。つまり、映画の特性である「ひとつのスクリーン」だけに捕らわれない感性を持っていた。それがハリウッドで上手くいかなかった理由だとも思うんです」

 

──『We Can’t Go Home Again』はマルチスクリーン、複数のフレームを取り入れながら、映画自体の枠組み=フレームを超えかねない作品ですよね?

 

「『We Can’t Go Home Again』、直訳すると「もう再び家や故郷、後ろには戻れない」。タイトルが表すように、ニコラス・レイは結果的にそうなってしまうところへ行ってしまう人ともいえます。目指しているわけでなく、結果として」

 

──お話を聞いていると、ニコラス・レイにとっての「戻れない」は、新しいことに目を向けようとする意志を含んでいるのが窺えます。戻れないなら次の場所へ行こうという。

 

「うん。「戻れない」という否定形が肯定形に変わってゆくステップの踏み方が面白いといえます」

 

──遡って、樋口さんと『We Can’t Go Home Again』との出会いとをお聞かせ頂けますか?

 

「ヴィム・ヴェンダースがニコラス・レイと一緒に作った『ニックス・ムービー/水上の稲妻』(1978)を80年代に観た記憶があります。ニコラス・レイが亡くなる直前のドキュメンタリー…といおうかフィクションといおうか、その中間のような映画なんですが、そこに『We Can’t Go Home Again』の断片が入っていたんですね。断片だけ観ても、もう訳が分からないんですよ。「画面は飛び散っているし、何が起こってるんだろう? 」と(笑)。それ以来、何とかして観たい! と思っていたんですが、全然機会がなくて。すると一昨年の東京フィルメックスで上映されることになった。なのに忙しくて行けなくて結局、京都まで観に来たという…(笑)。でも観て「やっぱり凄い」と思いましたね」

 

──そこからご自身で配給されるまでのいきさつは?

 

「たまたま東京フィルメックスのディレクター、市山尚三さんとお話していて、「いやあ、字幕つけちゃったんですよ」と聞いて「えっ!? 」となって(笑)」

 

──その「えっ!?」について詳しく教えてください(笑)!

 

「上映するために外国映画を一本買い付けると、まずプリント(フィルム)などを取り寄せて、そこから字幕作業に入るんですが、下手をすると権利料より字幕をつけて日本公開用の素材を作る段階の方にお金がかかるんですよ。ところが『We Can’t Go Home Again』に関してはその過程が必要ではないことが分かった。そこでちょっと色めき立ってしまって(笑)。その勢いに「こういう映画は普通には公開できないだろうけど、時々は観たくなってしまうよね」という思いも加わりました。もし一緒に面白がってくれる映画館があったら上映したいし、仮になくてもboid では爆音映画祭や爆音上映を行っている。この映画も音がすごく面白いから、爆音の中の一本として観てもらって、そこでじわじわと広まってゆけばいいかなと考えました」

 

──ひと足早く、5月に神戸で行われた爆音上映で観たときも楽しめました。電子音が反射するような音響が際立っていて。

 

「だから通常の映画とは違う公開の可能性はあるし、それに耐えうる作品だとも思ったので、ロードショーなど公開のスタイルはあまり深く考えず、ただ「やろう! と」(笑)。皆からも「無茶だ」とは言われたんですが、俺としては“普通”でしたね。「これを上映しなくっちゃ」くらいの感じ(笑)」

 

──それでも公開が決まった際は、至るところで「これは事件だ」「快挙を超えた暴挙!」と快哉を叫ぶ人が見られました。

 

「びっくりした方も多いかと思うんですが、自分としてはそんなに驚かすことをしたつもりはなくて。市山さんから「もう字幕ついてるよ」って聞いた瞬間に心の中では決まっていた。そこからの流れが自然に出来て、その“普通”の道を通ってきた感覚なんです。別にこれで「もう帰れなくなる」わけじゃないし(笑)。特別ではない道を歩いてきたつもりなので、“普通”に上映してゆきたいなと思っています」

 

 

 飄々と軽やかに語る樋口泰人氏だが、これほどの“普通ではない”映画を劇場で“普通”に観られることは、やはり快挙と呼びたい。「難しそう」と思う方に向けても、「映画って一本の線から始まって徐々に枝分かれしていきますよね? でもこの映画は最初から枝が何本もあるので、理解しようと構えなくて大丈夫です(笑)! 映画だけじゃなく音楽、写真、アート全般に興味を持つ人に観てもらえれば」と話してくれた。実際に東京での試写会には音楽関係者たちを積極的に招き、好評を博したそうだ。テレビ番組も画面に複数のフレーム、テロップを配置しているが、それがひとつの解釈/結論へ導く手段であるのに対し、『We Can’t Go Home Again』の手法は対照的で、現代の映像の在り方についても示唆を与える作品といえる。そうした実験性と共に、予告編にもある、赤い服を着たニコラス・レイと学生との会話シーンなど、アヴァンギャルドな映像コラージュの折々にはさみ込まれた“泣き”の要素も見落とせない。

 同時公開される『We Can’t Go Home Again』のメイキング・ドキュメンタリー『あまり期待するな』(監督は最晩年の妻、スーザン・レイ)ではビクトル・エリセ、そしてニコラス・レイの“教え子”だったジム・ジャームッシュのインタビューを見ることができる。またboidは先月、『ニコラス・レイ読本』(http://boid.ocnk.net/product/79)を刊行。『We Can’t Go Home Again』、そしてニコラス・レイの入り口にふさわしい充実の一冊となっている。これらの「複数の視点」から彼の世界、人間像に接してもらいたい。『We Can’t Go Home Again』は、大阪のあとは京都みなみ会館で秋に公開予定。

 

                     (取材/文:ラジオ関西『シネマキネマ』)




(2013年8月 6日更新)


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Movie Data



(C)2011 by Charlie Levi.

『We Can't Go Home Again』

●8月10日(土)~23日(金)、
第七藝術劇場にて公開

●9月21日(土)~10月4日(金)、
京都みなみ会館にて公開

【公式サイト】
http://wcgha.com/

【ぴあ映画生活サイト】
http://cinema.pia.co.jp/title/162473/

【boid公式サイト】
http://www.boid-s.com/

第七藝術劇場の前売券(1300円)は、ぴあ店舗、セブンイレブン、 サークルKサンクスにて8月9日(金)まで販売中(手数料なし)!
チケット情報はこちら

『あまり期待するな』

●8月10日(土)~16日(金)、
第七藝術劇場にて1週間限定公開
●9月21日(土)~27日(金)、
京都みなみ会館にて1週間限定公開