「作るモノの中に自分が投影出来るから作らざるを得なくなるし、
金を儲ける儲けないの問題を超えていく。
作ることが生きることだから。自分にとって生きる支えだから。」
『飯舘村 放射能と帰村』『異国に生きる 日本の中のビルマ人』
2作品同時公開中!土井敏邦監督インタビュー
『沈黙を破る』を筆頭にジャーナリスト活動を通して故郷と土地を奪われたパレスチナ人の“痛み”を伝え続けてきた土井敏邦監督による社会派ドキュメンタリー『飯舘村 放射能と帰村』が、同監督による在日ビルマ人をめぐるドキュメンタリー『異国に生きる 日本の中のビルマ人』と共に6月28日(金)まで第七藝術劇場にて公開。『飯舘村 放射能と帰村』は、3.11から2年の時を経た現在、大震災と大津波、そして放射能により故郷と住む場所、仕事の場を失った飯舘村の人々の心境を映し出す。飯舘村民たちの切なる願いとその言葉が胸を打つ作品だ。そして、『異国に生きる 日本の中のビルマ人』は、ビルマ民主化運動デモとその弾圧から始まった彼らの20年以上にも及ぶ歩みを、日本で暮らす民主化運動のリーダー、チョウチョウソウと彼の妻を中心に追う。土井監督らが14年に渡って見つめ続けた記録を束ねた作品だ。そこで、公開を前に来阪した監督に話を訊いた。
――今回、飯舘村を舞台にドキュメンタリー映画を撮られることになった経緯を教えてください。
「3.11以降、周りが一斉に東北に向かう中、ジャーナリストのひとりとして僕は何を撮ればいいのか、何を取材すればいいのか、3.11をどう伝えるのか、最初は分からなくて悩みました。僕は長年、パレスチナを撮ってきたので、そんな僕が東北で何が出来るんだろうかと迷って、悩んだ末に行き着いたのが飯舘村でした。パレスチナは天災ではなく、人災によって故郷を追われた。イスラエルという国を作るために人為的に故郷を追われる人たちで、その視点だったら震災で故郷を追われた人たちを描くことが出来るんではないかと思ったんです」
――天災ではなく人災という共通点があったのですね。
「人災があった場所と言っても、原発事故直後から避難していた場所だと避難所に行ってインタビューをすることになります。活字の世界であれば、それで記事は書けるでしょう。でも僕らは映像です。映像で故郷を失う“痛み”を伝えるには失う前の姿が残っている場所のほうが失ったものは何なのかが深く伝わると思って。それが飯舘村だったんですよね」
――飯舘村は震災前から有名な村でしたよね。
「飯舘村というのは特殊な村で、とにかく綺麗。日本の原風景が残った本当に美しい農村なんです。周りの町とは合併せずに村として自立しようと頑張っていた村で、震災前から割と知られていた。そういった点で、私自身とっつきやすいかなと思ったというのもありますね」
――どのように撮影を進めたのですか?
「住み込みながら人々の生活や心の動きを撮っていくのが僕の撮り方なので、映画にも出てくる酪農家の志賀さんのところに10日間くらい住み込みさせてもらいました。ものすごい放射能線量の高いところですが住民のかたも住んでいますからね。彼らがどういう思いで暮らしているのかは一緒に暮らしてみないと分からない。ここは故郷を失うという視点だけではなく放射能という特殊な事情があり、それで除染という問題も出てくる。どうも戻れるような状況ではないが、国はいったい何を目指しているのだろうか。除染は本当に飯舘村の人たちのために行われているのか。映画の中で長谷川さんが言っていますが、要するにこの事故を矮小化して“なかったこと”にして原子力産業の復活、再稼働したいんでしょと。そういった国家の意図、目指すところがだんだん透けて見えてきたんですよね」
――この映画には前作があるとか。
「実はこの映画の前に、もうひとつ『飯舘村 故郷を追われる村人たち』という作品もあって、それでは村を追われていく人たちが出て行くまでを描いています。仏さまや墓を置いて行く。つまり村を追われるってこういうことなんですよね。そこで若い母親たちが「わたしはここで生まれ育ったけど、自分の村をこんなに愛しているとは思わなかった」と言っていました。生まれ育った村というのは、自分にとって空気みたいな存在。そこにもう戻れなくなって、初めて故郷とは何なのかというのが突きつけられる。第1章はそういう内容です」
――そして、本作の中でも第一部と第二部に分かれていますね。
「観た人の心に何かが残ってほしい。そのためには、映画の中の人たちの生活が見えて、その人たちの心情が見えないといけない。第2部をより深く伝えるための序章として第1部があるんです。飯舘村の人たちがどんな人なのかどんな思いで生きているのか、どんな思いで村を離れているのかが分からないと故郷を失った“痛み”は伝わらないと思った。家族がバラバラになるというのはどういうことなのかは見ないと分からない。自分の問題として引き寄せて、飯舘の人を固有名詞で見せられることで初めてその人の気持ちに近づける。伝わってくるし想像もするんですよね」
――この作品にははっきりと“怒り”が込められているのを感じました。
「本当にひとつの問題に関わったら中立なんてありえないはず。本当に伝えたいことがあり、それを伝えなくては意味がない。声にならない声を代弁するのがジャーナリストの仕事だと僕は思っています。僕はバランスを取るためにこの映画を作っているわけではなく、あくまでも除染とは何かを追った。除染のやり方がどうのこうのじゃなくて、除染そのものにどういう意味があるんですかと問うことが大事。この映画を観た人が、何のためにやるんだろう、誰が儲かるんだろう、国は何を目指しているんだろうと疑問に思ってくださればいい」
――ドキュメンタリーには客観的に撮るスタイルもありますが、そうはならないわけですね。
「つい最近、ワン・ビン監督の『三姉妹~雲南の子』を観ましたが、あの映画は撮り手が全くいないかのようなスタイルです。撮り方はいろいろあって、そういうスタイルもいいと思います。ただ、何にカメラを向けるのかで作り手や撮り手が何を大切にしようとしているのかという心情は写る。そういう意味では客観的というのはあり得ないんじゃないかな。何を切り取るかがその人の思いなはずだから。」
――確かにそうですね。
「実は『三姉妹…』を観て、この人は何を伝えたいのかなと思ったんです。僕は映画作家ではなく、ジャーナリストなんです。ジャーナリストというのは伝えたいものがあって、それに執念していくんです。映像作家は映像そのものの中の意味を相手に委ねているんですよね。『三姉妹…』はまさにそれで、感性を試されているんですよね」
――そうか。同じドキュメンタリーと言ってもまったく別ものなんですね。さて今回、『異国に生きる 日本の中のビルマ人』と同時に公開したのはどういった意図が?
「『異国…』は、1998年から最後の2年間はアシスタントが撮ったんですが、14年間撮影しています。アシスタントが私のところに来て「ドキュメンタリーを作りたい」と言ってきて、僕がずっと撮りためてて倉庫に眠っていた映像を「コレを素材にドキュメンタリー作ってみるか?」というテーマを彼に与えたところから始まりました。それで2年くらいかけて僕の撮った素材に自分で撮って付け足したものを一生懸命作った。その中に、彼が在日ビルマ人が震災にボランティアに行くシーンを撮ってきていて、これは今出さなきゃなと思ったんです。それで、映画館の方がこの映画にすごく感動してくださって、いつ出すかタイミングに悩んでいたんですが、3月下旬のアウン・サン・スー・チーの来日に合わせれば(東京では3/30~4/25まで上映)観てくれる人もいるだろうと、このタイミングになりました。」
――では、同時に出したのは偶然なんですか?
「映画をひとりの人間が発表するペースは1年に1本出すか出さないかくらいでしょう。映画を1本作るというのは大変な作業ですから。物理的には無謀なんですよ(笑)。僕の希望としては、1ヶ月でも2ヶ月でもずらして上映したいと思っていました。ではなぜ、飯舘村もこの公開時期にしたのかですよね。飯舘は春になると本格的に除染が始まります。だからこそ、このタイミングで除染とは何かを考えなければいけない。物理的にちょっと難しいのは分かっていたんですが、今でないといけなかったんです」
――特に長年撮り続けていた『異国に生きる 日本の中のビルマ人』への思い入れは深いでしょうね。
「人間がどう生きるのか。いや、人間なんてあいまいな言い方ではなく僕ですね。僕自身が一度しかない人生を、どう生きることが深く生きることなんだろうか。どう生きるべきなのかを問われる作品です。それは僕自身のテーマでもあるんです。過酷な状況の中で人のことを思い、彼らは「自分の幸せは社会の中にある」と言うんです。民主化のために14年間、家族と離れて暮らしていて「自分のためだけに生きるのはつまらなくないですか?」と言う。そういう意味ではこの2作には“社会の中に自分の生きる意味を見出していく”という共通するところがあるのかもしれませんね」
――この2作だけでなく監督の作品には“どう生きるか”を問うというところが共通していますね。
「自分への問いかけなのかもしれないです。挫折して迷い、この歳になっても自分の生き方が分からないでいる。自分の中の模索だろうという気がしています。自分と離れてモノは作れない。作るモノの中に自分が投影出来るから作らざるを得なくなるし、金を儲ける儲けないの問題を超えていく。作ることが生きることだから。自分にとって生きる支えだから。人と出会い、その人たちの中に自分の生き様を投影することがある意味“作る”ということ。要するに伝えるということはどういうことなのかということです。伝える自分がどう変わってどう成長していくか。どう心が豊かになっていくのか。だからこそ伝えることに意味がある。僕にとって映画を作るということは、人間として成長するためのひとつのプロセスなのかな。作品ひとつひとつは僕が生きてきた軌跡であったり、その時の僕の思いの記録だったりするんです」
――監督にとっての挫折や葛藤とは。
「小学校のときにアルベルト・シュバイツァーに憧れて、大きくなったら医者になりたいと思っていました。その夢を追いかけてずっと医学を勉強していましたが、受験の失敗で挫折したんです。自分の目的を見失い、浪人時代に自殺を考えたこともありました。それで、自分の生きる目的を探すために大学を休学して世界を放浪したんです。その時、偶然パレスチナを訪れたことから、これがライフワークとなっていきました」
――そうだったんですか。
「パレスチナの方々に自分と同じ痛みを感じたのかもしれない。我田引水ですが、あの挫折が人の痛みに対する共感を僕の中に作ってくれたのかもしれないと思ったりもします。人の感動というのは、作り手自身が感動していなければ伝わらない。ジャーナリストにとって一番大切なことは「こんなことは許されるか!」という“怒り”それと、やっぱり“感動”ですよ。これを失ったらジャーナリストとしてやっていけないと思う。特にフリーランスはね。人から命令されてこのテーマを選んだわけではないし、自分の生き方として何かが引っかかったから撮るわけですから」
――作品を作っている間も苦悩されることはありますか?
「具体的に言えば、どうすれば相手の心を開けるんだろうかというのが勝負。『飯舘村 放射能と帰村』に出てくるお母さん方も、僕が自分の経験や思いを話して、第1章も観てもらって、初めていろいろ話してくれました。どこまで近づけるかが勝負だと思う。今回は僕のうぬぼれかもしれないけど、かなり近づけたと思っています」
(2013年6月18日更新)
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土井敏邦 監督
どいとしくに●1953年、佐賀県生まれのフリー・ジャーナリスト。1985年以来、パレスチナをはじめ各地を取材。1993年よりビデオ・ジャーナリストとしての活動も開始し、テレビ各局でパレスチナやアジアに関するドキュメンタリーを放映。2009年、劇場公開された『沈黙を破る』はその年のキネマ旬報ベスト・テンの文化映画映画部門第1位に。次作となった2012年1月公開の『“私”を生きる』はその年の同賞のキネマ旬報ベスト・テンの文化映画映画部門第2位となった。著書も多数あり。
Movie Data
(C)DOI Toshikuni
『飯舘村 放射能と帰村』
●6月28(金)まで、第七藝術劇場
●7月6日(土)~12日(金)、
神戸アートビレッジセンターにて公開
【公式サイト】
http://doi-toshikuni.net/j/iitate2/
【ぴあ映画生活サイト】
http://cinema.pia.co.jp/title/162107/
Event Data
トークイベント決定!
【日時】6/22(土)14:00の回上映後
【会場】シアターセブン
【料金】通常料金
【トーク(予定)】藤波心さん
※第七藝術劇場にて上映後、
シアターセブンへ移動となります。
(C)DOI Toshikuni
『異国に生きる 日本の中のビルマ人』
●6月28(金)まで、第七藝術劇場
●7月12日(金)~16日(日)、神戸映画資料館
にて公開
【公式サイト】
http://doi-toshikuni.net/j/ikoku/
【ぴあ映画生活サイト】
http://cinema.pia.co.jp/title/161841/